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小説③「群衆とネズミ」全5話

 同僚のツエマチ君が戻って来たのは、僕がビルの横にある水道で雑巾を洗っている時だった。

 逆立ったオレンジ頭が見えたので振り返ると、彼が無邪気に「やっほー!」と手を振っていた。両手には、掃除道具ではなく袋を抱えている。恐らくは体力が有り余っているので、またしても上司に、ちょっとした小遣いをもらって買い出しにやられていたのだろう。

 小柄で細い体躯をした彼は、まだ二十歳そこそこで、顔にはまだあどけなさが残っている。孤児院の出身で、この仕事を始めて四年。他にもいくつかちょっとした仕事を掛け持っていて、孤児院の上の階にある部屋の一つを賃貸し、現在は十数匹の野良猫と暮らしているのだとか。彼は、まるで子犬か猫のように人懐っこい性格で、誰にでも好かれた。

 ツエマチ君は、ウインクを残して一度社内へと消えた。僕が雑巾を干し始めて間もないうちに、早々と出てきた。

「ふう、おっかねえ上司! 先輩のところに行く前に、あやうく説教を延々と聞かされるところでした」
「何かやったの?」

 手元を見つめながら尋ねた僕に、彼は「いんや」と首を横に振って見せた。

「いつものアレっすよ、人間が出来る出来ないの年頃から意識を持って頑張れば、俺みたいなアホでも、素晴らしい人間になれる、とかいう胡散臭いやつ。ほんと、我らが上司は、嫌なお喋りを極めてますなあ」

 ツエマチ君は、世界の法則が解けたわけでもないのに、そんな顔をして「ふむふむ」と自身の言葉に納得したのように頷いて見せた。けれどすぐ、ふと彼から無邪気さが消える。

「ま、別にいいんですけどね」

 一つの空白が、沈黙となって僕らの間を流れていった。

 雑巾を干し終わった僕は、ツエマチ君に目を向けた。彼の無感情な瞳が、何かを切り捨てるかのように、ゆっくりと宙を横切ってゆく。

「ああ、それにしても、暑いっすねえ」

 年頃の、好奇心が宿った目で、ツエマチ君がこっちを見てそう言った。

 空を見てくださいよ、と指を向けられた僕は、ビルの影から彼と一緒に空を見上げた。薄いヴェールの霧につつまれたような青だ。現実味もはっきりとしないような、曖昧な距離感を覚える空が、そこには広がっている。

「知っていると思いますけど、三日間の夜、ってやつが始まるらしいんスよ。世界が変わるんだとか、なんとか……。でも、なんだかテレビの向こうは、俺達とは違う世界みたいですよね。俺、バカだからうまく言えないんスけど、なんだろ、テレビ画面の向こうに新しいドラマか映画を見ている感じで」

 と、ツエマチ君が僕へ目を戻した。

「先輩の部屋には、テレビありますか?」

 そうツエマチ君が訊く。僕は「ないよ」と答えてこう続けた。

 でもお客さんの部屋ではずっとその話題ばかり流れていたし、食堂でもどこでも、設置されたテレビでは、いつも三日間の夜の話とかで持ち切りだったからね。それに、たいていの人が噂しているから……。

 だから報道されている内容は知っているのだと、僕は述べた。すると、

「ただ夜が続いて、そのあと新しい時代が始まるなんて呑気ぶるのは、大間違いじゃないスかね?」

 不意に、彼が形のいい引き締まった唇の角を、くいっと持ち上げて言った。

「新しい時代が始まるなんて言っているけど、どうせ俺らを除くってところでしょ。ここの連中は、誰一人そう思っちゃいないです、本当は世界なんて次こそ終わっちまうんだ。テレビの向こうはどうか知らないけど、俺達にしてみれば、あっちは何もかも夢物語っスよ。繰り返し見せつけられる、ドラマや映画なんかの延長線だ。ここに立って辺りを見回すと、まるで朽ちた世界の中心にいるような気がしませんか? 平面のテレビ画面ではなく、やっぱりこの目に映るものこそが、俺達の現実なんです」

 ツエマチ君は、皮肉に歪んだ笑みを浮かべた。けれど、今にも泣きそうな顔がそこにはあった。

「だって、そうでしょう? こんなの理不尽ですよ。誰が俺達を守ってくれるんですか? どうして、テレビの向こうの連中は何もしてくれないんですか? 必死に生きて、足掻いて、頑張って、それでいつか幸せになれるなんて保証してくれるような希望すら俺達からは遠いのに、テレビに映る世界は、皆で助け合おうって微笑んで、幸せな家庭がいくつもあって、捨てられる子供なんていなくて……」

