【第9話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~

 青年は、障子の向こうに立ったまま動きませんでした。どんな話をしようか考えているのかもしれません。その間が、ひどくもどかしいほどに長く感じました。

 僕は、美しい女を目にしたい欲求を覚えていました。祖父を求めるその女性について、質問せずにはいられませんでした。

「柘榴色の目を持った女性を、知っていますか」

 僕がそう尋ねた時、男はいつの間にかゆったりとした感じで廊下に座っていました。身体は庭の方へと斜めに向いていますが、くっきりと影の映った端正な横顔は、こちらに耳を傾けていました。

「ああ、嬉しいです。あなたから質問を頂けるだなんて。はい。それは美しい私達の〝母〟であり、※※※様との結婚を望む女性です」
「月光が映えるような、白い肌をしていると聞きました」
「そうです、透き通るほどに白い肌をしています。漆黒の長い絹のような髪と、椿の赤い着物がとてもよく似合う、美しい女王です」

 僕は、彼女と柘榴色の瞳を想像しました。

「蕾のような、真っ赤な冷たい唇をしている、とも聞きました」
「女王を一目見て、虜にならない男がおりますでしょうか? 王以外、心酔し惹かれない者は、おりますまい」

 男は、ひどく楽しげな笑いを忍ばせました。

 ――女王。

 その言葉が、僕の胸の中にしっくりと収まりました。

 一瞬の静寂の間に、夜風がすりぬけて行きました。質の良さそうな青年の髪先がさらさらと揺れ、葉がざわめきを返しました。

 そうか、人あらざるモノの中でも、一番美しい女なのか。

 それはいったいどんな女王なのか。そう思いながら、僕は障子に寄り添い尋ねます。

「僕は祖父の血を引いています。会う資格はありますか。一目、姿を見られるだけでいいのです」

 僕は言い、障子越しに返事を待ちました。

 返事がもらえなくても、別によかったのです。だめなら、僕が会いに行けばいい。

 僕はただただ、その「女王」が欲しくなっていました。

 祖父が吸ったと言う、彼女の蕾のように膨らんだ唇と、この世でも一番美しい柘榴色の宝石のような瞳に強く興味を引かれていました。

 障子の向こうで、男の影が「おぉ」と身震いするのが見えました。しばし黙っていたのは歓喜と興奮のあまりだったようです。

「会う資格など、あなた様は他の誰よりも持ち合わせております。あなた様は、いつでも〝母〟に会うことができるのです。血筋を数えて二百年、あなた様は〝母〟と肩を並べて話をすることもできるのです」

 ざわり、と夜風が吹き荒れました。

 その男と年の近い兄弟達が、大勢障子の向こうに立って大きな影を作っていました。全く同じ背丈、同じ形、同じ服、同じ髪型をしているようです。

 同じテノールの声が、次々に声を発しました。

「私達の美しい〝母〟にお会いになりますか」
「そちらから出てきていただけますか」
「是非とも、あなた様のお顔を見せてください」
「もっと声を聞かせてください」
「〝母〟に会ってくれますか」
「どうか話しかけてください」
「どうぞ、お顔を見せてください」

 僕は立ち上がりました。一斉に声が止んで、障子に映る影は、廊下に座っている一人だけになっていました。

「はい」

 初めてそう答えた時、すぅっと障子が一人分開きました。ざあ、と夜風が強く流れ込み、桃色の発光する桜の花弁を、乱暴に室内に舞い散らせました。

 僕は、淡い色彩を浮かべる桜の花弁に手を伸ばしました。

 それは、実際に存在しているのか分からないほどに美しくて、強い風に煽られ、僕の身体を避けていくように舞い踊っていました。

 縁側向こうの夜に見入ると、どこまでも冷たく澄み渡る青白い世界がありました。屋敷の塀も、そこに立ち尽くす巨大な桜の木も、月明かりと桜の花弁の光に照らし出される砂利も、様々な色に発光しているようで、とても美しいのです。

 強い月明かりを受けながら、灰銀色の髪を透き通らせた青年が僕を待っていました。

 僕が一歩進めるのを待ちきれなかったのか、彼が廊下に立ち上がりました。端正で彫りの深い顔と、癖の入った長めの髪は、西洋の精霊の化身を思わせます。

 僕は舞い散る桃色の花弁を受けながら、開かれた障子の前に佇んでいました。

 青年は少年のような僕を見下ろすと、喜びと愛しさに白い頬を染め、とろけるような笑みを浮かべました。ブルーサファイアの瞳が、熱を帯びて潤みます。

 とても綺麗な色だと、僕は思いました。

「ああ、やはり」

 彼は感極まった声で呟き、そして震える声でこう言いました。

「やっと会えました」

 こちらへどうぞ、と促され、僕が差し出された彼の手に触れた時、僕の身体はもう庭にありました。

 満開の花をつけた巨大な桜木は煌々と桃色をたたえ、青白い満月の強い光にも劣らぬ色を、幹の一つ一つにまで発光させています。

 屋敷の屋根を遥かに越えた桜木の前には、これまで見たこともないほど大きな蜘蛛の巣が張られていました。立派な銀色の太い線でしっかりと固定された巣の中央には、巨大な足をギチギチと広げた蜘蛛ではなく――

 華を咲かせた、とても、とても美しい一人の女がいました。

 女王の名に相応しい、すべての美を詰め込んだような女でした。浮いているのか、巣の中央に固定されているのかは、分かりません。

 彼女は椿柄の真っ赤な着物を金の帯で留め、細すぎる項《うなじ》から鎖骨を覗かせていました。蕾のような唇に、そっと押しあてられた繊細な作り物のような手も、雪のように白いのです。絹のような艶のある長い漆黒の髪が風に揺れ、白い肌に対照的な色艶を奏でていました。

 妖艶という言葉が相応しいほど、女は美麗な顔をしていました。

 彼女の扇のような黒い睫毛がゆっくりと持ち上がり、――ああ、やはり目が一番美しいのです。この幻想的な美しい風景の中でも、彼女の目は一際輝いて見えました。金や銀の光を宿し、凍えるように澄んだ赤い色です。

 美しい柘榴色の瞳が、静かに僕を眺めました。女の口元にある小さな赤い膨らみが、あてられた指先の間から、そっと押し開かれて。

「もし」

 そう言葉を発してきました。響き渡ったその声は、頭の芯から痺れそうなほどの、甘い音を奏でているかのようです。

「素敵なお人。お前は?」

 ゆっくりと、女の首が傾けられました。

 僕は、吸い寄せられるように近付き、彼女の着物の裾が風になびくのを眺め、その下から覗く白い太腿の柔らかな線に視線を這わせました。

「美しい貴女の名前を教えてください」
「美しい貴方のお名前を、わたくしにお教えくださいまし」

女は、僕と同じことを尋ねました。しかし、僕はもう一度、同じ質問を返しました。

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