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小説⑤「群衆とネズミ」全5話

 三日間の明けない夜が、至るところでの暴動を一斉に起こし始めた。「俺達はお前達と同じ人間だ」「差別反対」「平等」……自分の方こそは偉いと、日々下に見て好き勝手に文句や罵倒まで浴びせていた人間達に向けて、労働者にも心がある、ということが怒声と共に爆撃や銃声や殴打音の中で強く主張されていた。

 暴力があった。殺しがあった。爆発が一瞬の眩しさを落として空気を切り裂き、狂ったような悲鳴と暴言、飛び交う銃声も長いことやまずに続いた。

 怨恨と報復の渦に包まれた町は、この世の終わりのような血生臭さに覆われた。高級取りや豊かな生活を送る人間、普段指示側にいる立場の者達が次々に襲われ、多くの労働者が群がって一人の人間を殴り殺す様子も至るところで見られた。彼らから食べ物を強奪しろという騒ぎも同時に起こり、腹をすかせた労働者達はようやく空腹を満たすことが出来たのだった。

 僕は銃をベルトに差し、爆破された建物の前に腰を降ろしてその様子をぼんやりと眺めていた。アパートD棟から長いこと歩いたが、じょじょに激しさを増した騒ぎは、僕のことなんて眼中にもなかったのだ。

 どのくらいそうしていただろうか。ふと、頭上の空に星が見え始め、僕は一日目がようやく終わろうとしていることに気付いた。でも、長らくじっとしていた身体は、散々動き回ったかのように疲れ切り、僕はもうそのまま動きたくなかった。

 恨み事を言いながら死体の顔を刺し続ける若者、何人かが立てこもったビルをこじあけようとしている群衆、ネグリジェ姿で逃げる若い女を追う男達の姿を、ただぼんやりと眺める。バイクの後ろから伸びた紐に首を繋がれ、地面を引きずられている子供達が目の前を通っていった。

 バイクが走り去った後、傍観者に回っている一人の浮浪者が、こちらへと気付いて向こうからやって来ながら、呑気な口調でこう言った。

「派手にやってるなあ」

 彼が騒動を避けながら僕の前に辿り着いた時、人々から追われていた車に、ビルの群衆から助っ人に出た男達が飛びかかり、中から中年ドライバーが引きずり出された。

「兄さん、お腹空いてるんじゃないかい? ほら、少しは食った方がいいよ」

 無精髭を生やしたその浮浪者が、僕に柔らかい上等のパンを一つ差し出す。まるっきり好意と純粋な善意しか見えない愛想たっぷりの表情で、きらきらとした瞳をしていた。

 しばし見つめていると、彼が首を少し傾げてきた。

「食べないの?」
「君の方が、ガリガリに痩せ細っているじゃないか」

 僕は、男をじっと見つめたまま静かに言葉を続けた。

「今にも病気で倒れてしまいそうだ。僕は若いから平気なんだ。だから君が、僕にあげようとしているそのパンもしっかりと食べて、たくさん食べて体力を付けるといい」
「あっはっはっ、兄さんは面白いこと言うねえ。んでもって、底なしの『おひとよし』だ。あんた、よく今日まで生きていてくれたよ。俺の知っていた素敵な兄ちゃん達、みぃんなひどい目に遭って、苦労して苦労して、使われるだけ使われて死んじまったんだ」

 彼は思い返すような笑みを浮かべて、伸び放題になっている頭髪の中をガリガリとかきながらそう言った。

「なぁ大丈夫なんだよ、俺はちっとも平気なんだ。このかた病気をしたことなんてないし、食べれる時に食べて、寝たいときには寝る。楽なもんだよ。兄さん、生きているんだから、少しでも食べなきゃ、ね? それに俺、まだまだいっぱい持ってるんだ」

 男が、パンの入った袋を掲げて見せた。自分がこれを分けてもらえた経緯を話し出した彼の後ろで、例の車から四人の家族が引きずり降ろされる様子を僕は見やった。後部座席にいたのは青年期に近い二人の少年で、そのうちの一人は、どこかの太った息子に似ているような気もした。

 怒りと憎悪に染まった群衆が、そのたった四人にワッと襲い掛かって、彼らの姿はあっという間に大勢の人々の波の中に呑まれて見えなくなる。

 そこから聞こえる憎しみの罵声と、死を感じる悲痛な悲鳴を聞いていた僕は、そこで説得の一つのようにパンを沢山もらった話を終えた男へと目を戻して、こう答えた。

「でも、お腹は空いていないんだ」

 胃袋は空っぽだったが、胃がもたれているような膨張感で、何も喉を通りそうになかった。少し眠ればそれも変わるだろうかと考えるが、今までどうやって自分が睡眠を取っていたのか思い出せない。

