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透明日記「頭のリハビリ」 2024/06/02

昨日の日記。抽象的なものに関わってばかりいたので、頭をほぐすために何か書いていた。

頭が歌う。痛い歌を歌う。頭痛と呼ばれる痛い歌を歌う。音楽は滅びた。

五月はカントの批判書を読み続けていた。頭の形がすげえ四角くなったように感じられて、痛い痛い。読んで何かが分かったという感触も薄い。概念の散らばった子供部屋が檻となって、現実を阻んでいる。

形而上学の国はおもちゃの国、おもちゃの国から亡命する抜け道を準備しなくちゃいけない。おもちゃをいくつか持ち出して、脱走しないといけない。別のおもちゃの国へ。

音楽は滅び、部屋は停滞に停滞を重ね、淡い時間、曖昧な夢のない時間、停滞の時間が流れる。カチコチとぎこちなく、硬くて黒いゴム玉のような時間、ただの物体のように役にたたない時間の山、ただただ耳障りな歌が聞こえる。痛い歌が聞こえる。頭痛。まるで音楽が鳴らない。

ベランダの補修工事が終わり、ベランダに光が滑る。ピカピカの防水塗装、重くて淡い春の空、雀の軽い鳴き声、暗いカラス、テレビドラマの真剣な場面、ソファに休む半袖の母、部屋に吊るされたトレーナー、部屋で倒れる風呂の桶、ビニールの切れ端、乾いた雑巾、乾いた肌、ねじれた座布団、空中で静止し続けるハンガー、踏めば痛いシャープペンシル、文明と自然現象が惰性を孕み、うねり、流れる、日曜日の昼。

ぬめぬめと半径五メートルの円の縁を回り続ける。頭痛が現象を解体し、あらゆる意味が宙吊りになる。日常が括弧をつけて遮断され、一枚の絵になって額の中に収まる。日曜の昼、布団のシーツがベランダになびく。

とにかく言葉を並べよう。リハビリ。頭のリハビリ。言葉のリハビリ。観念のおもちゃを揉む。よく揉む。親指の腹で、人差し指の脇腹で、両手で、肘で、踵で、夢と現実のはざまで。

現象の細かさ。言葉を積み重ねる必要性は、言葉の多義性に基礎をおく。つまり、肉体は肉体をやめ、日常は日常をやめ、部屋中の本は本であることをやめ、あらゆるものが好き勝手に手を結び、人間の歌を歌い始める。

常軌を逸した天才の音楽が排水溝から聴こえる。下水のうねりはたくましい輝きを伴って、人間の排泄物を鼓舞してやまない。糞と小便に彩られた英雄たちが文明を叫んでいる。消え去った夢の数々が肉体の夢を見ている。下水にしか音楽はない。

汚いもの、猥雑なもの、臭くて人を寄せ付けないもの、文明を汚染するための科学知識。小便臭い自然科学と、糞まみれの人文科学が望まれている。人間が人間であるために。人間だけが人間であるために。人間が可愛く、愛おしく、排泄行為をし続けるために。

人間の可愛さの根っこには、うんこがある。人体はまいにち一生懸命、誰に言われたということもなく、うんこを作っている。うんこばかり作っている。人間はこの活動から生きる力をもらう。食べ物が活力になるのではない。断じてない。

食べ物を求めるのは人体がうんこを作りたがるからだ。定量の不恰好な作品を作り続けることに意味はない。ただただ、材料があると作れてしまうから作っている。そこに意味はない。

ぼくは生全体がダメだから生きている。ダメダメだから生きていられる。心に清潔な方向性を持たせる、真っ当な人間になれないから生きている。純白の観念を抱いていたつもりが、汚物を握り潰していた。そういうことに気付くことがあるから、生きていたいと心から思える。

さあ、生産性を上げよう、パフォーマンスを向上させよう、市場価値を増大させよう。元気溌剌、合法のカルト教団に入信しよう。堕落した精神を目指す狂信的な宗教団体の幹部候補が私だ。

惨めな知性と醜悪な利己主義を尊重し、視野狭窄のモラルの旗を振りながら道の真ん中を歩くのだ。すべては未来のパライソのために。私のパライソはあなたのパライソ。私は君を待っていたんだ。さあ、パライソへ、突き進もう。肉体は未来の肥料に過ぎない。視野狭窄のモラルによって初めて、人間の魂が発揚するのだ。

肉体をタンスの肥やしにする清廉潔白なモラリストの支配は、徹底的に愚鈍な方向へ突き進んだ。それが18世紀末から現在まで続く歴史である。

偏狭なモラリストの領土拡大作戦は、観念の次元で展開されている。観念の帝国主義。あらゆる領域に境界線を引き、事あるごとに境界石を自分の都合でずらしていく。抵抗は虚しく挫かれる。抵抗は素手で石を動かそうと計画するが、モラリストは重機で強引に石を動かす。観念的に、暴力的に、モラリ。

唯一残された抵抗は、境界石をひっそりと隠すことだ。問題はただ、どう隠すかに尽きる。隠すという態度さえ自他共に認識できない隠し方はないものか。境界石をバーチャル空間に遷移させるような、被せたヴェール自体を楽しむような、そんな方法は。

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