 彼は声を震わせ、言葉を切った。

 込み上げる激しい感情を抑えているのだろう。ツエマチ君の顔に浮かんでいたのは、強がる笑顔と、隠しきれない困惑、そして絶望を受けとめなければならなくなった人間の眼差しだった。

 それは僕が、これまで考えたこともなかった『未来』の話だった。けれど僕は彼の言葉の中で、一つだけ、自然と受け入れられる考えがあった。

 そうか、これまでの僕と同じように、みんなテレビに映る世界に違和感を覚えていたのか。画面から伝わる全ては、最下層の人間として生きる僕らにとっては、結局のところは全て嘘のような別世界の話で、結局のところ、僕らにとっては『ここ』だけが本物の現実で。

 ああ、僕らは何か大きな秘密を隠されたまま、朽ちていく世界の真ん中に立っているのかもしれない。

 大昔に世間を騒がせたという世紀末も、結局は起こらなくて、いくつもの過去が風化して旧市街地はすっかり寂れてしまったのは事実だった。少し前の都が、大きな計画のもと、莫大な予算を投じて別の土地へ移されたように、災害を見越した政府は旧市街地を残して、新しい土地へと逃げ出していったのだ。

 見捨てられたこの大きな町は、電力をあまり多く使わない旧式タイプの電車が、今も短い路線を残して稼働しているばかりだった。始発から終点まで、代わり映えのない荒廃した土地が続く。稼ぎもないので、僕はその先にある夢物語のような世界を見たことはない。

 テレビに映る自国は、清潔で美しかった。そこには僕らの町にはない全てが、何もかも揃っているかのようだった。

 無法地帯のような旧市街十三区では、これまで流行り病があり、大小様々な暴動もあって、毎日のように犯罪が起こり武器や人間の売買もあった。けれど、そんなことでは生き続けられないと悟った誰かがいて、暗黙のルールのようにして、今の静かな暮らしが定着していったのだ。子供が増えれば食べ物にも困るから、そういったことは次第に謙遜すらされていった。

 僕の母親は、幼い頃に過労と栄養失調で死んだ。

 あの時、僕自身がどういう行動をとったのかは、もうよくは覚えていない。

 当時の記憶はおぼろげで、ほとんど欠けてしまっていた。父親は初めから知らない。孤児院で働かせてもらいながら衣食住の世話になり、外で稼げるようになってから、今の職場近くのアパートの一室を借りたのだ。

 そうやってこれまでを振り返ってみた僕は、もう一つの違和感に気付いた。なんだか、思い出す僕の過去の残像すら、別の世界の延長線みたいだなあと思う。

 過去の僕の道筋は曖昧で、そうして十八歳から清掃会社で働いてからのことさえも、まるで現実味がないように感じた。

「先輩、世界が本物だとか、偽物だとか、結局はどっちだっていいんですよ……同じように続く毎日に、ようやく一つの変化がやってきて、それだけで皆、もうじゅうぶんなんだと思います」

 ツエマチ君が、ぼんやりと遠くを見やってそう言った。

「果てのない毎日の延長線に、ポンッと終わりがやってくる。いや、もしかしたら本当は世界の終わりが半分は完了してしまっていて、ここが、本来あるべき今の世界の姿なのかもしれない」

 僕は、そうかもしれないな、なんて思った。テレビの向こうは作られた世界で、本当は、もうどこかしこも、ほとんどここと変わらない酷い町々が続いているのかもしれない、と。

「俺達は、終わりかけた世界の真ん中で、モニターの中に儚く消えてしまった未来を見ているんスよ。この世界には、きっともう、素晴らしい場所なんて一つも残っていやしない。誰かが裏で大きな陰謀を引いて、俺達全員を騙しているんだ」
「そうすることで、誰が一体どんな得をするんだろうね」

 僕がそう尋ねてやると、ツエマチ君は「ははっ」と乾いた笑みをもらし、鼻の上にくしゃりと皺を刻んだ。

「先輩、面白いこと言いますね。でも、そうだな、自分達こそが人間の上に立つ人間だ、と思っているバカな連中が、王様や神様を気取って、自分達がしたくない苦労の全てを、俺達に押し付けて人生を謳歌しているのかもしれませんよ」

