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「やまゆり園」の事件について思うこと

皆さんこんにちは。クソ腐女子のアンタレスです。

しばらくnoteが更新できませんでしたが、今日はどうしても書いておきたいことがあったのでキーボードを叩いています。

タイトルからわかると思いますが、今日は重い話をします

胸糞悪いかもしれないので、閲覧には注意してください。


今日、新聞を読んでいたら目に留まったのは、神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件のことでした。今日でちょうど5年。時の流れは早いものです。

5年前の私にとって、この事件は他人事でした。そりゃあ自分勝手な犯人の思想に憤りはしましたが、自分には縁のないことだと、心のどこかで考えていました。

でも、この5年の間に、事情が変わってきました。

私は「障碍者」と呼ばれるようになりました。

難病に罹り、薬の副作用で脚に障害が残ってしまいました。今でも、外を歩くときは杖が手放せません。(とはいっても障碍者手帳が取れないので、厳密にいうとグレーゾーンなのでしょうが)

人並みのこともできなくなり、世間の「普通」から弾き出されたことに何度絶望したことか。私が病院のベッドにいる間にも、健康な身体で「今」を謳歌する人をどれほど憎んだことか。

まあ、それでも生きる目的がある私は恵まれているのでしょうが、それはそれ。

「やまゆり園」の事件は、私にとって他人事ではなくなったのです。

この事件で被害に遭ったのは知的障碍のある方々で、私は身体障碍者(もどき)ですが、そんな違いは些末なことです。要は、「世間が『普通じゃない』と断じた人」かどうかなのです。


この事件の犯人は、吐き気のするような優生思想の持ち主でしたね。「障碍者は生きていても仕方ない」と、本気で思っているのです。

この男の自分勝手な思考回路はもちろん許せないのですが、私にとって何より腹立たしいのは、犯人と同じような思想を声高に叫ぶ輩が、決して少なくないということです。

この事件を受けて放映されたテレビ番組に寄せられた投稿の中には、「障碍者なんかこの世にいなくていい」「今の日本に障碍者を養う余裕はない」などといったものもあったといいます。

この事件の直後ですら、インターネットの掲示板には「遺族だって被害者のことを恥だと思っているんじゃ?」とか「正直、被害者の家族はほっとしてるんでは?」とかいう下世話な書き込みがあったくらいなので、障碍者を社会の邪魔者だと思っている人は一定数いるとわかってしまいます。

本当に、ふざけるもの大概にしてほしい。

私も、他の人も、好き好んで障碍者になったわけではありません。原因が先天的なものであれ後天的なものであれ、誰が好きで人並みのこともできない身体になりたがりますか。

いきなり理不尽にハンデを押し付けられて、それでも生きようとあがいているのに、それなのにどうして、生きていくことすら否定されなければならないのですか。

自分じゃどうしようもないのに。治るものじゃないのに。

そもそも、障害を抱えていても働いてお金を稼いで、自分の力で生活している人もいるのに、「社会のお荷物」みたいな扱いをされるのにも納得いきません。

正直、そういうことを考えず、差別的な思想を語っている連中が本当に憎いです。

そもそも、社会全体に漂う、障碍者を軽んじる風潮も嫌になります。

マスコミなんか、障碍者を見世物にして、「感動の道具」としてしか見ていないのが見え見えで吐き気がします。

物語の登場人物じゃねーんだよこちとら。


……ここまで色々と書いてきましたが、別に私は、「障碍者は理不尽な目に遭っていて可哀想だから丁重に扱え」って言ってるわけではないです。

ただ、生きることを否定しないでほしい、人として扱ってほしい、それだけです。

最後は、障碍者差別を肯定する連中に対する疑問で締めさせていただきます。

私たちが、何をしたっていうんだ?

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