運動会の表現種目に関する一考察

ここ数年はさまざまな分野で「あたりまえの見直し」がされてきている。学校もその例外ではなく、各校の努力で様々な部分にメスが入れられていることだろう。特に大きな見直し点の1つが学校行事であり、運動会の在り方は多くの学校で再検討がなされているはずである。

しかし、なかなか大幅な変更に踏み切れないのは、ある意味運動会の象徴ともいえるだろう「表現種目」の存在がかなり大きく影響しているのではないかと思う。実際、運動会準備や練習の大半がこの表現種目に向けられたものであり、正直表現種目さえなくなればどんなにライトな行事になることかと思ったりもする。

ところが来場する保護者にとっても最も楽しみな種目であり、校内の見直しによって表現種目なしの運動会を実施したら、事後アンケートで保護者の意見が殺到し、翌年から表現種目が復活したという事例も耳にしたことがある。あくまでも運動会の主役は子どもであり、表現種目の有無はどちらにせよ、子どもにとって最適な経験とならなければ本末転倒である。本稿は、運動会の表現種目の在り方について、哲学概念を用いながら批判的検討を試みる。

1.運動会の位置づけ

そもそも運動会とはどのような位置づけの行事なのか。行事の見直しはまずこの問いからなされるべきである。学習指導要領では、特別活動の体育的行事に位置付けられているが、ごく簡単にいってしまえば「やるなら子ども主体でやらせてください」と書いてあるだけで、どんな運動会にしてくださいという具体的な内容には細かく言及されていない。

そこで現場に聞くと、運動会を「子どもたちの成長を発表する場」と捉えている学校が非常に多い。つまり、運動会とは「発表会」なのだという認識である。したがって、事前に「練習」をして、当日は「本番」という感覚になる。一方で、欧米諸国のSport Day(またはSport Festival)をみると、校外のアスレチック・フィールドに出向いて普段はできないような運動遊びを思う存分体験するというイベントになっている。スペースの都合から同時に運動できる人数も限られているため、学年などの単位で来場時間を分け、自分たちの時間が終わったら親子で帰宅するという形式をとる。当然ながら、そこに「発表」という他者視点はなく、あくまでも子ども自身の運動体験の増幅を目的としている。

同じ学校主催の体育的行事(スポーツイベントとあえて同一視しているが)でもここまで差があることには驚きであるが、現状として日本の運動会といえば「保護者向けの発表会」である事実は変わらない。いきなり文脈の違う「Sport Festival」をもってきても、そう簡単には受容されないだろう。それよりも、まずはこの日本的な運動会の観点を深掘りする意義の方が大きいと思われる。

2.大会・発表会・展示会

一般にイベント(行事)とは、それを主催する者がいて、そこに人があつまり、共通の対象を様々な仕方で消費するものである。その基本的な構造は、主催者(呈示者)と集まった人(観客)が、あるいは観客Aと観客Bが、用意された対象を媒介にして三項関係を築いている(【呈示者-対象-観客】や【観客A-対象-観客B】のような構図)。

観客の行為は「観戦」と「鑑賞」に区別される。「観戦」とは、主に他者同士が勝負している様子を観ることであり、場合によっては片方に肩入れしながら楽しむものである。一方「鑑賞」とは、それが動的なもの(ダンスや演技)、静的なもの(絵画や造形物)に関わらず、そこにある作品に注意を向け、作品を解釈する行為をいう。

ここでイベントの呼称を比べてみると、「呈示者-対象-観客」の構図の中で
●対象が「勝負事」の場合 → 「大会」
●対象が「勝負事ではない動的なもの」の場合 → 「発表会」
●対象が「静的なもの」の場合 → 「展示会」
と区別されているとわかる。

運動会には徒競走や綱引きなどの「観戦種目」とダンスや表現などの「鑑賞種目」が両方ある。つまり、「大会」でもあり「発表会」でもあるのだが、それを強く発表会と位置付けるなら「鑑賞種目」の方がより重視されていると考えてよいだろう。それゆえ、練習という事前の仕込みにも熱が入るのだ。たしかに組体操や夏の甲子園など、日本は子どもの頑張りを「見世物」にする側面が強いと感じる。主催者がそう仕向けたのか、あるいは観客が望んでいるのか、どちらが先なのかは判断できないが、少なくとも現在はその呪縛ともよべる圧力が働いているのは間違いない。

3.「見せる」というコミュニケーション

ここで、現象学の観点からパースペクティブ性を引き合いにだして考えたい。パースペクティブ性とは、「視点・観点」という意味合いをもつが、同じ対象への感じ方やみえ方は人それぞれ違うものであることを意味する。もっといえば、異なる2人が同じ対象をみたとき、そのみえ方が一致することは決してない。

