【第1話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~

 がらんとした大舞台に、四つの椅子が広い間隔で並んでいる。照明は唯一そこにいる者達を照らし出し、人肌の温度のような濃い空気を漂わせていた。

 ピタリと締め切られた館内。

 舞台に面した客席に、人の姿はいない。それでも語り手となった四人は、右から順に一つずつ語っていた。

 まず始めに語ったのは、古びた黒いコート姿の老人。
 次に、厚化粧のふっくらとした顔に微笑をたたえた五十代の婦人が、ゆったりとくつろいで話し聞かせた。それから白いスーツのよく似合う長身の男が、怪訝な顔で三番目に物語を語った。

 そして最後、四番目の語り手は、一番左端の椅子に俯き腰かけていた。四人の中でただ一人の、青年未満の年頃で華奢でもあった。

 四人は、何も書かれていない一冊の本を膝の上に広げている。まるで見えない文字でも追うかのように、語り出すと誰もがそちらに目を落とし、頁《ページ》をめくるのだ。

「次は、どなたかな」

 静まり返った舞台の上で、老人が組んでいた細い足を自然な動きで組み替え、分かっているのに柔和にそう問う。

「次ではなく最後です。僕の順番でしょう」

 青年が澄んだ高い声色で言った。首筋は細く、上げられた顔を見てもまるで少年のようでもあった。

「僕がこれから語るのは、【蜘蛛と異色の物語】です」

 そう続けられた言葉を聞いて、三つ目の椅子に座っていた長身の男が、その端整な顔に辛辣な笑みを浮かべた。喉奥から乾いた嘲笑を上げる。

「それは語り聞かせるほどのモノか? こちらに聴く価値があるモノか? それは、随分人生を見て来た彼の話に見劣らぬほどの、愉快で狂った話であるのか?」

 男は、一番目の語り手となった老人と比べて、彼を嗤った。我々はそれ以外を求めないのだよと、隣から青年の俯いた横顔を覗き見る。

 ただ一人、学生のように質素な出で立ちをしたその青年が、すっと顔を上げる。印象的でもないのに不思議と端整で、彼は幼さを残した蝋人形じみた顔で、こくん、とうなずく。

「――つまらん奴だ。面白い反論や『言葉』を期待していたのに」

 話を振った男が、むっつりと唇を一文字に結んで頁《ページ》をめくった。口を閉じたはずの彼の後頭部から、続いて「目立ちたがりのガキが」という酷い濁声がこぼれた。

 口調は荒いが、そこに悪意はない。楽しそうに笑っていた。

 ここに集まった者達は、数少ない理解を得られる者同士として、それぞれ親身な空気を持ち合せていた。

「さあ、聞かせておくれ」

 そう老人が言い、木と化した人差し指と中指で、丁寧に本の頁《ページ》をめくった。

「どうぞ、お話を聞かせてちょうだいな」

 婦人のふっくらとした六本の指が、そっと白い頁《ページ》を右側へたたむ。

「話はなんだ」

 男が荒っぽい口調で促し、美しい白い指先でそっと本の頁《ページ》を開いた。上品な香りのする彼の髪の間から、ぎょろりと白い目が動いて、四番目の語り手である隣の青年を凝視する。

「へへっ、聞かせろよ坊や。俺は好奇心で腹が減っていけねぇや」

 男の後頭部にある大きな口が、勝手にそう喋って「早く早く」と茶化した。

 青年が、また一つ幼い仕草で、こくん、とうなずいた。

「題名は、【蜘蛛と異色の物語】です」

 そう改めて述べた彼の膝の上で、開かれた本の頁《ページ》が、不意に起こった生温かい風に揺れて、

 ――ぱらり、とページが一枚音を立てた。

             ◇◇◇

 僕の祖父の家には、縁側や敷地周囲にたくさんのローズマリーが植えられていました。そのおかげで、いつも強い香りが屋敷中に満ちていました。

 虫が寄らない植物なのだそうです。

 どうして祖父がそれを植えようと思ったのか、疑問を覚えた頃には、尋ねる機会を失っていました。しばらく離れて過ごしている間に、僕が興味を失ってしまったからです。

 縁側から見える庭に、立派な松の木や盆栽が並ぶ中、石垣で形作られた池の奥に大きなローズマリーの大群がありました。蛇行する幹がぎっしりと隙間を埋め、手入れされた園芸風景の中で、そこだけが雑踏としているような、なんとも奇妙な風景でした。

