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タイムトラベル、電話のベル。

たったひとつの音が、心をタイムトラベルさせることがある。

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小学生のわたしは、ママにあるお願いをされるようになった。

「電話に出て。ママはいないと言って」

小学生にとって、親からのお願いは時に命令でもある。家の固定電話のベルが「トゥルルル」と鳴ると、心臓が暗く重くなって、全身の肉が硬くなる。それでも仕方がないので電話に出た。

電話には、アタリとハズレがある。

営業みたいな電話はアタリ。パパからの電話もアタリ。

ママの仕事先の人からの電話はハズレ。おばあちゃんからの電話は大ハズレ。

でも、ママだって「そろそろ電話が来る」とわかっているから、わたしにお願いするのだ。ハズレの確率ってけっこう高い。

「もしもし」とお決まりの言葉と名字を言い、相手が話すのを待つ。電話番号が表示されない固定電話だったから、相手が声を発するまでは、誰かわからない。

「もしもし。まきちゃん。ばあばだけど」

大ハズレ。おばあちゃんのしゃがれた甘ったるい声が耳から入って、沈殿していく。

「おばあちゃん」

わたしが言うと、目の前のママは首を振る。

「元気にしてる?」
「うん、元気だよ」
「ママはおうちにいる?」
「ううん、いないよ」
「ほんとうはいるんでしょう?」
「いないよ」
「ママに代わってくれる?」
「いないよ、ほんとだよ」

ママを見ながら、嘘をつく。いつも、なんで電話してくる大人たちがすんなり納得して電話を切ってくれないのか、それが不思議だった。

なんども同じやりとりをしなければならない。ロボットになりたいと思いながら、「イナイ」を繰り返す。

嘘を貫き通せなくて、ママがため息をついて受話器をわたしの手から取っていくときは、嘘をつくより悪いことをした気分になった。

子どもは意外と賢いし、置かれた環境でいくらでも大人びたふりができる。

家のなかが喧嘩と暴力だらけな元凶が、おばあちゃんであることは、ちゃんとわかっていた。

一度だけ、電話をとって、感情が爆発しそうになったことがある。家にわたしひとりのとき、おばあちゃんから電話がかかってきた。

「もしもし、まきちゃん、ばあばだけど。元気?」

元気なわけないよ! うちはめちゃくちゃだよ!
ぜんぶおばあちゃんが悪いんでしょ! なんで平気な声で電話してくるの!

「うん、元気だよ」

結局、身体に溜まった言葉は、ひとつも出てこなかった。それ以降、おばあちゃんと話すことはなくなって、会うこともなかった。しばらくして、もう嘘をつかなくてもよくなった。ママが家を出て行って、嵐はひとまず止んだ。

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大人になって30歳を過ぎた今も、固定電話の音には敏感になってしまう。「トゥルルル」と鳴る直前に、わが家の電話はなぜかかすかな音が「カチッ」と鳴る。なんの音かはわからないけれど、テレビから音が流れていても、雨が強い日も、いつも必ずわたしにはその「カチッ」という音が聴こえる。父は聴こえないという。

「カチッ」

数秒後に「トゥルルル」と鳴るとわかっているベルが鳴る。

たったひとつの音が、心をタイムトラベルさせる。小学生のころの記憶に、戻っていく。

でも、いまはもう、大人だ。わたしは、小学生のわたしと一緒に手をつないでタイムトラベルをする。

「もしかしたら、おばあちゃんも必死だったのかもしれないね」
「おじいちゃん、先に死んじゃったしね」
「病気で半身不随になって自由もきかなくて、つらかっただろうね」

おばあちゃんのことは、もう電話の声しか覚えていない。抱きしめられたことも頭を撫でられたことも、あったのかもしれないし、なかったのかもしれない。嵐のような状況下にいると、記憶は飛びやすい。もう、覚えているのは声だけだ。しかし、覚えていられることがある、ということは幸福なのだと思っている。

去年、おばあちゃんは亡くなった。亡くなったことも後から知ったし、葬式にも出なかった。

お墓参りに行くと、20年以上ぶりに、おばあちゃんに会えた。清らかな気持ちで手を合わせた。

人は、二度死ぬらしい。永六輔さんが書いていた。

人間は二度死にます。
まず死んだ時。
それから忘れられた時。

わたしが死ぬまでは、おばあちゃんも生きることになりそうだ。タイムトラベルをするたび、おばあちゃんは「元気?」と声をかけてくれる。

30minutes note No.920

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