学びのinitiativeは誰がとるのか?

前回の記事で「学び」を2つの立場から捉え、それぞれの立場からアプローチをとることが重要だと述べました。そしてそのうちの手段の1つとして「教える」という行為があることも述べました。この記事を読むうえで理解の助けになるので、ぜひご覧ください。

学びに対する教師の役割

学習者の「主体的、対話的で深い学び」を作り出すのが教師の役割です。つまり、学びを得るのは学習者(子供)で、その学びを作るのは教師という解釈ができます。ここで、1つの議論が生まれます。

①教師は、知識や情報を「教材」として公開・提示すれば役割遂行になるのか
②教師は、学習者が知識として吸収するまでを担うべきなのか

前記事で述べた「学び=対象」と「学び=現象」の両者の立場からこれを捉えます。

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「学び=対象」に立てば、教師は「学ぶべき対象」を生み出せることになり、教材を作って提供することが「学び」を作り出す役割を果たすことになります。この立場に立てば、教師の役割を①ととらえることができます。少しでも有益な教材となるように、工夫を凝らしてオンライン・オフライン問わず教材開発に勤しんでいる教員の方が多いのではないでしょうか。

「学び=現象」に立つと、学びは環境から情報を得て知に変換するプロセスを指し、学習者の中にしか起こらないという前提があります。したがって教師がどんなに教材を提示しても、そこから学習者が何かを掴まないと「学び」として成立しないことになり、教師の役割を②ととらえる必要が出てくるでしょう。

学習者が自ら学ぶことを「主体性」として考えると、「学び=現象」の立場をとらなければいけません。しかしその場合、教師は学習者の「学び」のサポートはできても、実際に学びが起こるかどうかは学習者に委ねられてしまいます。それなのに、教師の役割は②となり、「学び」をつくれと求められていることになります。

教師は「プレーヤー(学習者)にシュートを決めさせろ」と求められ必死にパスを出す一方で、「シュートを打つかどうかはプレーヤーの意思が大切だ」という板挟みになってしまっているのです。

マネジメントと initiative(主導権)

上述のような議論はありますが、教師の役割を一言で簡単に言えば、学習者が効果的に学べるようにマネジメントをすることです。これは、スポーツの試合の審判と同じような役割といえます。

スポーツの試合における審判は、選手が快適に試合を行えるようにゲームをマネジメントしています。その方法は様々ありますが、まわりの環境調整と選手への直接介入という2つに分けることができます。

まわりの環境調整には、コートや道具の確認、観客の統制などがあります。選手が質の高いパフォーマンスを発揮できるように、ボールやネットの確認をしたり、テニスでは観客に静粛を依頼したりもします。
選手への直接介入は、主にファール(ルール違反)への注意です。サッカーやバスケなど、多くのスポーツにおいて審判はただ警察のように違反を取り締まるのではなく、試合中に短い会話等のコミュニケーションでラフプレーを未然に抑止する働きもしています。

このようにスポーツの審判は試合の秩序を保つことで、選手の快適なプレー環境を用意し、それが質の高いパフォーマンスにつながっているのです。ここで重要なことは、審判がゲームマネジメントをうまくできている時ほど、ゲームの initiative(主導権) は審判が握っているということです。瞬間的に変わるゲームの状況を判断し、選手に合わせた的確なアプローチで快適な試合空間を提供するには、審判がゲームをコントロール(管理)しなければいけません。よりよいマネジメントをするには、initiative を握らなければいけないのです。

学びの initiative はだれが握るのか

教師も同じように、まわりの環境調整と学習者への直接介入を駆使して学習者の学びをマネジメントしています。まわりの環境とは、学習環境や学習素材の準備などがあたり、直接介入はもはや文字通りです。スポーツの審判と同様に考えると、よりよい学びを生み出すためによりよいマネジメントをするには、教師は学びの initiative を握るべきとなります。

しかし、ここでもまた疑問が生じます。
教師が initiative をとって学びを管理する中に、「主体的な学び」は存在できるのでしょうか?

これを考えるには、「主体的」とは何かを考察する必要があります。
「主体的」「意欲的」「自律的」「能動的」など、自ら進んで行動するという意味を持つ類義語との区別をした上で「主体的」の概念を明確にし、initiative との関係を捉えていきたいと思います。
これについては、考えがまとまったら次回の記事に書きます。

焦点は「マネジメントの方法」

いずれにせよ、学習者の学びを促す責任がある以上、教師が initiative を担うことに変わりはないと思います。問題は、どのようにマネジメントをするかです。

スポーツの審判においても、「審判が目立つ試合はBAD GAME」と言われています。公平で厳正なジャッジが求められていますが、たとえルールに則っていても、選手が不満を抱くような判定を繰り返していては、逆に選手のパフォーマンスは落ちてしまいます。サッカーでもVARの導入により試合に”微妙な間”ができて、逆にプレーしづらくなったという選手も少なくありません。審判が試合をコントロールするのですが、選手が審判に振り回されることがあってはいけないのです。

選手が審判の目を気にせずのびのびプレーできて、かつ秩序が保たれているのが最高のマネジメントの結果です。その時選手はおそらく「時間が経つのを早く感じる」でしょう。いわゆるフロー体験といわれる状況です。フロー体験を終えた選手が、「すべてをコントロールしているようだった」という言葉を残した記録があります。これはフロー体験の代表的な”感覚”であり、自然に没入して結果的に最高のパフォーマンスを発揮します。当然審判の管理下でもこれは起こりうることです。
(フロー理論に関してはこちらの本をはじめ多数あります。)

学習者に学びの”フロー体験”を味わわせるには、まわりを気にせずのびのびとした学習活動を、教師の管理下で行わせることが必要といえるでしょう。より効果的な学びにするには、100%学習者の意のままではなく、タイミング(事前・最中・事後)と方法(直接的・間接的)を見極めて適度な「介入」が必要となります。しかし、それが決して「干渉」になってはいけません。このさじ加減こそが、教師の専門性が問われるところだと思います。

学習者の「主体性」は保ちつつも、教師が学びの「initiative」を握ってコントロールする。矛盾するようで、実は可能なことだと思います。立場や距離感を変えながら、その答えをいつまでも探し続けていきたいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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