 両親の話によると、昔は縁側辺りも美しく整えられていたそうです。

 立派に花弁を茂らせた桜の木も、亡くなった祖母が好きだったコスモスの花壇も、僕が生まれた頃にはローズマリーに取って変わっていたのだとか。

 祖父は祖母を愛していました。

 それなのに床で魘《うな》されるたび、祖母へ向けて「すまない」と寝言で謝っていました。

「どうして謝るんですか?」

 もう長くない命だと聞かされてから三年目の春、僕はそう尋ねました。そうしたら祖父は、そっと縁側を眺めて、ひどく悲しそうにこう呟いていました。

「――彼女以外の女に、一時でも心を許してしまった。それが〝悔い〟だ」

 祖父は病気を患ってから、一層痩せ細って弱々しくなっていました。

 寝室の床の上から縁側のローズマリーを眺め、こちらから話しかけなければ何時間でも動きません。そして僕もまた、屋敷を訪ねた時は、寝室の隅に座り、そんな祖父をただただ眺め続けるのです。

 ぼんやり祖父を眺めていると、まるで古いフィルムを通しているような気がしました。長い時間を遡って、僕らだけが時の隅に切り残されたみたいで、僕は飽きず見つめていたのです。

 両親と祖父の屋敷を訪ねるのは、決まって日の出ている日中の時間だけと決められていました。朝の時間まで屋敷は頑なに閉ざされ、午前十一時までは、決して開くことがありません。

 祖父は病気でした。もう治ることはありません。

 それでも祖父は、祖母が亡くなってから始まったその習慣を、やめようとはしませんでした。

 午前十一時に門を開け、夕暮れにはそれを閉じます。食事も少量ながらしっかりと取り、片づけなどといった少ない家事もきちんと自分でこなしました。


 さて、僕が語るのは【蜘蛛と異色の物語】――

 今年の春に祖父は亡くなりましたが、この話は〝彼が亡くなる少し前〟から始まります。


「死期が迫っている。私はもう、長くない」

 僕が通う専門学校が春休みに入った翌日、祖父は、電話で突然そう告げました。

 本人が自分の死を予告してくるのも、少し奇妙な感じがしました。祖父は滅多に頼み事をしない人でしたが、そばにいて自分の死を見届けて欲しい、と僕に言いました。

 死の見届け。

 その内容には、奇妙な決まり事がありました。

 たった一人しか来てはいけないと、祖父は僕と両親に強く言い聞かせました。その「たった一人」に指名されたのが僕でした。

 祖父は、僕の両親に言い聞かせました。五日の間に死は訪れるので、葬儀の準備を始めておくこと。電話は日が暮れるまでの間しか繋がないので、息子に連絡を取る時は、午前十一時から午後六時までの間にすること。そして、私が死んだから一晩が過ぎるまで待ち、その後に屋敷を訪れなさい――。

 つまり、それまでの間は、僕と祖父の二人きりです。

 僕は、一週間分の荷物を持って祖父の屋敷を訪れました。午前十一時よりも早く着いてしまった僕は、高い門塀の向こうから、祖父が自分で屋敷の中を歩き回っている音を耳にしました。

 サンダルを履いた足音は死期が迫っている様子はなく、水をやる祖父の着流しが擦れる音を聞きながら、僕は厚い木材で出来た門の前でぼんやりと待ちます。

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