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「好き」を忘れて自認するまで-アセクシャルの私が日々感じていること-

中学2年のとき、人生で初めての彼氏が出来ました。

当時、私はその人のことがめちゃくちゃ好きでした。

おや?と思うかもしれません。私はアロマンティック・アセクシャルと自認していると言いました。アロマンティックは、他者に恋愛感情を抱かないから。

とはいえ、当時、私は彼が好きでした。思うに、ちゃんと、好きでした。

アロマンティックは、恋愛感情を他者に感じないので、これだと矛盾です。

(当時私はまだセックスというものを知りませんでした。名前もそれの意味も。性愛抜きで好きだったのです。そういう意味では、最初からアセクではあったのかもしれません)

彼が近くに来たらドキドキしたし、一緒にいれたらニヤニヤしていたと思うし、私からの告白に俺も好きでしたと返されたときは飛び跳ねたような気がします。さすがに飛び跳ねたは、なかったかもしれませんが。

周りに冷やかされないように秘密で、普通の中学生らしく付き合って、半年かその辺で1ヶ月くらい連絡がなくなって、そのまま別れました。

多少引きずって、連絡が取れない時期が長かったこともあり、1ヶ月もすれば切り替えできていました。

要するに、中学らしく普通のお付き合いをしたんです。

ところがそのあとは、誰かにドキドキとか、恋愛感情らしきものを一切感じなくなってしまいました。

恋愛の「好き」を忘れてしまったのです。


付き合っても、好きになろうと試みても、その人を恋愛的な意味で好きだと思えなくなっていました。
中学の頃感じていた恋心を思い返しても、どんな感じだったかと説明できても、今自分がそれを具体的にイメージできるかと言われると、首をひねることしかできません。

高校生のとき、中学のときに付き合っていた彼と再会する機会がありました。
この人のこと好きだったんだよな、と思ったけれど、実感のようなものは湧いてこないし、
そのとき、好きになる感覚を、どこかに置いてきてしまったように感じて、少し恐ろしかったのを覚えています。

「本当に恋の話ないの?」

大学生になってから、しょっちゅうそう訊かれました。ゼミに入って飲み会から逃れるわけにもいかなくなると、どうしても話題は恋の話になります。
私は大抵「そういう話ないんだよね」と躱しているのですが、そうは言っても定期的に話を振られてしまいます。

いつしかゼミの中で恋人がいない数人を括って「枯れ組」と呼ばれるようになりました。

恋人がいない、好きな人がいない=不幸、かわいそう

そういう空気が、どうしてもその場にはありましたし、そう言われたこともあります。

なぜ不幸なんだろうと、考えても分からなかった。けれど、彼女たちには、彼氏どころか、好きな人のいない私は「かわいそう」だったようです。

誰も好きになれないなんて。
無意識のうちに、私は変なんだという意識が生まれていたんだと思います。


アロマンティックとアセクシャルいうものを知ったとき、肩の荷が下りたというか……私の背中を蹴っ飛ばしては「誰も好きになれないなんて」と嘆いていた私がいなくなったのを感じました。

誰かにドキドキしない私を、形容する言葉がある。形容できるということは、世界に許されるのとよく似ています。

こういう私を表すことができる。

それは、表していいのだと、こういう私であっていいのだと、言われているような心地でした。

そのあとは、本当にアセクシャルなのかと悩むことになるんですが、それでも、私には革新的な出来事だったのです。

アロマンティックか否かは結構悩みました。私は人を好きになったことがありますから。

でも、今はやっぱり、誰かを好きになることも、誰かに性的な魅力を感じることもわからない。

忘れてしまったことを不安がって、なんとか理解しよう、思い出そうと頑張っていた私ではなくて、
無理をしない私自身の、一番私らしい部分がそう言っているから、それでいいんだと思っています。

私は今、アロマンティック・アセクシャルです。

家族愛は多分人一倍強くて、なかなか心開かないくせに一回仲間だと思うと途端に大好きになって、二次元の推しへの愛は惜しまなくて、愛と性愛はわからない。

そういう人であるということを、ちょっと胸を張って言えるようになっただけでも、アロマンティックとかアセクシャルに出会えてよかったかなと思います。

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