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99%のためのフェミニズム宣言・序「フェミニズムから国民を守る党」

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 どうもフェミニズム本を読み続けて脳みそがぶっ壊れそうになりフォロワーに心配される私ですが皆さんいかがお過ごしでしょうか。読書とは本来は知的好奇心を満たし知見を知見を広げる楽しい時間のはずがことフェミニズム関連の書籍を読むとなるとそれが拷問に変わります。精神衛生に与える影響は大変に悪い。にも関わらず私にフェミニズム本を読め読めと言うフォロワーには仏の心が微塵にでもあるのでしょうか。愚痴はさておき今回ご紹介するのはこの本です。ちなみにこのnoteで序文を読めるので皆さんも是非ちょっと読んでみてください。

 この著書に関しては一部でやっとまともなフェミニズム本が出た!と話題になっていたもので何とも気になっていた次第でした。著者のひとりであるナンシー・フレイザーですが見覚えのある名前の方もいるのでは無いでしょうか。フレイザーといえばこちらフェミニズムはなぜネオリベの侍女になってしまったのかの文章で知られています。以下引用。

わたしはフェミニストとして、女性解放のために闘うことで、より良い世界−−より平等で、公正で自由な−−を築いているといつも考えていた。だが最近、フェミニストたちによって開拓されたそのような理想がかなり違った結果をもたらしているのではないかと不安を感じ始めた。とくに、わたしたちの性差別批判が、いまや不平等と搾取の新しい形式のための正当化を供給しているのではないかと。
 運命の意外な展開により、女性解放のための運動は自由市場の社会を築くためのネオリベラルな努力との危険な結びつきに巻き込まれてしまったのではないかとわたしは恐れている。それは、かつてはラディカルな世界観の一部を構成したフェミニストの思考がますます個人主義的な用語によって表現されているさまを説明するだろう。かつてフェミニストがキャリア至上主義を促進する社会を批判したところで、それは今や女性に「がんばる」よう助言する。かつては社会的連帯を優先した運動が今や女性の起業を称揚する。かつては「ケア」や相互依存の価値を発見した世界観がいまや、個人の達成や能力主義を奨励する。
この変化の背後にあるのは、資本主義の性格の変貌だ。戦後の国家管理型資本主義は新しい形式の資本主義−−「組織されない」、グローバルな、ネオリベラリズム−−に道を譲った。第二波フェミニズムは前者への批判として現れたが、後者の侍女になってしまった。
結果論になるが、女性解放運動は同時に異なるふたつの可能な未来を指向していたということが分かる。第一のシナリオでは、ジェンダーの解放が参加型民主主義や社会的連帯と同時に実現する世界を予想した。第二のシナリオでは、新しい形式の自由主義、女性に男性同様の個人的自立のための資源や増大する選択肢、能力主義的達成を認めるようなものを約束した。この意味で第二波フェミニズムは両義的である。ふたつの異なる社会のビジョンのどちらにしても、ふたつの異なる歴史による彫琢に影響された。
フェミニズムの両義性は、近年、第二の個人的自由主義シナリオの観点に結実したように思われる。だがそれはわたしたちがネオリベラルな誘惑の受動的な犠牲者だったからではない。逆に、私たち自身が、みっつの重要な思考をこの展開に貢献したのである。
第1に寄与したのは、わたしたちの「家族賃金」批判だった。男性稼ぎ手と女性家庭責任者(の組み合わせ)という家族の理想は、国家管理型資本主義の中心にあった。この理想に対するフェミニストの批判は、今は「フレキシブル資本主義」の正当化に役立っている。結局、この形式の資本主義は女性の賃労働−−とりわけサービス産業と大規模生産産業における低賃金の仕事、若い単身女性によってのみではなく既婚女性や子どものいる女性によっても従事される、人種化された女性だけではなく、実質的にあらゆる国籍と民族の女性たちによる−−に依存している。女性が世界中の労働市場にあふれてくるにつれて、国家管理型資本主義の家族の理想はふたりの稼ぎ手という、より新しい近代的な規範−−フェミニズムに公認された−−に取って代わられている。
