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掛軸『直心是道場』 〜心によって道場が現れる〜
最近、友達のお誘いでcafeではなく、
お茶室でおしゃべりをする機会が増えました。
今日は、名古屋市瑞穂区の『東山荘』(とうざんそう)にお邪魔した。東山荘は、昭和初期綿布問屋を営んでいた伊藤信一氏の別荘だったそうです。
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直心是道場(じきしんこれどうじょう)とは、禅の言葉。
自分の心次第でどこでも道場になるという意味。
確かになぁ〜
自分探しを永遠にやっていて、
ぐるぐるから抜け出せない人たちにも伝えたい考え方。こころ次第だと。
内発的モチベーションと言っても良いのかな?
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直心とは、執着や分別を離れた浄らかな心のこと。これがいいとか、あれは嫌だとか、そういった執着分別を離れた直心で生きるとき、どこであってもその場に仏道の道場が現成しているというのが、直心是道場という言葉の意味である。
言い換えれば、自分に合う道場なんていう建物を探していると大きな間違いを犯すぞ、という警告でもある。道場という専門の場所があるのではなくて、直心で生きるとき、そこが道場となっている。心次第でどこであっても道場になり得る。場所に捉われると最初の一歩目から正反対の方向へ進んでしまいかねない、ということ。
もし、静かで落ち着いて修行のできる快適な場所を見つけたとしても、それは結局自分の都合に合致した場所を見つけたというだけの話で、欲と執着の域を出ない。道場が真に道場となり得るかは、その人の心次第であるというのが、直心是道場という禅語の要である。
だから、場所というのはどこまでも「ただの場所」に過ぎない。そのただの場所を仏の心で生きたなら、そこが仏の道場になる。修羅の心で生きたなら、修羅の道場になる。餓鬼の心で生きたなら、餓鬼の道場になる。だから仏道も修羅道も餓鬼道も、どれもおなじ道場から生まれる。
禅の道場であるかどうか、それを決めているのは自分の心であるというのは、まさに修行の核心を突いた一言だ。
(引用 禅の視点)
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一方、
外発的モチベーションの
ただの場所の影響も無視できない。
私などは、リトリートを主催するときに場所をとても重んじてやってきました。
やはり大きなエネルギーを感じる。
場の力を感じ、自分をチューニングするのも悪くない。人それぞれ全て正解。
シスター渡辺和子さんの
『置かれた場所で咲きなさい』という考え方にも通ずる。
禅とキリスト教の統合したような
『直心是道場』
東山荘の茶室の掛け軸を見て、
心穏やかな時間を味わいました。
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