 冗談混じりだと言わんばかりに、彼は笑いを装って言っていたが、目はニコリともしていなかった。生きることすら疲弊し、絶望しきった中年の男を思わせた。

 ふい、とそのまま視線をそらされた。彼の目は、どこかぼんやりと遠くを見るばかりで、特定の対象物に焦点が合わされていない。

「寝不足なのかい」

 僕がそう声を掛けると、

「ちょっとだけっス」

 ツエマチ君が、向こうを見つめたまま肩をすくめた。俺は話をたくさんしなければならなかった、そして、それはここ数日激しく続いていたのだ、と、彼は独り言のように呟いた。

 少しの間を置いて、ツエマチ君はまた一人ごとのようにこう続けた。

 しかし、今日はもう話し合いもないだろう。出会い頭に少ない言葉が交わされ、各々のベッドにいつものようにして寝入り、それぞれが自分の定めた時刻に起床する。けれど、そんなには眠れないと思う。俺達は似たような強い予感を持っていて、それは現実が、ガラガラと崩れ落ちて行くのに似ている。夢を見ているようでもあるのに、まるで悟ったような冴えも感じるんだ……

「はじめは、戸惑ってる奴も多かったんですよ。でも、だんだんと分からなくなってきたんです。まるで、誰かに意思を操られて誘導されているんじゃないかって、思っちまうぐらい……」

 ツエマチ君の足元が、一瞬危うげにぐらついた。彼は両腕をだらりとさせたまま足を前後に開き、重心を固定して顎を持ち上げ、僕を見た。

「……人間、きれいなままやっていくには、相当の努力が必要なんだと思います。でも、誰もがもう限界なんですよ。このままが永遠、いや、もうしばらく続くだけでも、俺らは耐えられないと思います。『あいつら』は、俺達が、自分達と同じ人間だってことすら、すっかり忘れちまっているんじゃないですかね。だから俺も、どうでもいいや、っていうか……」

 彼は言い淀んだ。まるで、僕に打ち明けていいのか悩むように、しばらく視線を足元に落として考え込む。

「俺達が同じ人間であることを、奴らに知らしめてやるんです」

 とうとう、ツエマチ君がそう切り出して僕に目を戻した。

「先輩、これ、どういう意味か分かりますか?」

 彼は僕と目が合うと、途端に申し訳ないような、それでいて自信がなくなったかのような、よそよそしい眼差しをした。

「分かるよ」

 僕はそう答えた。胸の奥底に隠され続けた黒い感情は、いつしか我慢の限界を超えて、僕ら人間を耐えられなくする、といった先輩の言葉を思い出していた。

「無理なら、傍観者に回ってくれても大丈夫だと思いますよ。俺、先輩がどんだけいい人で、乱暴な仕草も暴言の一つもしない人だって知っているんで……」

 ツエマチ君は、もごもごと言葉を続けた。

「俺は仲間と一緒に、ただこの町の警察を潰していくだけです。警察だけじゃない。警備だとか、管理だとか、俺達をさんざん痛めつけて愉しんできた連中に、今こそ報復してやるんです」

 知っていますか先輩? 俺らの生きる世界は、とっても醜くて汚いんですよ。優しくて誰よりも人間として立派だった子が、親無しだから人権なんて関係ないと言われて、のうのうと普段はデスクに座っている奴らに、いいように強姦されて、飽きると口封じのために平気で殺されていく現実を――。

 語るツエマチくんの拳は、固く握りしめられて震えていた。歪んだ笑みは、強い怒りを完全には抑えきれていなかった。僕は気付いて尋ねた。

「その子は、君の大切な子だったのかい?」

 すると、彼は一瞬固唾を飲んで、それからコクンと頷いてみせた。

「同じ施設を出た俺達は、血は繋がっていないけど兄弟で、彼女達は、俺達にとってみんな可愛い妹達でした」
「僕にも大切な人がいたよ」

 そう答えた僕自身以上に、ツエマチ君が驚いたようにパッと目を向けてきた。普段あまりしゃべらない僕が、こうやって自分のことを話すのは滅多になかったからだろう。

 僕は彼の話を聞いていて、唐突に、母親やカナミ先輩のことが脳裡を過ぎったのだ。そうして今更になって、僕は、彼らがとても好きだったことを思い出した。

 必死に神様に祈っていたこともあった。母さんの病気を治して下さい、どうか先輩を助けて下さい、僕のもとから遠くへ連れて行かないで下さい、と……それなのに、これまで僕はずっと忘れてしまっていたのだ。