 すると浮浪者は、気を悪くするわけでもなくニカッと笑った。

「兄さん、緊張しっぱなしなんだね。きっと気持ちが落ち着いていないだけさ」

 彼は僕の手を取ると、そこに柔らかいパンを一つ乗せる。

「食いたくなったら食えばいいさ。そうしたら、動く体力も戻ってくるし、きっと、出歩きたくなるに違いないんだから」

 じゃあまたな、と彼は笑顔を残して騒ぎの向こうに見えなくなっていった。

 僕は、座り込んだ足の上にパンを置き、収拾のつかない暴動をぼんやりと眺めた。心なしか、今なら眠れるような気がしてきた。

 このまま目を閉じて意識を手放してしまったら、もしかしたら、巻き込まれてそのまま死んでしまうことだってあるのかもしれない。でも、僕は、僕が死んではいけない理由も見つからなかった。

 僕は自然と瞼まで重くなってきて、片膝を抱えるようにしてそこに頭を乗せ、目を閉じた。

          ◆◆◆

 ふっと意識が戻った時、僕はまだ息をしていた。

 目を開けると、そこには眩しい朝陽があった。薄くヴェールのかかったような青い空の遥か向こうを、すさまじい速さで飛び交う何かが見えたけれど、その正体を探究しようという思いは一欠けらも浮かばなかった。

 がたがたと煩い振動が、身体を揺らしていた。身を起こして確認した僕は、自分が今、数人の男達と一緒に貨物車の荷台に乗っていることに気が付いた。

 すると、汗と汚れにまみれた男達の中で、頬に擦り傷を負ったツエマチ君が「先輩!」と表情を輝かせて呼んできた。

「先輩! ああ、良かった。先輩、ずっと眠り通しだったんですよ。見つけた時は、まさかと思いましたけど、どうして一番ひどい三区にいたんですか?」
「そこまでにしといてやれよ、ツエマチ」

 その時、三十代後半といった大柄な男が、褐色の手を彼の細い肩に置いて言葉を止めた。そして、僕を見ると温かみのある苦笑をこぼした。

「色々と起こったが、まぁとりあえずはメシが先だな。あんた、本当にずっと眠りっぱなしだったんだ、水も飲んだ方がいい」

 男はシズノと名乗り、数十年前、憲法が改正して出来た陸軍所属十三区分警護小隊の雇われだと言った。彼の話によると、二日目の夜に陸軍と空軍が、広大な旧市街地の十三区域すべてを包囲し、鎮静化に乗り出したのだという。

 夜に覆われた町で軍による作戦が決行された時、最新の閃光弾が炸裂して睡眠ガスがまかれた。軍の作戦は、出来るだけ死傷者を抑えることにあったようだが、彼らが暴動を止めに入った時は、既に多くの死体が転がっている惨状だった――という。

 これまでの格差に我慢のならなくなった群衆が、とうとう自分達よりも上にあるとする者達と衝突したこの騒ぎは、軍が双方を保護する形でどうにか収まったようだ。

 これまで手付かずだったこの地区の再生構築に、国がようやく乗り出すことが決まって現在、早急に話し合いが進められているのだとか。

 僕は、少量の水で乾いた口を濡らし、柔らかいパンを二ちぎり食べた。噛めば噛むほど甘い気がしたけれど、素晴らしいその食糧の感想は一つも思い浮かばなかった。確かに空腹はあったが、一口目のパンを噛み始めた瞬間から、胃は石がつまっているかのように重くなり、食べる行為を阻み出していた。

 ツエマチ君は、どうやら早い段階で、シズノの所属する小隊に保護されたらしい。しかし彼は詳しい話をしたがらず、長い夜の始まりに話題が及ぶと口をつぐんだ。

 彼は結局、誰も殺していないのだろう。彼をまるで小さな少年のように気遣うシズノを見て、僕は保護する者と、保護される者の関係を感じ取ってそう思った。僕もあえて、詳しいことを自分から口にしようとは思わなかった。ツエマチ君の「仲間」の一人すら、ここにはいなかった。