わかりやすくするために、まずは「展示会」で考えてみよう。例えば個展のような展示会では、呈示者(主催者でもあり作者でもある)が自らの「作品」を観客に見せる。このとき、呈示者である作者自身も、自らの作品に一定の評価をもっている(多くの場合肯定的なはずである)。しかし、観客は一見するとその作品が何を意味しているのか分からなかったり、違う解釈をしたりするかもしれない。もしかしたら、偶然にも作者と同じような価値づけをしてくれるかもしれない。

この対象を中心にした非対称な関係(作品の解釈が作者と観客で一致しないこと)がパースペクティブ性であり、三項関係を成立させる条件である。ハンナ・アーレントは、対象をはさむ両者が対等な関係であるためには、この第三項が両者から独立した「物」でなければならないとしており、「作品に込められた作者の思い」のような作者の願いや意図はそこに介在してはならないとしている。言い換えれば、観客は「作品を通して作者の考えや主張に触れる」ではなくて、「作品そのものをみて自分なりの解釈をする」ことが必要なのだ。

それでも作者は、自らの作品をある程度の自信をもって「どう、いいでしょう?」と観客に見せている。そして、観客は目の前の作品に対峙することで「作品がある」という情報だけでなく、「どう、いいでしょう?」という作者の声も同時に受け取っている。だからそれに対して、「なんかいいねぇ」「いやぁ、わからない」のような自分なりの解釈を応答的に創り出しているのだ。

これこそがニクラス・ルーマンのいう「コミュニケーション」であり、大藪泰のいう「叙述的共同注意」である。詳細な用語の説明はここではしないが、作品がそこにあるという事実だけではなく、それが自分に向けられたものであるという知覚(伝達の知覚)が「見せる」ことのクオリアとなっている。

そこでは「作者-作品-観客」という三項関係において、作者は自らの作品に込めた思いを観客に理解してもらうこと(作品の解釈の一致)は求めていない。単に「私はこう思うんだけど、あなたはどうかね?」という投げかけを作品を通じて観客に向けているのだ。まるで赤ちゃんが道端で拾った小石を「ねぇ、見て」と見せてくるかのようである。このような「同じ」対象に注意を払い、それでも「違う」感じ方をするような、それが様々な観客と、あるいは観客同士で同時多発して、さらに解釈がアップデートされていくような、極めて動的なコミュニケーションを引き出しているのだ。

4.子どもの成長を「見せる」のは教師の高慢なのか

運動会が発表会ならば、教師(呈示者)が来場者(観客)に「作品」である子どもの姿を「見せる」行為であり、教師と来場者(主に保護者)のコミュニケーションであるといえる。子どもを教師の「作品」とよんでいいのかという点については後ほど検討するとして、ここではブルデューの「ディスタンクシオン」の概念を出して「見せる者」と「見せられる者」の関係性を考えたい。

ブルデューの「ディスタンクシオン」は、英語のdistinction(区別)とほぼ同義であるが、ただ「違う」だけでなくそこに「卓越性」があるとしている。例えばSNSで話題のスイーツを実際に食べて、それをまだ食べていない友達にすすめる。この場面は「私」が「話題のスイーツ」を対象として「友達」に呈示し、私はおいしいと思ったけどあなたはどう?とコミュニケーションを投げかけているものである。

このとき、対象である「話題のスイーツ」をはさんで、その味をすでに知っている私と、まだ知らない友達はアーレントによれば「対等」であるが、ブルデューによればそうではない。私はそのスイーツの味を知っていることを「価値のあること」だと自認しているから友達にすすめているのであり、ある意味「上から目線」で言っているのだというのがブルデューの考えである。ただ味を知る/知らないの単なる「違い」ではなく、その違いが「序列」を生んでいるという意味まで含めたのが「ディスタンクシオン」なのだ。

運動会の話に戻すと、教師は「子どもの成長した姿」は教師だけが知るものであり、来場する保護者たちはまだ知らないと仮定し、だからこそそれを運動会という場で「発表」しようという考えがあることがうかがえる。ブルデューの「ディスタンクシオン」の視点でみれば、このような教師の高慢さが浮かび上がってきてしまうのだ。

一方で、柄谷行人はこれを「売る-買う」の関係になぞらえて別の見方をしている。商人がどんなに魅力的だと思って商品を並べても、結局その価値を決めるのは消費者である。つまり、すでに商品を「自分の物」にしている商人よりも、それを「ジャッジ」する側の方が優位な立場なのではないかというのが柄谷の考えだ。