 ぎしり、と胸の奥で歯車が重く動く音を聞いた気がした。ああ、と、吐息をもらして空を見上げる僅かな動作だけで、身体がぎしり、ぎしりと軋みを上げるかのようだった。

 こんな風になってしまったのは、いつからだったろう。

 誰かに対して親しくしたいという気持ちを、僕は初めて先輩に持っていたのだ。

 僕は先輩であるカナミさんと、約二年を過ごした。彼はいつまで経っても、どこかあどけなさの残るきれいな顔をしていた。肌の色が白くて、それでも紳士という言葉が似合うほどすらりとした身体は立派な青年のもので、ぼくは彼のような大人になりたいと願いながら、二十歳を迎えた。

 そう二十歳、二十歳だった……僕は、思わず口の中にこぼしてしまっていた。あ、と遅れた気付いたものの、ツエマチ君を見てみれば、一人想い耽って気付かないでいる。

 そういえば、彼はカナミさんのことを知らないのだ。誰よりも慈愛に溢れた微笑みを浮かべたカナミさんを見たら、きっとツエマチ君も一目で好きになっていただろう。僕と同じようにその背を追いかけて、今のぼくを慕ってくれているように、愛想よく「先輩」と声をかけて他愛のない話を持ち掛けたりして……。

 当時、僕は何も知らなかったんだ。結局は、カナミさんの背負っている一つさえも、一緒に背負ってやれなかった。

 カナミ先輩は、いつでも微笑んでいた。弟を見つめるような温かさは優しさだったり、少し寂しげだったり、心配するようだったり。そのどれもが柔らかで、人間らしい感情に満ちていた。

 二十歳のあの日、僕は、何か理由があって予定外のタイミングで会社に戻った。その前後にどんな行動理由があったのか、数年経ってしまった今はもう覚えていない。ただ上司に叱られたくないことばかりを憂鬱に考え、どうか彼がいませんように、と二十歳になりたての子供心でそぉっと扉を開けたのだ。

 曇った窓ガラスはブラインドが下ろされていて、室内は薄暗くなっていたのを覚えている。けれど冷房がよく効いていて、外の熱気が一気に拭われ、ぞっとするほど冷たくも感じた。

 ぶぅーん、と耳障りな冷房機の稼働音の中で、二つのくぐもった物音が低く響いていた。それが一体何なのか、僕はしばらく分からなかった。

 苦痛と快楽の間で揺れるカナミさんの押し殺した泣き声と、彼を愉しげに罵りながら上機嫌に喘ぐ上司の声。そこから僕の記憶は更に曖昧になるが、外の熱気で浮かんだ汗の粒が頬を伝う中、積み上げられた段ボール箱の向こうに、カナミさんの悲痛な顔がちらりと覗いていたのだ。

 それを目に留めた瞬間、胸の中で得体の知れない感情が爆発して、同時に足がすくんで動けなくなった。けれど熱くなった股間の痛みは膨張し、僕は耐えられずそこから逃げ出したのだ。走って、走って、走り続けても熱は収まらず、気付けば僕は、泣きながら町の建物の影を一人で歩いていた。

 その時、回想に耽っていた僕を呼ぶ声がした。

「先輩」

 目を向けてみると、ツエマチ君が、心配そうな顔で僕を覗き込んでいる。

「どうかしたんですか? あの、もしかして俺、内容もクーデターだし、やっぱり先輩を辛くさせることを言ってしまったり――」
「いいや、なんでもなんいだよ」

 僕は、記憶を胸にしまって彼を見つめ返した。ツエマチ君は、「そう、ですか」と言葉を濁すと、近付きすぎたことに気付いたかのように、そろりと距離を置いた。

「ずっと報復を望んでいたのに、まだ良心が完全には消えてくれないんです」

 そう切り出した彼が、細い肩をぶるっと震わせて「きっと怖いんでしょうね」と己の震える手を見下ろした。

「いつかはヤってやるって、報復のことばかり考えていた。でも仲間と一緒に武器を集めて、実際にその日を迎えるのをブツを前に想像したら、こ、怖くて……徹底して人間をやめない限り、俺達は結局、人間であることから逃げ出せないんだなぁ、て……」
「そうかもしれない。だから僕達は、もしかしたら気付きたくないから目をそらして、そんなことを考えまいとして自分にも無関心でいようとするのかもしれない」

