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透明日記「掃除して、哲学する」 2024/05/17

モノに住所を与えた。生きていると部屋は散らかる。部屋中に行為の痕跡が散りばめられる。あらゆるモノが住所を失う。

棚から出されて永遠に待たされていた小説、読後に打ち捨てられた漫画、明日に備えて野宿する洋服、「いつか掛ける」と毎日思われ続けている布団のシーツ、部屋の隅に散乱するペン、ハサミ、カッター、物差し、紙切れ等の文房具。

抜け毛、陰毛、紙屑、ほこり。モノが塵に覆われる。住所の記憶を失った浮浪物の群れ。

部屋を掃除する。モノの住所登録。本棚に収まらない本と漫画は机の上に積まれる。本は避難民のように、仮設のバラックを建築する。

部屋を掃除すると空気がクリーンになったような気がした。モノの移動と掃除機、ほんの少しの拭き掃除。何が空気をクリーンにするのか。おそらく、掃除したという行為がクリーンな空気を生み出したのだ。つまり、わたしの心からクリーンな空気が生まれるのだ。

掃除のあと、純粋理性批判を読む。外でうどんを食って、カフェで純粋理性批判を読む。家に帰って、純粋理性批判を読む。餅を食って、純粋理性批判を読む。ひととおり、読み終える。

この本でいちばん惹かれたのは、「定義」に関する箇所だった。数学以外の場面では、あらゆる概念が厳密には定義の名に値しないとか言っていた。

この箇所で、わたしは逆説について考えていた。逆説的表現には何かしら、発見的な認識、創造的な認識があるように感じていたからだ。

乱暴な表現だが、「AはAだが、Aでない」を逆説と考える。数学的にも論理的にも矛盾してるが、Aに具体的な概念を当てはめると、間違っていると思えなくなる。むしろ、「だとしたら?」と考え始めてしまう。

例えば、「椅子は椅子だが、椅子でない」と言ってみる。椅子に対する主な関心は座ることであるが、座ることだけが椅子に対する関心ではない。

ここで、「だとしたら?」が出てくる。椅子という概念と強く結びついている、座るという関心から外れれば、机にもなれば、鑑賞用の作品にもなる。椅子という概念から、可能な椅子の在り方が別な感じで想像される。

この別な感じな想像が起こるのは、逆説によって、椅子という概念に自分が暗黙的に与えているものを取り去るきっかけが生まれるからだろう。

そして、このことが可能なのは、あらゆる概念が厳密に定義しきれないからだ。と、本を読んでる時に思った。

概念は定義されているように見えて、厳密には仮説的なものに留まる。常に別様な説明がありうる。

じゃあ、その可能性の根拠、別様な説明ができる根拠は何なのか。さっきの椅子の場合は、関心のあり方の変更によると思われる。で、この関心は状況によって決まるものだ。つまり、文脈的に決まると考えられる。

だからこう思う。あらゆる概念は、文脈的に条件づけられて説明される。なにかを説明したりされたりする場合、説明内容だけでなく、どんな文脈に基づいているのか、を意識する。この意識が、概念を別な感じで見る足がかりを与えるのだと。

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