その新しい理想の下にある現実は、低下した賃金レベル、減少する雇用の保障、切り下げられた生活水準、世帯収入に必要な労働時間の急増、ダブルシフト(仕事のかけもち)の悪化−−ふたつどころかしばしば三つや四つのかけもち−−、貧困の悪化、女性が家計責任を持つ世帯での貧困の集中などであることを忘れてはいけない。ネオリベラリズムは女性のエンパワメントの語りを磨くことで、小石を宝石に見せてしまっている。フェミニストの家族賃金批判を搾取の正当化のために利用することで、女性の解放の夢を資本の蓄積のエンジンに結びつけているのだ。
フェミニズムはネオリベラルの精神に第二の貢献もなした。国家管理型資本主義の時期に、わたしたちはちょうど、階級の不平等にばかり傾注して、ドメスティック・バイオレンスや性的搾取、生殖/リプロダクションの抑圧などの「非経済的な」不公正が見えなくなっているような狭い政治的ビジョンを批判した。「経済主義」を批判して「個人的な事柄」を政治化することで、フェミニストはジェンダーの差異という文化的な構築を前提とする地位のヒエラルキーに挑戦できるように政治的課題を広げた。それは文化と経済の両方を横断する正義のための闘争を拡張する結果となるはずだった。だがじっさいには、「ジェンダー・アイデンティティ」のほうにばかり注目し、パンとバターにまつわる事柄を犠牲にする結果となった。より悪いことに、フェミニストは、何よりも社会的平等の記憶を全て抑圧したい、上昇するネオリベラリズムにあまりにぴったりと適合するアイデンティティ・ポリティクスと化してしまった。結果的に、わたしたちは、状況が政治経済の批判について再二重化された注目を必要としているまさにそのときに、文化的な性差別の批判を絶対化してしまった。
最後に、フェミニズムはネオリベラリズムに第3の思考を貢献した。福祉国家的パターナリズムに対する批判である。国家組織型資本主義の時期には明らかに進歩的だったが、その批判はその後、ネオリベラリズムによる「乳母的国家」に対する戦争と、より最近の皮肉なNGOの発想へ収斂した。その実例は、「マイクロクレジット」、グローバルな「南」における貧しい女性たちへの小さい銀行型融資のプログラムである。トップ・ダウンの官僚的な国家政策に対してエンパワーするボトムアップのオルタナティブと位置づけられ、マイクロクレジットは女性の貧困や従属へのフェミニストの処方箋として見なされている。しかしながら見逃されていることは、煩わしい同時発生物である。マイクロクレジットは、国家が貧困と闘うマクロ構造的努力、小規模な融資では代替できない努力を捨て去った時に急成長した。この場合でも、フェミニストの思考はネオリベラリズムに取って代わられた。市民をエンパワーするために国家権力を民主化することをもともと目指していた展望は、今や市場化と国家の削減を正当化するために利用されている。
これら全ての場合において、フェミニズムの両義性は(ネオ)リベラルな個人主義のために分解された。しかし他方で、連帯に向かうシナリオもまだ存在している。現在の危機は、その縫い目をもう一度拾い上げ、女性解放の夢を連帯社会のビジョンに再結合するチャンスを与えている。そのためには、フェミニストはネオリベラリズムとの危険な結合を断ち切り、私たち自身の目的のために三つの「貢献」を再主張する必要がある。
第一に、賃労働を脱中心化し、ケア労働やそれ以外のものを含む賃金化されない活動を尊重する生活様式に影響力をもたせることで、私たちの家族賃金批判とフレキシブルな資本主義の誤ったつながりを切断したい。第二に、男性中心的な文化的価値を前提とする地位秩序を変容させる闘いを、経済的公正のための闘いと統合することによって、私たちの経済主義批判からアイデンティティ・ポリティクスに至る道を崩壊させたい。最後に、公正のために資本を制御することを求められている公的権力を強化する手段として参加型民主主義という底流を再主張することによって、私たちの官僚制批判と自由市場原理主義の間のにせの絆を切断したい。

 女も働くべきというフェミニズムはネオリベラリズムにとってきわめて都合が良く竹中平蔵などに利用され続けてきて搾取の共犯者となってしまった件はこちらで私も書いた通りです。

 やっとそのことに気づいていたずらに女性の社会進出を促すのをやめてくれるんですね。ついに私とフェミが意気投合する日が来たのかと読む前から私の胸は高鳴る一方でした(嘘です)。