 僕はそう答えた。

「でもね、ツエマチ君。きっと君は正しいんだ。仲間の多くが許して正当化した行為であったとしても、自らの手で暴力を出そうとすることを怖がる君は、きっと正しい」
「でも先輩、俺はずっとひどいこと考え続けていたんです。にこにこ笑っている間も、いつかはこうやって殺してやるだとか、それで明日には銃を持って突撃するのに……?」

 でも僕は、それを怖いだとかは、もう感じない。

 くしゃりと泣きそうな顔をした彼を、じっと眺めながら僕は思った。君は僕を優しい人だというけれど、君こそ優しいきちんとした人間だよ、と思って彼を見つめていた。

「ツエマチ君。もし、徹底して人間らしさを手放したとしたら、その時、最後に残る醜くておぞましい思考は、歯止めのきかない人間の欲や悪意そのものなんじゃなかろうか。そうしたら君は、君が大切に思っていることすら、きっとよく分からなくなってしまうと思う」

 今の、僕みたいに。

 ツエマチ君は、ちょっとよく分からないというような顔をした。僕の目の中に解答でも探すみたいに、まじまじと見つめてきたかと思ったら、少し照れた少年みたいにして離れた。

「先輩とこんな風に長く喋ったの、なんだかはじめてな気がします」
「そうかもしれないね」
「でも先輩が笑ったのは、ここ四年一度だって見たことがないです」

 僕自身、覚えている限り自分の笑顔を知らないでいた。

「じゃあ、また明日」

 僕か手を軽くあげて挨拶すると、彼のまだ幼さが残る顔に苦笑が浮かんだ。彼は「先輩にはかなわないなぁ」と言いながら頬をかいたのち、「また明日」と返してきた。

「俺、実をいうと、先輩のこと結構好きですよ。あっ、いえ、その、別に変な意味ではなくて、ですね……美人系というか、ああ、そうではなくって! えっと、空気がすごいきれいというか、人として尊敬できるというか……えぇと、その、いつも落ち着いていて、先輩ってすごく大人なんだなぁって……あの! 今度、俺の仲間を紹介しますから」

 彼は目の奥に使命感や正義感を再び灯すと、勇気づけられたように笑い、明日起こす行動に加わらないかといった詳細事項について再び出すことがないまま、最後にそうとだけ告げて道の方へ駆けて行った。

 僕は彼を見送ると、最後の片付けのため自分のロッカーへ向かうべく会社の中へ戻った。冷房の利いた社内には、相変わらず上司が一人だけでいて、明日の業務日程が記された用紙を睨んでいた。

「他の連中はまだか?」

 僕に気付くと、彼は顔を上げて怪訝そうに顔を顰めてきた。恐らくは、夕刻の時間から始まるという「三日間の夜」の、太陽が隠れるという現象を見がてら早く帰りたいのだろう。

「現場まで少し距離がありますからね」

 僕は今日に限ってはとくに早く帰りたい上司に、察しつつそう相槌を打った。ウチの会社には、がたがたと今にも死にそうな音を立てて走る錆だらけのバンが二台あったが、ほとんどの社員は、燃料代をケチる上司の指示で、徒歩で荷物を担いで仕事にあたっている。

 上司は、面白くもなさそうに椅子に背を持たれた。

「ウチの妻達も、地球外交流やら宇宙船やらと騒いでいたがね。あれは地球産のバカデカい巨大住居型宇宙船とやらじゃなかったのか? 惑星関係だと専門家はずっと発表しているわけだが、まぁ、三日間の夜ねぇ。一体どうなることやら」

 彼は曇った窓ガラスから見える、まだ眩しい外へと目をやった。気楽な傍観者達が、彼と同じようにして時々外を眺める様子を思いながら、僕はしばらく立ち尽くしていた。

「お疲れさまでした」

 僕はようやくそう言った。

「ああ、また明日」

 そう上司が上の空で答える。そうそう、明日は多めに君の分の珈琲をいれておいてやろう。夜がしばらくは続くみたいだから、うっかり勘違いして眠くなったりしたら大変だ……

 本当にそうするのかなんなのかも分からない彼の笑い声が、フィルターの向こうから聞こえるように遠く感じた。僕が冗談というやつさえ理解することができず、ぼんやりしていると、上司が「やれやれ」と肩を竦めてこうシメた。

「まあいいさ。君が生真面目な男なのは知ってるよ。今日もお疲れさん」
「はい。お疲れさまでした」

 僕は外へと出ると、静かに扉を閉めた。

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