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人と喋らなさ過ぎてnote書く36

言っていなかったが、ボクは『虚無教』という宗教の教祖をしている。

虚無(きょむ)教は、「人々は虚無からやってきて、虚無に還る」という教えから、虚無を愛し、虚無を行う宗教だ。

活動としては、一週間に二日以上の「虚無」を行う。「虚無」を行う日には、意味のあることをしない。
昼に起きて二度寝した後に布団の中でツイッターやYouTubeを観てだらだらして、気付けば夕方になってご飯食べて風呂入ってツイッター見て寝る、といった行いをする。
厳しい戒律はないが、週二回の「虚無デー」を守れないと虚無教を信仰しているとは言えない。
虚無を愛しているからこそ虚無を行う、それが『虚無教』である。

ここまで全て冗談だから安心してほしい。
なんならVtuber剣持刀也の『虚空教』からだいぶパク、もといインスパイアを得ている。

しかし『虚無』を大切にしているのは本当だ。
休日を無為に過ごし、「今日なんにもしてない、虚無だった…」と思うことがあると思う。
しかしボクは、そのなんの意味もなく過ごす虚無が好きなのだ。

それを強く感じたのは、コロナ全盛期の頃である。
コロナがヤバくなり始めた頃、学校が休みになったり、外に出る仕事がなくなったりした。
休みではあるが大っぴらに外出もできず、家にいるしかないという、社会的な不安も相まって暗澹な期間だった。
しかし明けない夜はないように、長いお休みも終わる。

そして長期休み明けというのは、必ず「なにしてたの?」と聞かれるものだ。
特にコロナ禍という特殊な環境での長期休みは、誰がどう過ごしていたのかは興味がある。
しかし、何もしてなかったので何も答えられない人もいるのだ。

ボクはコロナ禍の休みの間、虚無を過ごしていた。
正確にはマンガを描いたり部屋の掃除をしたりしていたが、当時描いたマンガを読み返すと面白くなく(あまり面白いことが考えられなかった)、掃除も「見違えるほど綺麗になりました」とは言えない状態だった。
何もしてないわけではないけど、成果と呼べるものは何もない。
あんなに長い休みがあったのだから、もっとできることがあっただろうと思った。

しかし、何度同じことがあったとしてもボクは同じ虚無を繰り返すだろうとも思った。
虚無の時間は、なんだかんだ楽しかったからである。
そう思った時に、虚無を後悔せず、虚無が好きであることを受け入れようと思ったのだ。

これが『虚無教』の始まりである。

人生を意味のあるものにしようとすると、「何かを達成しなければ」「何者かにならなければ」という焦燥感に駆られる。
なんの成果も上げられず、日々を虚無に過ごすことが悪いことのように思うこともある。
しかし、人生に何か意味をもたらしたところで、本当に欲しいものは手に入るのだろうか?
焦燥感に抗って、成果のあることに執着して、何もしなかった自分を叱って、それで幸せになれるのだろうか?

「虚無を過ごしたくて過ごしてるのだ」と信じれば、「まぁ、目の前にあることを楽しもうや」という軽い気持ちになれる。

今週はどうやら3連休らしく、学生はそろそろ夏休みが始まる。
なんの予定もない人にとって、存分に虚無を信仰できるまたとない機会である。
虚無を愛し、虚無を過ごそう。

でもご飯の後のお皿洗いはしよう。夏場は特にな。

虚無教を信仰せよ

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