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幸せな夜のタクシー

四半世紀も昔の話です。小雨が降りしきる晩秋の夜でした。
広島市内の繁華街でタクシーに乗った私。
「おやすみなさい」
窓の外へ笑顔で手をふります。傘をさして長身をかがめ、やはり笑顔で見送る彼。交際を始めて3か月、ふたりで食事を楽しんだ帰りでした。

タクシーが発車してほどなく、運転手さんが話しかけてきました。
「ええ彼氏じゃねえ」
すぼめた口から息を吐くような、しみじみとした声。
「え?」
流れゆく夜景を眺めデートの余韻に浸っていた私は、運転席を見ました。
制帽からのぞく白い髪。
白手袋のすき間の筋張った手。
声のしわがれ具合からも、かなり年配のドライバーのようです。

「さっきお客さんを乗せたとき、わしに向かって『彼女をよろしくお願いします』って頭を下げたじゃろ。近頃あげぇなことを言うてくれる若者は珍しいんよ
広島弁ならではのイントネーション。ミラーに映る眼鏡の奥の瞳は優しく、故郷の亡き祖父にどこか感じが似ていました。

それから会話が弾み、アパートの前で降りかけたときです。運転手さんがにっこりほほえんで言いました。
「あの彼氏、大事にしんさいよ」
はいと答えたものの、彼とは数年後に破局。互いに悔いの残る悲しい別れでした。

時が流れ、いまや五十路になった私。いまでもタクシーに乗ると、ふっとあの夜のことを思い出します。
幸せな夜の幸せなタクシー。
無事に私を送り届けるようお願いした彼のやさしさ。
その想いを受け止め、私に伝えてくれた運転手さんのやさしさ。

まさに<やさしさを感じた言葉>のリレー。

彼はいまでも大切な人をタクシーに乗せるとき、運転手さんに声をかけているのでしょうか。
そうであって欲しいなあと願う私がいます。

#やさしさを感じた言葉

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