 普段はがらんとしている通りは、陸軍の検問や支援物資を積んだトラックなどで、ごった返していた。

 僕らは、ゆるゆると進むトラックで長い時間をかけて、騒ぎが収束したという自分達の区に戻った。そこでは死体の運び出しや、怪我人の手当てなどが建物の影や道端の至るところで行われていた。広い通りにはテントが設置され、疲れ切った顔をした高齢の医者と十数人の看護士達が、忙しく動いていた。

 僕らはまず、各区に設けられた役場で、支援の申し込みと住民記録の再登録をしなければならなかった。暴動で隣の区まで流されたらしいツエマチ君は、役場までのことを優しくシズノから説明されている間も落ち着きがなかった。彼の目は、離れ離れになった仲間達を心配そうに探しているかのようだった。

「ちょっと用事があるので」

 案の定、一通りの説明が終わると、ツエマチ君はそう先に告げて駆けて行ってしまった。本格的な暴動の中に残された彼のことを僕は知らないが、もしかしたら生死に関わるくらいのことが沢山起こったのだろう、ということだけは想像がついた。

「俺も、一旦戻らなきゃならん」

 走っていくツエマチ君の後ろ姿を見送りながら、シズノが鼻から短い息をもらしてそう言った。

「なぁ、あんたは『先輩』とやらなんだろ? あいつ、俺が見つけた区で、たくさんの友達とはぐれちまったみたいなんだ。よかったら、ちょっと気にかけてやってくれよ。なんだか昔死んじまった弟に似ていてさ、ちょっと心配なんだよ」
「うん、分かった」

 僕は、そう答えた。暴動が起こる前のツエマチ君との会話のことは、最後まで一つも口にしなかった。結局、ツエマチ君は大きな流れに巻き込まれて、革命の名のもとに翻弄されたのだろう。

 僕から見れば、ツエマチ君はまだあどけないままの子供だった。人を傷つけるだけでなく、命を奪うというとりかえしのつかない行為に対して、微塵の疑問も抱かなかった大人達と同じだとは考えられなかった。

 シズノと別れたあと、僕は見慣れた町の荒廃した様を眺め歩いた。

 アパートD棟の駐車場には、破壊された車が二つと、死体が引きずり出された際の生々しい残酷な血痕だけが残されていた。誰もが目の前のことに精一杯で、強奪し尽くされた建物は似たような廃墟感を漂わせて、そこに出入りする人間に注意を払う人もいない。

 僕は、まずアパートD棟の前に立ち止まり、ぼんやりとヒビ割れた各部屋の六個の小さな窓ガラスを数えた。それからしばらくして、通い慣れたそこになんとなく足を向けた。

 食べ物で溢れていた一号室は、足の踏み場がないほど荒らされていた。食器類が割れ、カーテンは引きちぎられ、テーブルの上にあったものが衣類の山を崩してぶちまけられている。婦人の遺体があった場所は、やや足場のスペースが余っていた。

 僕は先日の記憶を振り返りながら、一号室を踏み歩いた。婦人を撃ってから、その足で彼女の夫と太った息子を殺した。背中から心臓めがけて何発も撃った時、僕は、今と変わらず冷静だった。けれど記憶は鮮明に刻まれているというのに、ここで自分が三人の人間を殺したのだという実感は、まるで蘇ってこなかった。

 僕は、太った息子が倒れた先の部屋へと進み、そこにある窓から下を見やった。

 傾いた午後の眩しい日差しを受けた通りには、たくさんの人が集まっていた。怪我人を手当てする人、三日間の夜についてぎこちなく談笑するいくつかの人、よれよれの白衣を着て走り回る小柄な丸眼鏡の若者。

 壁に背を持たれて外部の人間に苦労話を聞かせる老女、そんな彼女を気にかけるように見やりながら煙草をふかせる男の労働者グループ。することも分からず、隅に座り込んで通りの人々を眺めている若者達……。

 テレビの世界の人間が、色彩のない町に突如として現れたような賑やかさがあった。僕の目に収まる短い範囲に、たくさんの人間の物語が同時に進行している。

 そんな目まぐるしくも飽きない光景を見ていると、何故だか肩から力が抜けていった。しばらくもしないうちに、ふと、僕は口寂しい空腹感を覚えた。

 何が食べたいかは浮かんでこない。ただ、食べるという行為がしたくなった。そういえば、喉もすっかり乾いてしまっている。通りのテントの一つに、食糧を配給している場所を見て、僕はゆっくりと踵を返した。