 アンチフェミの皆さんでも女性の社会進出自体は大いに結構という方も結構おられるでしょうがしかし女性の社会進出をクォーター制など制度をハックしてでも強引に実現しようというのがそもそものフェミニズムであり女性の社会進出が進まないのは女はこうあるべきというジェンダーに囚われているせいだ。だからジェンダーフリーで女性らしさも全て破壊すべきだ。そして男性社会を打倒すべきだ、望まぬ妊娠によってキャリアを中断させられないよう中絶もどんどん自由化されるべきだというのがフェミニズムです。そして神に誓っても断言しますが世界中の議員や管理職の半分がいやその全てが女性になっても女は人権を認められていないと言うでしょう。今までの流れから言って絶対です。

 ではお前は男尊女卑主義者なのか。イスラムみたいのが理想なのかと言われればそれも違います。はじめから結論を申し上げれば女性の社会進出や政界進出を否定はしませんが民主的な合意の結果としてそれが完全に実現しないのであれば強引に推し進めるべきではない。その為に本来は支え合って社会を築いていくはずの男女の対立をむやみに煽るべきではない。そんなことをしたら社会が壊れていってしまう。そしてそのために本来の女性の美点をかなぐり捨ててしまうべきではないとのが私の考えでこれは「フェミニズムの害毒」を書いて私にも多大な影響を与えた林道義氏の考えでもあります。林氏はフェミニスト達から男尊女卑主義者だのミソジニストなどさんざん批判されましたがそもそもこの人は女子大の先生です。

 男女の賃金格差は是正されるべきである。良心的なリベラル男性などはこれを喜んで肯定するでしょうが私はこれに関してどうも乗れません。何も女性は飢えて死ねと言いたいわけでなくこれに関してはいかんせん男女の本質的な資本の差異があり男性はその労働力が資本であり女性はその性的魅力が資本になるという差異から来るものでありAV業界などたった1日の労使により女性が安くはない報酬を得られるケースもあり男女賃金格差というのは果たしてどこまで妥当なのか大いに疑問があるところです。前置きや駄文がついつい長くなってしまうのは我が悪い癖ですが早速ではありますが本書の話に移りたいと思います。引用は公開されている冒頭部分からです。

同じ年の春、闘争的なフェミニスト・ストライキがスペインを機能不全に追いこんだ。五〇〇万人を超える参加者に支えられ、二四時間にわたるストライキを組織したウエルガ・フェミニスタ(フェミニスト・ストライキ)の主導者たちが呼びかけたのは、「性差別的抑圧、搾取、暴力から解放された社会の実現」であり、「私たちに従順であること、服従すること、沈黙することを要求する家父長制と資本主義の協力体制に抵抗し、闘いを挑む」ことだった。マドリードとバルセロナの上に太陽が沈んだとき、フェミニスト・ストライキの参加者たちは世界にこう表明したのである――「この三月八日、我々は断固として、すべての生産活動、また再生産活動を停止させる」。そして今後、「同じ労働に従事する男性よりも劣る労働条件や賃金を決して認めない」と。 
これら二つの声は、フェミニストの運動においてまったく逆の方向を示している。他方、サンドバーグや彼女と同階級に属する人々は、フェミニズムを資本主義の侍女であるとみなしている。彼(女)らが望むのは、職場での搾取と社会全体における抑圧を司る仕事が、支配階級の男女によって等しく分担される世界である。これは支配の機会均等という特筆すべき展望であり、つまりは普通の人々に対し、フェミニズムの名の下にこう求めるのだ――あなたがたの労働組合を破壊し、あなたがたの親を殺すようドローンに命じ、あなたがたの子どもたちを国境沿いの檻のなかに閉じこめるのが、男性ではなく女性であることをありがたく思いなさい。こうしたサンドバーグのリベラル・フェミニズムとはまったく対照的に、ウエルガ・フェミニスタの主導者たちは「資本主義に終焉をもたらす」ことを主張している。つまり、上司(ボス)というものを生み出し、国境を設け、それらを警備するためにドローンを生産するシステムの終焉である。

