体育における学習者の「解放」

このマガジンでは、体育に関連する具体的な実践だけでなく、しばしば哲学的なテーマで考察を展開してきた。「中動態」や「エトス(ethos:倫理)」、「贅沢」といった概念を参照しながら、体育授業における新たな可能性の模索をしている。本稿もそのようなやや哲学的なロジックを書き綴った文章になるだろう。今回のテーマは「解放」である。

学習者を「解放する」とは

本稿の中心的な概念となる「解放」は、ジャック・ランシエールの『解放された観客』で提示されたものである。そもそも「解放」という語には、自らの縛っているあるものから自由になるというニュアンスがある。では、その「あるもの」とは一体何なのか?

まず、一般的な「学習」のイメージから考えたい。まだ知らないことを知るという現象を学習とよぶが、その「知る」という現象が基本的には「コピー」を指す場合が多い。漢字や英単語、PCの基本用語や操作方法など、記号化された情報を暗記することを「学習」とよんでいる。

もちろんこれは疑いもなく学習なのだが、より観念的な内容になってもなお「コピー」にこだわってしまうのが問題であるとランシエールは指摘している。例えば、算数の分数÷分数を学習するとき、「逆数をかけて計算すればよい」という”テクニック”は、たしかに「コピー」すれば簡単である。しかし、「なぜ逆数をかければよいのか」という”観念(考え方)”になると、つまずく学習者が多い。そのときに、多くの教師は教科書や自身の脳内にある「模範解答」を学習者に「コピー」することを目指してしまう。これが問題だというのだ。

ランシエールによれば、教師の役割は、学習者がその学習対象について無知であることを自覚させることである。言い換えれば、新しい情報となるその学習対象(●)が現在持っている知識(●)とどのような距離感(ー)であるかを自覚させることである。コピーで成立する学習、すなわち単純に「●」を増やす学習には、教師は必要ない。しかし、情報同士の距離感や関係性(ー)を構築していくには、その距離が認識できなければならず、その「無知なものとの距離」を学習者の目の前に提示していくのが教師の役割である。

このような教師の”適切な”働きかけのおかげで、学習者の中に新たな「ー」が生まれる。しかし、たとえ同じ情報(●)を対象としても、その対象と結びつける「ー」の長さは学習者個人によって異なる。それは、学習とは学習者自身の「解釈」によって成立するものだと考えられているからである。

教師が必要ない「●」を増やす学習は、「コピー」で成立する。
一方で、教師が必要な「ー」を増やす学習は、「解釈」で成立する。
教師がコピーを目論んだ場合、教師のまなざしは学習者自身に向けられる。当然学習者も、コピーの対象である「教師」にまなざしを向ける。
しかし、教師が学習者自身の解釈を促すことを目指した場合、教師のまなざしは学習対象と学習者の現在地の「距離感」に向けられる。学習者も、自らと学習対象の「距離感」に目を向ける。

このように、学習者と教師との間に学習対象という媒介が存在することによって、両者がその媒介との距離感を意識するようになる。これこそが、ランシエールがいうところの「解放」である。すなわち、学習者にとっては「教師による情報をコピーすることへの圧力から自由になること」が解放の定義となる。

初心者を「解放」するには

少し話題が逸れるが、私は無類のスポーツオタクである。特定のスポーツに特化したファンの方には及ばないが、競技を選ばずどんなスポーツでも観戦していることから、逆にその守備範囲の広さには絶対的な自信がある。各競技を比較できるのは自身の強みであると自負しているし、「みる」経験しかないスポーツの方が多いことから、その意味では私自身が「初心者」であるものばかりである。

ここ数年、日本はさらに幅広い競技で世界トップレベルの選手が誕生している「スポーツ大国」であり、100%収容や声出し応援の解禁なども相俟って、各競技団体が新規ファンの獲得にさまざまな戦略を打ち出している真っただ中である。ここでは本稿の文脈に沿って、「ファン=そのスポーツに関する『●』を多く持つ人」と定義したい。その中で、ファン層の拡大に成功しているスポーツとそうでないスポーツの明暗がある程度はっきりしていることも私には感じられるのだ。そしてその原因こそ、観客を「解放」できているかどうかなのである。

