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脱力しながら推進する身体

 泳ぐのはどちらかと言うと好き。泳ぎに行くのは面倒くさいけど、まあ好き。去年の夏は水の中でバチャバチャやりたくてプールに通った。水の中の感覚が恋しくなって。
 でも、広い水の中は静かで得体知れず異質で不気味で気色悪い。気色悪いからバチャバチャやっつけたくなる。やっつけると、自分のパワーが水にはっきり痕跡を残しながら伝わるのが見える。ほわわなエネルギー流体。アレを見ると、こんなパワーを持っていたのか、ああ嬉しい楽しい、となる。ものの、単純なカラクリに飽きて、「果たして動きにくい体を自分はどれだけ動かせるのだろうか(水の中で)」などと、己の可能性を感覚的に追究し始める。
 そう言えば、子供は銭湯でよくはしゃぐけど、はしゃぐ心も己の可能性を追究する精神なのだろう。自分の身体運動の探究者だ。
 私は大人になった今でも、人目のない銭湯では湯船にふわふわ漂ったり、水面に渦を作ったり、波紋を生み出したりして過ごしてしまう。これは探究と言うより、アホで、恥ずかしく、情けないことだと思うが、止められない。条件が整うと、体が勝手にやりたくなるのだ。

 去年の夏はプールに通い、クロール、平泳ぎ、背泳ぎの三種を試した。バタフライは水泳部員にしか伝授されず、部外者は習う機会がなかったので泳げない。まあ、騒がしさゆえにやりたいとも思わない。
 昔は背泳ぎが好きだった。「漕いでる」という感じがハッキリしていたから。でも、市民プールで泳いでみると、背泳ぎは前方が不注意で、共有レーンでは不安が多く、心から楽しめるものではなくなっていた。不安は楽しみを半減する。
 そこで、背泳ぎに取って代わったのは平泳ぎで、泳ぎの中に「伸び」を発見して好きになった。水を掻き、蹴り、伸び、進む。クロールだとずっと動いていて、運動の気分としては陸上のマラソンと変わらない。平泳ぎには「伸び」がある。脱力しながら推進する身体運動は、地上にはない。自転車を使えば可能だが、身ひとつで進む所に平泳ぎの価値がある。そこに気が付き、平泳ぎばかりやっていた。腕より足を多く使うので長く泳げるのもいい。

 水の中は異質で気色悪いが、動いているうちに異質な感覚が面白くなり、陸に上がると恋しくもなる。自分の身体が異質なものになる。そんなことを好むのは陸の動物としては異常なことだと思うが、動物的な好奇心がそうさせるのだろう。
 ああ、プールに行きたい。冬でも行けるが、行きたくない。冬のプールには風流がない。それに、皮膚の乾燥が激しくて痒くなるし。

 次回は、「皮膚」でやります。

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