 その時、通りの賑わいを聞くのをやめた僕の耳が、室内から上がった微かな物音と気配を拾った。ごく小さな反応だった。しかし、まるで何者かに促されるように、僕は立ち止まって自然とそちらを振り返っていた。

 そこには、めちゃくちゃになった足場の隙間から、僕を窺う小さな黒い目があった。それはこの部屋に住んでいたネズミで、僕は痩せてスマートになったネズミを見て、すぐそのことを思い出した。

 そいつは、粒のような鼻をひくつかせ、そろり、そろりと姿を見せた。

 いつもブラッシングされていたような体毛は、すっかり薄汚れ、足元も弱々しく痩せてしまっている。温室育ちのそいつにとっては、今が栄養失調に近い状態なのか。

 ネズミは、僕のことを覚えていないようだった。一度後ろ足でふらふらと立ち上がって鼻を動かしたあと、メシをねだる様子もなく、途端に四つんばいになって床に顔を押し付け、すさまじい執念のような細かく素早い動きで餌を捜しにかかった。

 小さな屑を拾ってはかぶりつき、食べられないことに気づくと捨てる。そいつは床に散らばった衣類や割れた食器やゴミなどの上を、小さな身体で懸命に踏み越えて、何度も何度もそれを繰り返した。

 僕は、片膝をついてネズミを近くから眺めた。

「手の届くところに、必ず食べ物が約束されているなんて、ないんだよ」

 ネズミは言葉を理解しているのか、再び後ろ足で器用に立って僕を見た。濡れた瞳は、探しても探しきれない食べ物に悲しんでいるのか。それとも、彼の視線からだと見渡す限りの荒れ狂った世界に打ちひしがれているのか。再びやってくる夜の寒さに、たった一匹で耐えなければならないことに怯えているのか、僕にはまるで分からなかった。

 しばし見つめ合っていたネズミが、鼻をひくつかせると、忙しなく辺りを見回した。右を見やって僕に目を戻し、左を見やって再び僕を見る。

 彼はきっと、もう気付いているのだろう。守られていた自分の世界が終わってしまったこと、そうして何もかもが一変にして、全て一気に失われてしまったことを。――僕には、何故だかそう思えた。

 その時、ネズミが短い両前足に一度顔を押し付けた。

 ああ、まるで人間みたいだ――そんな感想を僕は抱いた。

 すると不意にネズミが顔を上げ、十数センチはある不安定な足場から飛び降りた。着地に失敗して転がり、それでもぐいと四肢を踏ん張って体勢を整える。

 再び動き出したネズミは、半径一メートル範囲の滅茶苦茶になった床の上を、右へ左へと細かく移動しながら食べ物を捜し始めた。踏まれて汚れた衣服の山に辿り着くと、そこにぐいぐいと鼻先を押し付けて、がむしゃらに突き進もうとする。

 そこで僕は、静かに手を伸ばしていた。

「もう、いいよ」

 そんな囁きが、僕の唇からこぼれ落ちた。

 いつもキレイにされていたネズミの身体が、短い間にすっかり汚れ果ててしまった意味が、なんとなく僕には分かったような気がした。

 もしかしたら彼は、本当のところは僕を覚えていたのかもしれない。知らない人間がやってくるたび、他の小動物と同じように必死で身を隠して息を殺して、そうして今日、僕がやってきから、わざと物音を立てて自分から進み出て来た――。

 いいや、でも結局のところは、どっちだって構いやしないのだ。必死に生きようとする小さな生き物を、無視するなんてもう僕には出来なかった。

 僕はこのネズミの様子を見て、親を亡くしたばかりの幼い頃、自分が必死に生きようとしていたことを思い出した。小さな手足を懸命に動かしている間に、一年が過ぎ、二年が過ぎて。

「僕もちょうど、食べる物をもらいにいくところなんだ。一緒に来るかい?」

 僕は、伸ばした手で彼の背にそっと触れた。痩せてはいるけれど、温かくて柔らかくて、確かな命の温もりをそこに感じた。

 ネズミが動きを止めて、そろりと僕を振り返る。様子を窺って戻すことも出来ない僕の手の指の間から、こちらをじっと見つめてきたかと思うと、

「きゅっ」

 そんな小さな震えが、ネズミの鼻先で起こった。彼は後ろ足で懸命に立ち上がると、短い手を精一杯持ち上げて、濡れた鼻先ごと僕の掌に押し当ててきた。

「そうか。一緒に来るか」

 僕は、彼をそっと手に乗せて、今度は一緒になってその部屋を出た。


                      了

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