「できない」の原因は、能力か?環境か?

体育において「できる」ことを目指す技能主義的な態度は、しばしば批判されている。私もこの『New体育論』マガジンを通して、技能主義あるいは能力主義に立脚する体育へのアンチテーゼを多数述べてきた。しかし、今回はあえて体育における「できる」について考えてみようと思う。それも、「できる」ではなく、その反対の「できない」について深く考えることで、何かヒントを得ようと試みる。

ディサビリティとインペアメント

体育における「できない」を考える前に、日常生活における「できない」の話をする。例として、ケガやその他の理由で歩行が困難となり、車いす生活をしている人を挙げる。

二足歩行ができず、日常的に車いすを使用している人は、世間ではいわゆる「障がい」を持った人として認知される。そこで、障がいを持つ対象者について深く追究していく「当事者研究」の第一人者熊谷晋一郎氏によれば、その「障がい」の原因は2つのパターンがあるという。

1つは、「障がいの原因が本人の内部に存在する」という立場である。車いすに乗っているということは「歩行ができない」というある能力の欠如を意味し、その原因は負傷している下肢の骨や筋肉にあるとする考え方だ。このように【障がい=能力の欠如】とした場合、それは【ディサビリティ disability】とよばれる。

もう1つは、「障がいの原因が本人の外部に存在する」という立場である。車いすに乗っていても、たしかに「歩行」はできないが「移動」はできる。しかし、訪れた場所に階段しかなく、スロープやエレベーターがない場合は、その場所への「移動」は自力では不可能となってしまう。このように環境にその行為のアフォーダンスがないことが原因で不自由を被る、すなわち【障がい=環境とのミスマッチ】とした場合、それは【インペアメント impairment】とよばれる。

それぞれの立場におけるアプローチ

以上の整理から、「障がい」とよばれるものは【能力の欠如(disability)】と【環境とのミスマッチ(impairment)】の2種類に分けられることがわかった。そして、対処療法的な視点では、原因の所在が異なれば当然とるべきアプローチも変わってくることになる。

もし「できない」の原因がディサビリティによるものだとしたら、解決すべき問題は本人の中にあると認定する。したがって、本人の能力を開発することが最も合理的なアプローチとなる。この立場は「医学モデル」とよばれ、治療、リハビリ、訓練、場合によっては教育もこの視座に立つものと考えられる。

一方でもし「できない」の原因がインペアメントによるものだとしたら、解決すべき問題は本人ではなく環境の方にあると認定する。したがって、より不自由を生まない環境に作り変えることが必要なアプローチとなる。この立場は「社会モデル」とよばれ、ユニバーサルデザインやバリアフリー、社会福祉やインフラなどは、この視座に立っている。

「能力」を測るための「環境」

しかし、先に挙げた車いすの例のように、ディサビリティかインペアメントかの判断がつきやすいものばかりではない。なぜなら、私たちは個人の能力を環境との相互作用のなかに見ているからである。環境の中に潜むなんらかの課題を克服することで、その人に特定の能力が備わっていることが証明される。そのため、特に学校教育では子どもの周辺に課題を設置し、それを解決させるプロセスの中で能力を養ったり評価したりしているのだ。

ここで最も気を付けなければならない点を熊谷氏は指摘している。それは、「インペアメントのディサビリティ化」である。すなわち、その子にとってはミスマッチな課題を与えられているのに、それが「できない」ことで能力の欠如とされてしまう誤謬である。「できない」の原因を能力にみるか、環境にみるか、この判断を見誤ってはならないと警鐘がならされている。

実は、体育こそこの誤謬が起こりやすいのではないかと私は考える。主たる目的を運動能力の開発に置いている従来の体育は、全員一律に同じ運動課題を与え、それに対するパフォーマンスで能力を判断している。つまり、「できない」レベルを顕在化し、それをそのままディサビリティとして認定することが目的化されているともいえる。まず各個人のディサビリティを見つけ、それを「伸び代」として訓練することで能力開発を達成しようとするのがこれまでの常套手段だ。だから与える課題のミス(=インペアメント)だと気づかない。

「高跳び的課題」と「幅跳び的課題」

実は、これに関して重要な示唆を与えてくれるスポーツが陸上競技にある。それが、高跳びと幅跳びだ。高跳びは、徐々にバーを高くして個人の能力の限界値を測ろうとする。つまり、環境の方を調整し、どこで”ミスマッチ”が生じるかを測っているのである。したがって、高跳びにおいては「跳べない(できない)=インペアメント」として認定でき、本人の能力欠陥ではない。

一方で幅跳びは、全員が同じ条件のもとで運動を行い、その「突出した程度」で勝敗を競うものである。つまり、環境による能力発揮の制限をほぼ0にし、記録の差をそのまま能力の差に直結させる。ここで重要なのは、幅跳びという運動課題が「跳べない(できない)」という選手は存在しないという点である。パフォーマンスをそのまま能力として認めたいなら、誰でもできる運動課題にする必要があるということだ。

では、改めて体育の運動課題を振り返ってほしい。用意されている運動課題は、レベルに応じて環境を調整できる課題(=高跳び的課題)なのか、それとも全員にとって易しいが、上限のない課題(=幅跳び的課題)なのか。以下に示す2つの落とし穴にはまってはいないかも考えてほしい。

1つ目は、能力的課題(ディサビリティ)を見つけるために高跳び的課題を与えていないか。前述のとおり、環境を調整できる高跳び的課題は、インペアメントを生じさせるものであり、それをそのままディサビリティとして受け取ってはいけない。
2つ目は、球技などのゲームをさせるときにそれが幅跳び的課題になっているか。ルールの都合で「できない(インペアメント)」が生じて排除されてしまう子はいないか。エッセンシャル・スキルをよく吟味し、全員が十分に参加できるゲームにしなければならない。

このように「できない」を質的に分類することで、「できる」ために必要な環境づくりへのヒントが見えてきた。漢字や計算など、課題をいじりようがない他教科に比べ、体育は環境を調整できる余地が最も多い教科の一つでもある。したがって、与える運動課題を通して教師は子どもの能力差(ディサビリティ)を見つけようとするが、実はそのほとんどはインペアメントである可能性も捨てきれない。インペアメントを最大限に排除し、全員にとっての楽しさを追求したユニバーサルデザインな体育ほど、逆に能力主義的な体育が目指す「できる」の担保に寄与するのかもしれない。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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