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青春けむり健康法

 タバコは好きだ。習慣的に吸い始めたのは二十三の頃からだから、喫煙者としては遅咲きだ。その頃私は「なんで死ぬのに生きなあかんねん」という青春の暗い悩みに真剣だった。生きる意味の無さに絶望し、学業を捨て、留年した。哲学書に手を出した。読み漁っては分かったような分からないような気分を得、コクヨの「LEVEL BOOK」に日夜、自分とは?、生きるとは?、死ぬとは?、などの良からぬ問答を書き殴っていた。出口のない思考がぐるぐる頭の中を巡るばかり。頭の処理が追いつかずに気絶したこともあった。幸い、畳んだ布団の横で正座したまま気を失ったため、布団にもたれていた。起きて、ぼんやり部屋の一隅を眺め、意識が目覚め始めると、ぐるぐる、またもや気絶した。気絶はその二度で済んだものの、空虚な問答ばかりは毎日ぐるぐる。あの頃の私は壊れたパソコンだった。

 そんな頃に坂口安吾の「青い絨毯」を読んだ。食うに困る貧乏でも、食うよりタバコを選ぶという。これは面白いし、安吾は好きだ。真似をした。一本のタバコでクラクラと酔い、意識が目の奥へ沈むように感じた。見える空がなんか違う。これはいい。それから毎日吸っていると習慣が身に付き、喫煙に救いまで感じ始めた。

 習慣の中で、人間はいくらかの安心を得る。その習慣がどんなに不快で、後ろめたいものであっても。
 学校にも行かず、人とも会わず、コレという活動もない留年の私は、一日の中で安心する拠り所を持たず、虚しさばかりで張り詰めていた。そんな中、新習慣のタバコが緊張をほぐした。張り詰めた頭を一時的に緩めることができる。タバコにいくらか救いを感じた。思えば、タバコと似た効能は、問答を書き殴る習慣にもあったのだろう。書き殴って思考を外部に出すことで、心は空虚ながらも、書くという習慣にいくらかの安心を得ていたのだと思う。緊張がほぐれた、という実感に至らなかったとしても。

 こういう経験から私は、「体内の異物を外に出すことは健康だ」という悟りを得た。思考でもイメージでも糞尿でも、体に元々備わっていない異物を外に出すのは気持ちいい。文章を書いたり、絵を描いたり、人に話したり、汗を流したり、排便したり。抱えた異物を外に出す習慣を持つことは人間を健康にする。タバコも、吸ったら吐くものだから、「吐く」というところが健康の理に適っているのかもしれない。

 次回は、「排便」でやります。

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