【小説】猫の私が過ごした、十四回の四季に(第2話)

 結局、その日の夜は、雨が降ることはなかった。

 翌日には見事な晴れ空が広がっていて、通りは今まで以上に活気づいた。人の行き交いも一段と増え、客を呼び込む人間の声も元気を増して大きくなる。

 鞄を背負っていない子供たちの会話から、今日が休日であることを知った。ならばほとんどココから顔を出せないなと思いながら、私は大きな欠伸を一つした。

 じめっとしていた空気も、カラッとした日差しに拭われて、ほど良い暖かさが心地良い。

 休日は変わり者が多いのか、私の存在に気付いた人間が、時々やってきては弁当の残りやパンなどを少し置いていった。ちょうど腹が減っていたタイミングでもあったので、私は彼らがいなくなったのを確認してから有り難くそれを頂いた。

 味の評価をするならば、昨日、あの女が持ってきた「缶詰」とやらに比べると美味くはない。だがそんな贅沢も言っておれず、結局のところ私はすべてを平らげた。

 通りの休日ムードに対して、魚の店の女は忙しかったようだ。夕方になっても行き交う人間の数は一向に減る気配がなく、昼時をだいぶ過ぎた頃になってようやく「ごめんね、おチビちゃん」と言いながら、本日一回目となる例の解した魚の身を持ってきた。

「他の子たちにごはんをもらっていたから、大丈夫かなと思っていたのだけれど。こんなにガツガツ食べるなんて、相当お腹をすかせてしまったみたいねぇ……」

 彼女は申し訳なさそうに言った。それから、空になった紙の皿を回収すると「閉店時間に多めに持って来るわね」と約束して、また一旦立ち去ってすぐそこの店へと戻っていった。

「やぁ、こんにちは」

 食後、しばらく私がゴミ箱の間で仮眠を取っていると、昨日聞いた男の声がした。目を開けると、隙間の向こうに見える風景は黄昏色に染まり始めていた。

 どうやら、もう夕刻に入ったらしい。そう思いながら首を動かしてみると、すぐそこに昨日見た眼鏡の男が立っていた。手には、少しだけ柄の違う、例の美味そうな缶詰を持っている。

 彼は目が合うと、私を真っすぐ見つめたままゆっくりと近づいて来た。

 こいつ、一体何を考えている?

 ただの変わり者だろうか、それとも私を取っ捕まえる気でもいるのか? そう自問自答して見つめ返していた私は、これ以上寄ったら噛みついてやるぞと脅してみた。
 
 すると、男が立ち止まって、困ったように頭をかいた。

「まいったなぁ。もしかして警戒されてるのかな?」

 ああ、私を騙そうなんて数十年早いぞ、若造。

 私がそう言ってやると、彼は「うーん」と首を傾げた後に缶のふたを開けた。その途端にこの前嗅いだ時のような美味そうな匂いが鼻先をかすめて、私はピクリと耳を動かした。

「どうか唸らないでくれ。美味しい物、あげるからさ」

 男がそう言いながら、ゴミ箱の前にそっと缶詰を置いた。こちらを窺いつつ、少し後退して距離を置く。

 害を加えはしないから、と行動で示そうとしているのだろうか。

 笑止。信用はしない。

 私は、すぐには動かずに少しだけ考えた。この距離であれば逃げられるだろう。ならば、せっかくの御馳走だ。警戒を解かないまま缶に近寄ると、男を牽制するように睨みつけてからそれを口にした。

 一秒でも早く食べきってしまおう。そんな警戒状態で早食いしてしまうのが勿体なく感じるほど、缶詰に入っている食べ物は美味い。

 こちらの食べっぷりを見て安心したのか、男がほっと息を吐いた。

 その時、横から聞き慣れた声が上がった。

「あら、伊藤さんじゃないの」

 店頭で閉店準備の掃除をし始めていた例の女が、こちらに気付いて手に持っていた道具を置いて歩み寄ってきた。

「今日も原稿関係で出向いていたのかしら?」
「いえ、今日は同業者と少し話しを……」
「そうだったの。伊藤さんってなかなか見かけないから、昨日の今日で会うのも珍しいなと思ったのよ」

 女は、食事をしている私を見て「ふうん、それにしても用意がいい」と口の中で呟いた。それから、なんでもないようににこやかな表情に戻してこう言った。

「ほら、奥さんはよく買い物に来るけど、伊藤さんがここへくることってあまりないでしょう?」

 それを聞いた男が、反省を促されたみたいな様子で「まぁ、確かにそうですね」と呟いて頬をかいた。

「ほとんど妻に任せっきりなので、そこは申し訳ないとは思っています。……僕は、その、いつも書斎にこもってばかりですから」
「帰りがてら、この商店街を一回りしてみるのもいいかもしれないわよ? 運動にもなるし、今日はどのお店もたくさん商品を入れて、いつもよりは長めに営業しているから」
「休日のセールでしたっけ。えぇと、あの、家で妻が待っていますので――」

 その時、急いで缶の中身を空にした私が、ゴミ袋の間に引っ込んだのに気付いて男が「あ」と小さく声を上げた。同じく目を向けた女が、柔らかな苦笑を浮かべる。

「あらあら、逃げられちゃったわねぇ」
「僕、なんだかひどく警戒されちゃっているみたいで」

 言いながら男がしゃがみこみ、空になった缶を拾い上げた。ポケットから、押し込んでくしゃっとなった小さな白い袋を取り出して丁寧に入れる。

「伊藤さんが悪いわけじゃないのよ。捨てられた猫や、外で懸命に生きている野良はそうなの。……その、すっかり人を信用出来なくなってしまっている子もいるから」

 女が言葉を濁しつつそう教える。男が察した様子で、「そうですか」と悲しげな目を私に向けてきた。

 捨てられたのも野良暮らしなのも、私の方だ。それなのに、痛いと訴えるような表情を浮かべた男を、私は不思議に思ってじっと見つめ返した。

 まるで同情するみたいな目だった。そんなことをされる筋合はない。だって私は、期待もしていなければ、誰にも裏切られてはいないのだ。ただただ人間が、そして自分以外の全てが、信用出来ないだけである。


 それからの四日間は、女のくれる魚の身と男の缶詰が私のご飯だった。

 おかげで腹が十分に膨れて、私はひどい飢えを感じることはなかった。晴れの日が続いたこともあってか、毛並みもすこぶる良いように感じた。


 そして五日目がきて、私は数日振りに毛がぼわぼわするような湿気を覚えた。朝から重々しい曇りの天気で、ゴミ箱の間から見える通りの景色は、私が初めて見た時の灰色の景色に戻っていた。

 その日は、店を開けた女が、珍しく朝一番にご飯を持ってやって来た。朝くれるということは、昼間は忙しくて抜けられないのだろう。空を見上げた女が「今日は降りそうねぇ」と呟く声を聞きながら、私は夕方まで寝てやり過ごすことを考えつつそれを食べた。

 活気のない人々と車が、視界の中を淡々と流れていく。空気も生ぬるく湿っていて、私は居心地の悪さを感じながら、ゴミ箱の後ろに隠れるように奥で丸くなった。

 そして、そのまま一眠りするべく意識を手放した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?