見出し画像

透明日記「せやせや、暇やから何か書いてるんやった」 2023/09/19

果たして、なんで日記なんぞを書いているのか、分からんなった。

一月半前からnoteに日記を書いてるけど、書いてる時間が醜くなっているように感じた。気付いたら偏執的に動詞とか「てにをは」を切り刻んでは繋げて、文章のキメラを作っている。語のリズムとか、語が指し示すベクトルを調整する感じでいじるわけやけど、少しいじると思いもよらぬ修正の連鎖に苦しむ。

なんか書くときの心の持ちようが、醜い。数ミクロンのブレも許してはならないような感じで書いて、結局できあがる文章は手垢で汚れた歪なオブジェに見える。

言葉を顕微鏡で観察しながらピンセットでつまむようなやり方は疲れる。なんらかの完成を目指して微調整をするわけやけど、「完成」は観念でしかない。多分、いつしか身に付いた何らかの型に合わせようという気持ちがどこかにあるんやろう。

昔はもっと、ちゃんとしてなかったように思う。アレについて書こうと思って書き出すと、出だしから関係のないことを書き出す。そうやって、書き出したら変なものができていた。後から見返すと、自分が書いたのかどうかを疑う文章が見られた。一体誰が書いたんだみたいな文章を一人で書いて楽しんでいた。そういうノリを思い出したいと思っている。

昔からなぜか暇な時間が多かった。忙しい人間の生態が不明であった。しかし暇を持て余すと、退屈になる。退屈だから、自分を笑かすようなことをする。

たとえば、家でひとり、本を読むのに飽きた日があった。正座しながら、次何しよかと思った途端、反射的にスッと手が挙がり、「エセ中国語ひとり漫才やります」と、急に一人で変なことをやり始めた。自分でやって自分で見る。間と表情が面白くって、笑いこける。演者二人と観客一人の一人三役をこなしつつ、頭の中の虚構の舞台を楽しんでいた。ひとしきり笑い済ますと、辺りを見渡す。鏡を見に行く。怖かった。でも、なんか壊れてて面白かった。

文章に関しても、いつか自分を楽しませられたから、また書こうという気になるんやと思う。何かを書く理由は人それぞれ、一人の人間でも日によるやろうけど、ぼくは暇やからという理由でなんか書いてることが多い。この緩さの上に書く行為を戻して、日記を続けようと思い直していた。今日。

それで、なんか気が楽になった。今日は気分の調整のために書いてたんやろう。日記書くだけやのに、誰かに見られる思て、変に気ぃ張っとったらしい。あー、はずかし、アホらし。気ぃゆるんで歯ぁ抜けそうやわ。

昔書いていて楽しかったものを貼っておこう。よお分からんもんやけど、他人が書いたみたいでええわ。
 

「影博士の繰り言」
天然の影は濃ゆく、「曖昧で覚えていない」という縁の取り方が処された形跡もなく、ただただ確実に当たり前の日常を過ごしてきましたという体で、朝方の仕事人間の報告としては至極適当で、作為されたる虚飾を排した明るさに満ち、理に適うところは巨象の足踏みに劣らない確かな重みがあります。

人工の影はというと、影と一字で呼べるほどの水際立った個性は認められず、本人としても起業等の独立願望も持っていないようなので、天然物に比して半人前以下の人格と評価して差し支えなく、四天王寺さんに詣でていらせられるセキレイやミドリガメみたいに判然と、一、と数えられる個体性もないようですから、影ではなく、陰影、と呼ぶのが輪郭の淡い広がりを声帯に刻むの感があって、適当なような気がします。もっとも、日常的な簡便には影と称して不自由はありませんが。

殊に街路では一人の人間が二つ以上の影を産むことは日常茶飯の現象で、元手一つの人体が二つの影を産むというのは不労所得のようですけど、ひとつひとつは観光地にあやかった粗悪な物品と見て相違なく、冷静に日常的な視点を持てばどの影も出来損ないであると鑑定でき、影の発起人を憐れむことはできても非難しうる物的証拠はどこにもなく、彼彼女もまた近代という時代の申し子でありますから、粗悪な影の氾濫は近代という時代にその責を帰するのが穏当でありましょう。

ひとつの事例として。川へ向かう道はどれもが橋に通じているわけではなく、いくつかの道は川の手前でUターンを歓迎していますが、Uの字の底、の暗さには怪しげな人間の襲来を予期させるどん詰まりの感があり、夜の散歩コースに耐える気安さはないものです。して、近在の某どん詰まりでは暖色街灯の効果により、歩行者の影は四つにも五つにも分かれるのが見られ、どの影も生まれるやはや薄く伸びては地に吸われ、男どもの精子やマリオのように短命で自分の意志がなく、かつ、無数の命ゆえに「イノチだ」とは顧みられず、その死に心を痛める人もないようで、街灯に対する人間の影は浮かぶ瀬もありません。

またひとつの事例として。一般的な日本の家庭では部屋一つに一つの照明が施されており、「一日には一枚のパンツを要する」という、暮らしの算術に通じた明瞭さがあるものですが、学校やオフィス、カフェ等の他人同士が集まる場所では、「光量の不平等を慎むべし」という民意に基づいて設計が画され、空間の広さに応じて個々の照明が間隔を取るさまはさながら、鴨川のカップルや牧場の牛と同じく、他を重んじて自己の利とする公共的な配列となっております。して、近在の某カフェでも照明は所々に配されて、床には椅子やテーブルのおみ足、お客様方の御神体などが影となり、濃淡さまざま大小さまざま錯落として、四方に伸びては近傍の影と影とに絡まって、物体の数と影の数を照らし合わせても、裏社会で記帳されたる貸借対照表のように収支が怪しいものでありますから、目に見える影さえも、現代では人間の精神のように一がニとなり三となるの不思議が展開されているようです。

このように影における天然物と人工物は明瞭さの点で一線を画し、夜を昼とする文明の祈願は材木に鋸を引く要領で影を切り、人工の影の総体を刃面に滅ぶ切り粉の分だけ、風にさらわせたかのように目減りさせているのが本当であります。ところで、ナポレオン全能期のドイツにはシャミッソーの『影をなくした男』というメルヘンがありまして、悪魔に影を売って右往左往するわけですが、人間にとって影を失うのはなんとも生きづらいそうであります。現状より推測するに、人間の影は分裂を極め、未来の人間は影を失うのではないかと思われ、影のない人間は虚空に迷うのではないかと、危惧される次第であります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?