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透明日記「どこまでを最近と言うのか」 2024/06/20

最近というのはどこまでの過去を指すのだろうか。

思い起こせば、戦争は大昔のことではなかったか。こどもの頃、戦争は遥か遠い過去のように感じていた。

親が言う昔というのも、戦後数十年経った、70年代ごろの話だったと思う。マクドナルドが上陸した衝撃や、子供の頃に「あんぽ反対、沖縄返せ」とみんなで叫んで遊んだ話は、親父からよく聞かされた。最近とは程遠い昔のように感じていた。

それが年を経て歴史のことを読んだり聞いたりして、案外、最近のことだなあと思うようになり、戦前の小説もよく読むしなあと思うと、大正から明治へと遡って、最近という感覚はどんどん遠い過去に及んでいく。

江戸後期、1748年。十八世紀だ。こう書くとずいぶん昔のように感じる。と言うか、昔だ。

ただ、この年に忠臣蔵が劇として出てきて、日本人に長く愛されていると聞く。ぼくは忠臣蔵の映画を観たような観ていないような曖昧な記憶で、忠臣蔵に関して、これというものが心に残っていないが、内容は知っていて、忠臣蔵というワードを見たり聞いたりはちょこちょこある。

250年前にも忠臣蔵に心打たれる町人がいて、現代にもそういう人がいると考えると、250年という大きな距離はぐっと縮まるような気がする。

そう思うと、最近というのは、自分の現在に繋がっていると感じられる過去まで、というようにも捉えられる。最近というものの別な側面として。

歴史的な事件も因果的に結んでいけば、現在を基礎付けているのが見えてくる。昔の人々の感覚に共感できれば、現在の自分とも通じるところがあると思える。

自分の知らない過去の知識が増えていくと、それらがどんどん繋がっていく。どんどん繋がって、立体的になる。ある時代が立体的に見えるようになってくると、リアルに感じるし、現在への影響も強く感じられる。

平安時代の研究者が、わたしは平安時代の人です、と嘯くのも、幾らかは本気で言うことなんだと思う。

しかし、第二次世界大戦がわりと最近のことのように感じていたとしても、自分の幼少期は最近とは感じない。自分の経験に関しては、一年前も最近とは言いにくい。

おそらく、自分史としての時間軸と歴史としての時間軸が区別され、どちらの軸を取るかで、最近とか昔という時間のスパンが変わるからだろう。

事実とみなした世界を、自分の経験した世界と経験していない世界に区別して、二重の時間を生きているみたいだ。それだけじゃない。経験していない世界は他人ごとにある。どうやら、言葉を通じて多重の時間を生きているようなものだ。

ん?言葉が時間をつくっているのか?

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