祖父が旅立った話
祖父が他界した。
書類上の死因は多臓器不全ではないけれど、ほぼほぼ老衰といって差し支えないと思う。
享年92歳。
大往生である。
月並みな言葉だけれど、実感が湧かない。
息も脈も止まっていると気付いた時にはまだ体温もあったし、医師から死亡を告げられた後も、棺に入った後も、さほど衰弱もしていない顔は穏やかで、呼んだら起きてくるような気がした。
火葬と葬儀が終わった後なんて尚更そうで、奥からひょっこりと出てきたり、仕事から帰ったら居間に座ってたりするような気がしている。
幸運なことに、物心がついた後に近親者が亡くなったのは、31年生きてきてこれが初めてだ。
これまでは仏壇に手を合わせる時、拝むのは純然たるご先祖様というか、初期設定が仏様だった人達だったけど、そこにずっと一緒に暮らしてきた人が加わるというのは、なんとも不思議な感じがする。
不思議と喪失感みたいなものは無いというか、むしろ亡くなってから祖父がより身近に感じるようになった。
そういうのも、実感の湧かなさに繋がっている気もする。
俺は典型的なおじいちゃんっ子だったので、祖父が死んだときのダメージたるや相当強烈なのが来るのだろうと覚悟しながら生きてきただけに、ちょっと拍子抜けである。
祖父は、理想の旅立ち方をしたと思う。
もちろん、祖父がどう感じていたかは分からない。
あくまで俺から見てそう思った、という話にすぎない。
ここ1,2年、祖父は足が悪くなっていて、家の外に出るのも稀だった。
それでも家の中では杖をつきながら自分で移動できていたし、食事も自分で食べることができた。
一緒に旅行することはいつの間にかできなくなっていたけれども、突然ではなかったから自然と受け入れることができた。
祖父が急激に弱ってきたのは、亡くなる2か月ほど前からだ。
杖をつきながらでも介助無しで生活できていた祖父が、ある日家の中で転倒した。
それから自分で立つことができなくなり、食事もあまり食べられなくなった。
転倒がきっかけで、というよりは、体が弱ってきたのが先にあり、結果として転倒してしまったんだと思う。
ベッドで寝たきりになったのをきっかけに、東京で介護の仕事をしている叔母がしばらく滞在して、祖父の面倒をみてくれることになった。
毎年委嘱で出展していた絵画展にも、立てなくなる直前に準備をしていたおかげで、過去に描いた作品ながら出展することができたし、スマホがあるおかげで遠くの親戚ともビデオ通話で話すこともできた。
施設への入所を検討していた時、一時的に入院していた病院での検査で、転移性の腫瘍が見つかった。
歳も歳なので治療を行うのは現実的ではなく、結局原発がどこなのかも分からなかった。
世がコロナ禍のため、施設や入院中に亡くなれば看取ることもできない。
そのため、退院後も施設には入らず、家で介護することを選んだ。
この選択ができたのは、ひとえに叔母のおかげだ。
叔母が2ヵ月ほど我が家に滞在してくれなかったら、とてもじゃないが祖父を家で介護することなんてできなかった。
退院して1週間ほど経った後、祖父は祖母の隣で静かに旅立った。
腫瘍を抱えている身で、医師や看護師から「おそらく痛みがあるはず」と言われていたが、祖父はそんな様子はなかったし、痛むところはあるかと聞いてみても「無い」と答えた。
我慢強い人だったので家族に心配をかけまいとしていたのかもしれないし、痛みを感じないほど体が弱っていたのかもしれない。
いずれにせよ、苦しむ様子をほとんど見せずに旅立つことができたのは幸運だったと思う。
我々家族にとっても、祖父自身にとっても。
祖父が自力で立てなくなって、医師からは「歳が歳なので、いつ亡くなってもおかしくはない」と言われていたので、祖父への感謝を言葉にして伝えた。
今思うと、なんだか祖父に死を意識させてしまったんじゃないか、みたいな思いもなくはないが、きちんと伝えたのは間違いではなかったと思う。
もう言葉を発するのも一苦労という感じではあったが、俺が言ったことを理解してくれているという確信もあった。
前職で転勤族だった時、いつも心に引っかかっていたのは「祖父母の死に際に立ち会えるかどうか」ということだった。
東北への転勤をきっかけに転職活動をして、実家に戻ってきて、別れの前に沢山同じ時間を共有することができた。
人生の選択が目標通りに結実する、こんなに嬉しいことはそんなに多く無い。
葬儀の際、祖父が描いた絵を会場のロビーに展示できるだけ展示した。
家族全員、「祖父の絵を飾りたい」という思いはあったけれど、入る限りたくさん展示しようと言ったのは父だった。
通夜室で「じいさん、生前個展ができなかったから、せめて入るだけ運び込もう」と言っていたのが忘れられない。
担当してくれた葬儀社のスタッフも本当に良い人で、我々の希望を全て実現してれた。
両親は、知り合いから「葬儀なんて、後から『ああしておけばよかった』と思うのが当たり前」と言われたらしいけれど、我が家は口を揃えて「葬儀で後悔してることなんて何一つない」と言っている。
なんなら「ちょっとやりすぎたかも」とすら思っている。
30過ぎにもなって、「『生きている』とは何か」なんてことを考えている。
祖父は、自分の世界を大事にしている人だった。
絵を描くような、一人黙々と集中する趣味を好んでいた。
家族が居間でわいわいしていても、隣の部屋で一人テレビを見ていることが多かった。
けれど、他人を拒絶するような人でもなかった。
自分の世界は大事にしているけれども、来訪者がいれば丁重に招き入れるようなイメージ。
だから、一人暮らしで離れて生活している時も、衰弱して上手く会話ができなくなっても、祖父と通じ合っているような感覚があった。
それは、隔たりが「死」というものになっても変わらないのだ。
それが、身体の衰弱から解放された今、祖父をより身近に感じている理由のような気がする。
30年、「心の中で生き続ける」なんて綺麗ごとだと思っていたけれど、案外そうでもないな、と思うようになった。
相応に歳を取ったということかもしれない。
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