先ほどの定義に従えば、新規獲得したい観客とは「まだそのスポーツに関する『●』が少ない人々」である。「●」が少ないということは、すなわち目の前で繰り広げられる試合から飛んでくる様々な情報との距離(ー)が非常に大きい可能性が高い。距離がはなれすぎて解釈ができない(「ー」がつながらない)ために、試合を満足に楽しめないという状況に陥らないように、ほとんどの会場や中継時では「一時的な置石となるルール等の情報(●)」を提供している。これによって、そのスポーツに素人でもゲームの解釈ができて楽しめるような中継点を作っているのだ。

一時的な中継点の構築とは、その場で観客の脳内に「コピー」をすることとまさに同義である。「とりあえずこのスポーツはこういうものなんですよ」とルール説明やプレー解説をしていくのだが、この「コピーすべき情報」があまりにも多く、結果的に素人観客が「解釈」まで行う余裕がなくなってしまうことが往々にして起きている。これこそが、観客を「解放できていない状態」である。

なぜこうなってしまうのか。それは、競技団体側が「我々のスポーツの魅力を伝えたい」という押しつけがましいねらいがもとになっていることが多いと思われる。その競技のファンはもともとの知識が多いために解釈が生まれやすい(「ー」がつながりやすい。すなわち「解放されやすい」)。重要なのは、まだ知識が少ない素人でも、持ち合わせた情報だけでいかに解釈(=解放)しやすくなるように仕組めるかだろう。そのためには、「何を伝えたいか」ではなく、「観客は何を知っているのか」から始めなければならない。

体育における「解放」

さて、いよいよ体育の話をしよう。これまでの2項で、「学習者と教師の関係」と「初心者への解放」という2つの話をしてきた。体育とは、まさにその掛け合わせである。そのスポーツの初心者である子どもたちに、教師としていかに「解放」させるか。最後にそれを考えたい。

まず1つ目の話からいえることは、教師は知識のコピーを目指してはならないということである。すなわち、「〇〇を教えたい」「〇〇というスキルを身につけさせたい」というゴールありきではいけないのだ。これだと結局は、特定の知識(●)を与えることが目的となってしまい、新規ファンの獲得に失敗している押しつけがましい競技団体のように、子どもたちは解放されない。

解放するためには、子ども自身に「自分なりの答え」を持たせることが必要である(そして同時に、それが”正しい”かは決して問うてはならない)。いわゆる問題解決学習は、予め用意されている「模範解答」を見つけさせるようなタイプもみられるが、体育においては唯一絶対的な模範解答は原則存在しない。なぜなら、それらは基本的にゲームの中での答えでしかないからである。

他教科では、学習者と教師の間に「教科書」が存在する。この場合、教科書にある情報は学習中不変なので、内容によっては「最適解」はある程度一定になる。そうなれば、教師が提示すべき情報や学習者との距離感はある程度一貫しやすい。しかし体育においては、両者の間に存在するものは「ゲーム」であり、学習者自身がその一部となるので常に変化している。したがって、教師も学習者も常に更新される状況をその都度「再解釈」しつづけなければならないのである。

ここが2つ目の話からの教訓である。その媒介となる「ゲーム」が子どもにとって非常に難しいものだったら、言い換えると子どもにとって「距離」が遠すぎて解釈不可能なものだったら、当然子どもは思考停止に陥り、教師から教えられることをコピーするだけに執着してしまう。そのため、教師に求められるのは、子どもたちが「何を知っているか・何ができるか」からスタートし、体験させるゲームを調整する能力なのである。「練習」という能力コピーなどしなくても十分に参加でき、毎回のように変わる子どもたちの「最適戦略」を覆し続けるような追加ルール等の介入といったマネジメントこそが、体育において学習者を「解放」しつづけるための教師の役割なのである。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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