 まずこの序文からしてよくわからないのですが労働組合などが賃上げ交渉や待遇改善のためにストライキを行うことは常套手段でありこれはあくまで資本主義の範囲内です。これを資本主義の終焉を求めるというのはよくわかりません。まず資本主義とは何ぞや?という話から致しますと資本主義とは個人や企業が利益追究のために自由に経済活動をしても良いという考えであり賃上げ要求のために労働者たちがストライキを行う。これもあくまで資本主義の範囲内です。では資本主義を終わらせるというのはどういうことになるのかと言えばそれは社会主義革命を起こすことです社会主義とは何と言いますとカール・マルクス(1818 -1883)が教祖で資本家が労働者を搾取しどんどん格差が開いてしまうので資本家を打倒し財産の私有権を禁じ国家が経済を徹底的に管理すべきであるという思想です。

 ロシア革命によりレーニンなどこのマルクス主義に影響された人間たちがソビエト社会主義共和国連邦、通称ソ連を建国しました。しかし計画経済により労働者はいくら頑張っても成果報酬が上がらないので次第に労働意欲を失いやがて経済効率が落ちてきてしまいソ連崩壊に繋がっていったというのはおそらく教科書にも載ってある事実であり(私は勉強が大嫌いな落ちこぼれなのでよく覚えてないですが)皆さんご周知のことかと思われます。

 この社会主義革命、要は「資本家を駆逐してやる!一匹残らず!」というもので本当にそれを実行し資本家たちをことごとくぶっ殺してしまいました。つまり社会主義革命と暴力革命となります。ところで社会主義と共産主義は得てしてごっちゃにされがちではありますが社会主義とは私有財産権を禁じた経済平等主義的な経済思想であることは先ほど申し上げた次第ですが共産主義とはそのいわばアップグレード版。つまり格差も身分も国境も無く富がきわめて平等に再分配された理想の世界。いわばジョン・レノンのイマジンのような世界ですね。人類史上において未だ実現されたことの無いユートピア思想であります。話が脱線しましたが本書の話に戻りたいと思います。

 本書の問題点としては資本主義と新自由主義がごっちゃになってしまっている点です。新自由主義とは何かというと大雑把に言ってしまえば公である政府の市場への介入を極端なまでに嫌う経済思想です。提唱者は経済学者のミルトン・フリードマン(1912- 2006)です。新自由主義とはドラッグでさえ自由化し販売を合法化した方が市場にとっては望ましいとする過激なまでの自由経済主義、市場原理主義です。1980年代からこの市場こそ正義という新自由主義が世界的に席巻し今日に至ります。我が日本もその影響下にあり菅総理の公助より自助という発言にはそうした経済思想が背景にあります。こうした市場主義経済主義により格差は拡大し富めるものはどんどん富んでいきそうでもないものはますます貧していく世界になってしまいました。なぜこのようなことになってしまうかは現代の経済学者として名高いフランスのトマ・ピケティが論じています。もともと資産を持った資産家がその資産をマネーゲームにより凄まじい速度で増やしていくそのスピードとあまり資産の無い労働者がその資産を増やしていくスピードはまるで違う。古代ギリシャのパラドックスであるアキレスの亀のようにその格差は絶望的なまでに埋めがたいものとなってしまう。さらに富裕層はタックスヘイブンといってパナマなどといった非課税地区に資産を逃しますますその富を莫大なものにしてしまう。これが現代における格差問題です。

 つまり新自由主義に根本的な問題があることは世界的に指摘されている事であり私の認識とも合致します。新自由主義批判において優れた書物もいくつか読んで参りました。そう意味では本書は比較的に妥当で現代的な問題点を記したフェミニズム書籍と言えるでしょう。しかしよく読み進めればやはりその論理展開はきわめてお粗末と言わざるおえません。何せ序文の時点で上記に挙げたようなツッコミどころが生じているのです。本書のツッコミポイントに付箋を挟み込むながら読み進めた次第ですがその数はうんざりするほどの数に上った次第です。よって本書の紹介記事は1本にまとめることは不可能と判断し当記事を序章とし何編かに分けて書くことに決めました。物好きな方がいらっしゃいましたらお付き合い願いたい。

フェミニズムから国民を守る党は皆様からの寄付を賜っております。貴方も一緒にフェミニズムをぶっ壊す!!

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