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シャイニング

数年前から、古家が欲しいと思うようになった。リノベーションブームに乗った記事を読んだからかもしれない。

古家が欲しい。ふるさびた杉の木と誰ともわからない仏壇の匂いのするイエが欲しい。蓮華の咲いた春の北陸に住みたい。フェーン現象の光の中の、濡れた土の上に帰りたい。
などと言って、殆ど買いかけたのが2020の11月。手付けを打つ気満々だった前日に、先行されてしまった。世界の構成員は私だけではない。ふるさびた杉の木と誰ともわからない仏壇を欲するひとは、世の中に多い。

そもそも古家を買ってどうするというのか。蹴り離すように飛び出した北陸だが、いや別に不義理はしていないし愛着がないわけでもない。ただ、古き良き親孝行でなかったことは確かだ。ねっとりとした愛情、共感性、そう言ったものと共存して生きているけれど、表立って愛情豊かだとアピールするほど恥知らずではない。
人生の先が可算になって、いわゆるやり残したこと、やりたかったことを数え出した。ヤマノナカデヤギヲカイタイ。イヌガホシイ。ヤマノナカノフルヤガホシイ。弾ける光の春の中なら、こんなことやあんなことができると思う。萌え出る稚芽を摘んで、本を読んで暮らしたい。山に日がかかった頃に、犬を連れて歩き回りたい。こんな妄想に囚われて、古民家サイトを逍遥する。古い家に栖むものは、耀く幻視を投げかけて差し招く、映画の古いホテルのように。

それは喪われた幼児期に還ろうとする老化現象だ。現実の私は、弾ける光の中の湿った土の匂いではなく、乾いた暑い街での生活を選んだ。一瞬も、その生活を悔いることはなかった。多くの国を訪れ、多くの人を育て、知己を得て、しかしそういう生活もいつか終わる。老いを自覚するし突きつけられもする。
古家を得て若くなりたいのではない。若い自分の幻想に酔うのだ。何という強欲だろう。

大抵の国家主義は、老いた国の臨終の息のようなものかも知れない。ワタシハワカイ。カガヤクコノクニヲワタシハシッテイル。ワタシニデキルコトガアル。私たちの残っている使命は、この身体を物資循環に戻すことだけなのだが。

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