【第3話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~
「明日には死ぬだろう」
寝室に荷物を運びこんだあと、祖父はいつものように床の上に腰を下ろすと、唐突にそう切り出しました。
「明日の晩までは、どうも越せそうにない」
「じゃあ、明日おじいさんが死ぬとしたら、明後日に母さん達を呼べばいいのですか?」
祖父は「そうだ」と肯定したあと、僕にも約束事を改めて確認させました。
電話回線は、午前十一時から午後六時までの間だけ繋ぐこと。午後六時までには、屋敷内すべての戸締りをしなければならないこと。午後六時から翌朝の太陽が出るまでは、寝室にいなければならないこと――。
「他にもあるが、あとで教えることにしよう」
祖父はもともと口数の少ない人でしたから、僕は積極的な祖父の様子に少し驚いてしまいました。彼はすべての土地を売買することを決めており、入るお金の分割内容もすべて遺書に記して準備してある、と教えてくれました。
話を聞くに、祖父の方は準備をすでに終えていることを知りました。死に装束は支払いが済んでいるので、老舗※※店で受け取るように、ということまで決まっていました。
屋敷にある細々とした荷物や置物についても、どうするかといったことを詳しく分類して遺書には書き記した、と祖父は長い時間をかけて語りました。難しい内容が多かったので、僕は相槌を打ちながらも、話の内容を忘れていきました。
祖父は、表情もしっかりとしていて口調もはきはきとしていました。それでも、体力はひどく弱り衰えたままでした。話し出して十数分後には横になり、そのあとは息を整える時間を挟みながら語っていました。
色鮮やかに映る世界の中でも、その光景は古い写真の色をしているような気がしました。けれど、以前の眼球とは比べ物にならないほど、綺麗です。
過去の時間が艶やかに蘇り、古い時代の空気を呼び戻して輝いているようでした。話す祖父の身体は、昼間の世界の眩しい光りをまとい、やはり僕は寝室の隅に座って飽きもせずに彼を眺めていました。
屋敷の中では、非常にゆっくりと時間が流れているようでした。陽が傾き出した頃、僕と祖父は寝室で遅い昼食をすませました。
食後に薬を飲むと、祖父は眠そうに目をこすり始めました。――最近は眠りが長くなっており、明日の朝日が昇るまでは起きないだろうと僕に告げ、祖父は床に横たわると、続けてこう言いました。
「午後六時までには、すべての戸締りを済ませなさい。そして、お前は決して寝室から出てはいけない。夜になると縁側から尋ねる者があるが、『いいえ』とだけで、他には口も耳も貸してはいけないよ」
眠気に勝てず目を閉じた祖父は、うわ言のように、しばらく同じ約束事をぼそぼそと喋っており、僕は再三聞いたあとで「わかりました」と答えました。すると祖父は、安心したように静かな眠りへと落ちて行きました。
祖父の屋敷には電球がありません。日が沈めば真っ暗になります。祖父は早く寝てしまうものですから、必要としていなかったのでしょう。今回は僕のために蝋燭を用意してくれていました。
蝋燭立てと、箱にしまわれた新品の蝋燭、マッチと水筒、家から持ってきた本を揃えて僕の準備は整いました。
寝室は東に面しているので、太陽が西に傾くと薄暗さを覚えるのですが、薄紫の目は全くそんなことを感じさせませんでした。
視界は十分に明るく、茶色くなった古本もすらすらと読み進めることができました。これほど心地良い読書は、生まれて初めてです。じっと座って読み続けていても、全く眼に疲れはありませんでした。
そして、僕は、午後五時に屋敷の門を閉めました。広い屋敷の塀に沿ってぐるりと歩き、他に入口がないことを確認してから、屋敷の戸締りを始めました。
見取り図もないものですから、今まで一度も進んだことがない廊下を、右や左に曲がって三重になっている木戸、ガラス戸、障子を次々に閉めて行きました。
黄昏の光りが、障子にぼんやりと遮断されて薄暗さが広がりましたが、やはり僕の眼はよく見えていました。どこまでも鮮明な色合いで、畳み部屋と廊下の続く光景に美しさを感じました。
午後五時五十分にはすべての戸締りを終え、僕は祖父のいる寝室へと戻ると、続く畳の間に腰を下ろして蝋燭を灯しました。
太陽は山の向こうへ傾いてしまい、祖父の屋敷は急速に夜に包まれていきました。それでも、まだ明るい黄昏の光が障子越しに眩しく思えて、僕には蝋燭の灯りがひどくちっぽけに見えました。
昼間の余韻が残っていたのでしょう。締め切られた寝室にある二人分の呼吸と、蝋燭の熱が蒸し暑さを感じさせました。
じっとしていれば隙間風を僅かに感じるので、僕はいつものように隅に座りこんだまま本を読みました。顔を上げると横になっている祖父の足が覗き、東の方向には外の明るさをぼんやりともらす障子があります。
完全なる夜が訪れると、風が冷気をまとって隙間から染み込みます。
ちっぽけだと感じていた蝋燭の灯りは、部屋の半分を煌々と照らし出してくれるほど明るいものでした。
台風で家が停電した際、蝋燭や懐中電灯で何も見えやしないと苦労したのに、不思議なものです。眼を交換したおかげなのでしょうか。
本もすらすらと読めるものですから、眠気も退屈も感じませんでした。眠くなれば寝るだけですし、眠くならなければ本を読むだけです。その間、僕は祖父に言われた言葉を守っ寝室で過ごせばいいのです。
寝室には、祖父の細い寝息が続いていました。途中、それが止まってしまうのではないかと不安になりました。
けれど、祖父は翌朝に最後の目覚めを迎えなければなりません。僕は思い出すたび安堵し、そして蝋燭が半分になった頃には時間も忘れるほど読書に耽っていました。
どのぐらい、そうしていたでしょうか。
祖父の寝室には時計がありません。室内はすっかり冷え切っていました。蝋燭の明かりが温かく感じます。
僕はだいぶ読み進めた本を脇に置くと、祖父が寒がっていないかを確認しました。体温は十分にあって、寝顔もとても心地よさそうです。
僕は持ってきたジャケットを自分の足に掛け、読書を再開しました。真っ暗なはずなのに、障子の向こうからは眩しいくらいの月明かりがもれていました。
ひどく美しい眺めなのだろう。そう思いながらも、僕は寝室の隅から動くことはありませんでした。祖父に、出てはけないと言われていたからです。
夜の素晴らしい世界を観賞するのは、今すぐにでなくてもできるのです。何も焦ることはありません。この薄紫の瞳は、もう僕の物なのですから。
不意に、外で人の気配がしました。
衣が擦れる涼しげな音が近付き、縁側の障子に、小さな子供の影が映ってピタリと止まりました。
「そこにおられるのは※※※様ですか」
女児とも男児とも取れる、凛と澄んだ声でした。
※※※が祖父の名前だとは分かっていたのですが、僕は本へ視線を戻すと「いいえ」と答えました。
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