【第8話】ホラー幻想小説~四番目の蜘蛛異色物語~
祖父は横たわったまま、過ぎ去った年月を回想するように、ぼんやりと縁側を眺めていました。
しばらく経った後、その横顔に不安が過ぎりました。
「あの女は、私との子が欲しいために今夜もまた、使者を送って来るだろう。死んだあと、まだ温かい自分の身体を奪われるのではないかと、私は不安で仕方がないのだよ。子という目的を果たした後、私の身体がどんな運命を迎えるのか想像すると、怖い。――午後六時には、すべての戸を閉めなさい。尋ねて来る者には『いいえ』と答えて、それ以上に口と耳を許してはいけないよ」
お前が心配だ、と祖父は目尻に皺を刻みました。
僕が家族の元へ帰れなくなり、祖父の遺体が祖母と同じ墓に入れなくなる事態が、今夜起こってしまうのではないかと怯えているようでもありました。
「大丈夫ですよ。僕が、おじいさんの体をどこへもやったりしませから」
微笑みかけると、彼が「そうか」と安心して言いました。
「おじいさん、喉は乾きませんか?」
祖父は、小さく首を横に振る仕草をしました。薄い乾いた唇が、「いいんだ」と吐息をもらします。
「すっかり、真っ暗になってしまったな」
祖父の五感は、少しずつ死を受け入れているようでした。斜光がローズマリーの横から伸びているのに、祖父には、その光が認識出来なくなっているようです。
祖父の細い身体は、干乾びているようにも見えました。もうこれ以上にないほど憔悴しきっているかのようです。
これが老い。これが死か、と考えさせられました。
きっと僕も、祖父と同じ道を辿るのでしょう。両親も枯れ枝のように細くなって、祖父のように静かな最期を迎えるのかもしれません。
「もうそろそろ、死ぬのですか」
「ああ、もうそろそろ、死ぬだろう。遺体が怖いのであれば、私の上に布を掛けなさい」
「幸せな寝顔なら、掛ける必要もないでしょう」
「そうだな。死後に目を開いていたら、閉じてやってくれ」
祖父は冗談交じりに言って、薄く笑いました。笑いを取ろうとする祖父の姿を見るのは、初めてでした。
僕は、祖父の枕もとに座ったまま、長い間じっとしていました。
僕以外のもう一つの呼吸は、小さく、細く、そして弱々しくなっていきます。
陽が急激に傾いてきました。死が足音もなく、忍び寄ってきているようでした。祖父の右手が何かを探すように震え、僕はしわくちゃの手を両手で包み込みました。温かい祖父の手は伸び切った皮膚がとても柔らかく、どこかしっとりとしているように感じました。
「そこにいたのか」
祖父は僕の方をようやく見ると、弱々しく微笑んで、もう見えない目の先を宙に彷徨わせたあと、ゆっくりと瞼を閉じていきました。
「ありがとう。私はすっかり寂しくなく逝ける。さようなら、私の可愛い孫や」
「さようなら、僕のおじいさん」
握りしめていた皺だらけの手から、すうっと力が抜けていくのが分かりました。最期に細くて長い息を吐いた祖父は、それきり、一度も息を吸い込もうとはしませんでした。
完全に呼吸が止まってしまったのです。
僕は、祖父の両手を彼の腹にそっと乗せました。呼吸はしていないのに、まるで眠っているかのように思えました。
静かな死でした。祖父は、死の痛みも苦しみもなく逝ったのです。
「さようなら」
僕はもう一度祖父に告げると、夜の支度を始めました。まだ早い時間ではありましたが、門と屋敷すべての扉を閉ざすことにしたのです。
外に出ると、頭上には雲一つない空が広がっていました。今日は、きっと星の綺麗な満月の夜になるに違いありません。
僕は寝室以外のすべての準備を整えると、縁側に座って、西の空から夕焼けが伸びて来るまで飽きずに空を眺めていました。
祖父からの言いつけ通り、午後五時五十五分には寝室のガラス戸と障子を閉めました。しっかりと鍵のかかったガラス戸が、黄昏の明かりに照らされて障子に影を落としました。昨日の夜、いつそれが消えてしまったのだろうかと考えましたが、記憶にはありませんでした。
蝋燭に火を灯すと、暖色が視界を明るく照らし出しました。外もまだ十分に明るく、締め切られた室内は蒸し暑さを覚えます。しかし、山の向こうに陽が隠れてしまうと急激に暗くなってしまうので、前もって蝋燭の火は必要でした。
祖父の横顔はなんとも涼しげで、今一度、横たわっているその遺体を眺めてみると、なんだか作り物めいて見えました。触れてみると硬くなっており、祖父はもうどこにもいないのだと実感しました。
それでも、形は綺麗に残っているのですから、大切に扱わなければいけません。
僕は乱れてもいない祖父の髪を丁寧に指先で整え、腹の上で組み合わされた手を撫で、シーツの角の皺まできちんと伸ばしました。
祖父を眺めてじっとしていたはずでが、気付くと、僕はいつの間にか少し眠ってしまっていたようです。
物音に気付いて顔を上げると、すっかり暗くなった室内を、蝋燭の炎がゆらゆらと照らし出していました。障子には美しい月明かりが強く映えていて、祖父の遺体までも青白く浮かび上がらせています。
「もし、もし」
扉を控えめに叩くような物音は、男児とも女児とも判断のつかない子供の声に変わりました。ガラス戸の影が消失してしまっている障子に、幼い人影がぽつりと映っています。
「※※※様はいらっしゃいますか?」
「いいえ」
「受け取って欲しいものがあります、中に入れてください」
「いいえ」
子供の影は、廊下の向こう側にありました。昨夜と同じように、とぼとぼと帰っていく姿が見えます。着ている着流しが、さらさら、と擦れる音が心地よく響きました。
しばらく、訪問者はありませんでした。
いつの間にか、寝室は過ごしやすいほどのひんやりとした空気で満ちていました。それでも体温を失った祖父には少し寒いだろうと思い、僕は上からジャケットをかけてあげました。
畳みを歩く僕の足音に気付いたのか、一瞬外の気配が、ざわり、と揺れました。
茂った葉が風に揺れる音、――。絹擦れのようなその気配は、何事かを囁いているかのようでした。
次は頭一個分高い少年が来ると思っていたのに、ふっと視線を戻した先には、青年の影がありました。大学生のような、襟のついたラフな感じのシャツとスボンという姿が、昨日よりも強い月明かりに出来た影からは窺えました。
「昨日のお方。あなた様は、そちらにいらっしゃいますか」
どうやら、昨日、言葉を長く交わした、あの気に入ったテノールの男のようです。前の順番を飛ばして、彼がやって来たようでした。
「いいえ」
「是非お顔を見せてください」
「いいえ」
「※※※様は、結婚を承諾してくださるお考えがありますか」
「いいえ」
やはり、耳に心地良く響くテノールでした。いいえと答えながらも、僕は彼の声をもっとよく聞こうと、障子の前に腰を下ろしました。
華奢な僕に対して、障子の向こうの彼はずいぶん大人の体格をしています。
いえ、平均的な青年もそれぐらいはあるのでしょう。この場合は、僕がただ小さいというだけなのかもしれません。僕の背丈や容姿は、まるで小柄な高校生の様子をしています。身体は驚くほど丈夫で、風邪や病気もないくらいに健康でした。
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