【第5話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~
「明日は満月ですね。月がとても大きくて、美しい夜です。白くて美しい女を思わせます。細い項《うなじ》と腕に手を這わせて、白い太腿と柔らかな肌に触れる――きっと吸いつくように滑らでしょう」
僕は、今まで見たこともない女性の裸体を想像しました。美しい月に映える女性は、それはそれは素晴らしいことでしょう。
僕は女性の白い肌に触れたことさえないのに、ひんやりとして夜風に体温を奪われたその白い柔肌を、愛おしげに愛撫していく自分が容易に想像できました。その感触は生々しく、僕に乱れた着流しの女性を抱くような夜を思わせました。
女の肌は、きっと冷たいことでしょう。
無防備な肢体に手を触れ、細い項《うなじ》に当てた唇は、ひんやりと吸いつく肌を愛撫し出すでしょう。美しい肌は着物をするりと滑り落とし、帯を解くと、僕の身体は心地の良い女の肌に絡みついて何度も肌を重ねます。あまりにも柔らかくて涼しげな肌だから、きっとその肉を噛み千切って口の中でも愛撫し続けるでしょう。
ああ、素晴らしい夜です。
僕は、恍惚せずにはいられませんでした。
「あなたを見てもいいですか」
穏やかなテノールが問い掛けてきました。
僕が、ほう、と吐息をついて口を開こうとした時、返事も待たずに障子の影が揺れました。
「ああ、時間です。朝が来ました」
気付くと、障子の向こうに月明かりはありませんでした。
蝋燭すら消えた寝室の片隅でぼんやりと座っていた僕は、夜明けを告げる光りに気付きました。どうやら、少しばかり眠ってしまっていたようです。
顔を上げると、祖父が床に上体を起こして僕を見つめていました。
「口と耳を貸したのか」
そう問い掛けるものですから、僕はしばらく寝起きの鈍い思考を動かした後、こう答えました。
「いいえ」
祖父は床から立ち上がると、朝食の前にやらなければならないことがある、と告げて僕を誘いました。
それから僕は、祖父と一つ一つの作業をこなしていくことになりました。
まずお手洗いを済ませます。二人揃って歯を磨き、牛乳を一本飲んで台所で準備体操。その間も、屋敷の戸は締め切ったままです。
玄関には、竹ぼうきが二つ用意されていました。祖父は「まずやらなければいけないことがある」と言うと、見なさい、と言って玄関をぴしゃりと開け放ちました。
屋敷の外は、蜘蛛の巣だらけになっていました。
大小様々な糸が、至るところに張り巡らされています。朝日に照らし出されてようやく見えるほど細い糸もありました。しかし、同じようにして毛糸より太い糸もあるのです。
祖父は竹ぼうきを持つと、器用に蜘蛛の巣を棒の部分に巻きつけて行きました。ぐるぐる、ぐるぐる、と回収されていく糸は糸巻きのようになっていきます。
僕も見習い、同じようにやりました。慣れて来ると、祖父と同じように巻けるようになりました。
小さな蜘蛛は見当たらなかったのですが、太い糸に佇むピンポン球大のふっくらとした蜘蛛はいました。
やけに身体に肉厚が詰まったような、ぷりぷりとした色鮮やかな蜘蛛です。彼らは僕と祖父が糸を回収しているにもかかわらず、じっとして動きません。自分の足場が壊されてしまって地面に落ちても、身体についた埃を払うような仕草をした後は、またじっとして動かなくなります。
祖父は僕が糸を回収している脇で、地面で動かない蜘蛛をひょいと掴み上げました。蜘蛛は触れられても姿勢を正しているため、まるで作り物のように見えました。
祖父は、玄関にあった小さなバケツを持って来て、それに次々と蜘蛛を入れていきました。僕も同じように蜘蛛を集めました。
糸や木の幹や葉っぱから落ちた蜘蛛は、やはり落ちた際に、自分に付いた土などを払って動かなくなります。死んでいるのかな、と思って掌に乗せたままそう尋ねると、沢山の瞳でじっと僕を見つめたまま、片足をひょいと上げる仕草を返してきました。
死んではいないようです。しかし、なんだか不思議でした。
蜘蛛の数はそんなにありませんでした。小さなバケツ一つで十分でした。太い糸の上に器用に佇む蜘蛛は、僕らの作業を見ていても、やはりじっと視線を送るばかりで動きません。まるで待っているかのようだったので、僕は手が届く距離にいる彼らをバケツに入れてから、糸を回収しました。
「おじいさんと、結婚したい方がいるそうですよ」
ふと僕が言いますと、祖父は作業を続けながら「知ってる」と言葉短く答えました。
彼が祖母以外に心を許してしまったという女性なのだろう、と僕はぼんやり思いつきましたが、それ以上は質問せず、蜘蛛の糸を竹ぼうきの持ち手に巻いていきました。
蜘蛛の糸がてんでばらばらに線を引いているばかりで――糸が細いものは小さな巣状になっていますが――敷地内が乱された形跡はありませんでした。破損した場所はみられず、巻き取るだけでどんなに太い蜘蛛の糸も、するする、ときれいに取れていきます。
不思議なことに、ローズマリーに囲まれた縁側だけは蜘蛛の糸がなく、その手前までの太い糸を回収して作業はすべて終わりました。しかしローズマリーの手前に敷かれた土が少々荒らされていたので、祖父が寝室側のガラス戸と障子を開けている間に、僕が竹ぼうきで土をならして綺麗にしました。
「とても、美しい女だった」
僕が手を止めて、竹ぼうきに見事に巻かれた蜘蛛の糸巻きを眺めていた時、ふと、祖父がそう語り出しました。
「女房が出産間近で病院にいる時だった。その女は、私を三日三晩尋ねて来て――」
祖父は縁側に腰かけ、顔を伏せるように足元を眺めていました。一度言葉を切り、静かに勇気を奮い立たせてから続けます。
「吸い込まれるような、美しい目をしていたんだ。あれが近くに迫って来ると、何も考えられなくなってしまう。ただ、抱きたいという本能しかなかった……。しかし逢瀬の途中で我に返って、私は突然とても怖くなった。子が欲しいと懇願する女を振りきって、そのまま逃げ出したんだ」
そう言うと、祖父は足元に置いたバケツの中へ視線を落としました。
バケツに入れられた蜘蛛達は、まるでお互いの手足で傷をつけてしまわぬようにと、つるりとした色鮮やかな膨らんだ身体を、窮屈そうに狭めていました。
「椿の赤い着物が、よく似合う女だった。凍えるような冷たい美貌に、聖母のような微笑みを浮かべていた。――彼女の赤く膨らんだ唇は、吸いつくように冷たかったよ。あれは、人の美しさをとうに越えている」
「白い肌でしたか」
「ああ、真っ白だった。雪のように白い、とはまさにあのことだろう。月の光によく映える美しさだった。宝石のような赤い瞳が、一際眼を引いたよ。あれはきっと、そう、柘榴――柘榴の色なんだろう。金や銀にも輝いて見える、澄みきった柘榴色が美しい瞳だった」
僕は、ひどくその女に会いたくなりました。美しい柘榴色の瞳を持った彼女の姿を、一目見たいと思いました。
そう、見るばかりでは満足できそうもありません。
逃げた祖父は、もったいないことをしたと思います。
僕は――その女が欲しい。
祖父は、二つの竹ぼうきに集めた蜘蛛の糸を縁側の土の中に埋め、「ついてきなさい」と僕を促しました。屋敷すべての障子、ガラス戸、木戸を開け、台所で簡単に手を洗うと朝食の準備を始めました。
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