これも非常にうなずける指摘である。先ほどのブルデューの「ディスタンクシオン」でいえば、「どうだ、こんないいもの持ってるぜ」という自己の価値づけに基づいた投げかけになるが、柄谷の視点では「どうですか、これはいいものでしょうか?」と価値づけの判断を委ねることになる。これはどちらも対象のパースペクティブ性を有しており、三項関係のコミュニケーションは崩れていない。したがって、教師がどのような態度で子どもの姿を「発表」しているのかは、さして問題ではないのかもしれない。

ただし、注意しなければならないのは、対象を介して自己の価値観を押し付けようとするとこれは崩れてしまう。先ほどのスイーツの例を再び出せば、「友達にあのスイーツを早く試してもらいたい(味の評価は友達に委ねる)」だけならOKだが、「友達のあのスイーツのおいしさを知ってもらいたい(おいしいという評価の押しつけ)」ではNGだということになる。「子どもたちはこんなに成長しましたよ(ドヤ)」ではなく、「子どもたちは成長しているでしょうか?」というスタンスで発表することが大切である。

5.「発表者」である子どもは作品なのか

本稿では「見せる」行為に基づいた三項関係のコミュニケーションについて述べてきた。アーレントの「第三項は物でなければならない」に従って、展示会やスイーツなどを例に論じてきた。しかし、本題の運動会では、第三項は「子どもの姿」であり、物ではなく、人である。物であればそれは作者の「作品」になるが、運動会での子どもは教師の「作品」でよいのだろうか。

ここに重要な視座を与えてくれるのが、木村覚の「フィジカル・アート・セオリー」である。木村は、観客と「表現する者」の関係性をより深く捉え直し、ポストモダンな身体表現を模索している批評研究者である。教師と来場者を媒介する対象は「表現種目」であり、その種目の中で「表現する者」はまさしく子どもである。では、来場者と子どもはどのような関係と捉えることができるのか。

木村は次のように指摘している。観客は「見る」ことを望むが「見せられる」ことは嫌う、表現者は「見せる」ことを望むが「見られる」ことは嫌う。つまり、観客と表現者は「見る-見られる」でも「見せる-見せられる」でも満足せず、「見せる-見る」の関係を互いに築いていくのだという。現実的にそんなことが可能なのだろうか。

そのために舞台上の表現者は、自分ではない何かに「変身」する術を身につけたのだという。例えばバレリーナが「白鳥」に化すように、いつもの友人が舞台上では「ダンサー」に化すように、普段の自分ではない何かに「変身」することが表現だとされてきた。木村はこれを「イリュージョン」とよび、日常的な四肢の動きや体の癖を「隠す」ための技術が振り付けとよばれて発達してきたことを指摘している。

これは、本稿の前半で示してきた三項関係と構造を同じくしている。表現者は「白鳥」を「見せて」おり、観客は表現者ではなく「白鳥」を「見て」いる。つまり、「白鳥」を媒介として表現者と観客が三項関係を築いているといえる。こうして「見せる-見る」の関係を成立させているのだ。

しかし、ここでの「白鳥」はアーレントのいう「物」ではない。なぜなら表現者が「見せたい姿」としての存在であり、表現者から独立していないからである。物理的に同じ身体だからというわけではない。第三項としての「イリュージョン(白鳥)」が、あまりにも表現者に依存してしまっているからである。どう、白鳥に見えるでしょ?という表現者の押しつけが強く出てしまっているのだ。

6.何かに夢中な人が魅力的に見えるわけ

結局は「見せる-見せられる」の関係に陥ってしまうこの問題に対して、フィジカル・アート・セオリーでは「観客の姿を意識から消すこと」が必要だとしている。表現者は「見られ」ていると緊張や萎縮が生じたり、逆に良く見せようとイリュージョンに走る。観客も「見せられ」ていると感じた途端に我に返って幻滅する可能性が高まる。つまり、互いに相手の存在を意識せず、自分の世界に没入すればよい。

公園で我が子が遊んでいる姿を少し離れた位置から見ている保護者は、笑顔で夢中に遊んでいる我が子に心を奪われる。子ども自身も、遊んでいる最中は決して保護者の視線を気にせず、ただ自分の世界に没入している。そこには「見られている意識」も「見せられている意識」も存在しない。この状況がなぜ三項関係を成立させているのか。

子どもと保護者の間を媒介しているのは、文字通り「子どもの体」である。子どもは独自の世界の中で自らの体を介して遊び、保護者はその世界の外側から我が子の体を見て、その楽しそうな世界を想像している。つまり、このときの「子どもの体」は、本人にとっては遊びのための「道具」であり、保護者にとっては様々な想像をくれる「物理的な対象」でしかない。この双方から独立した「物」である身体こそ、アーレントが三項関係の成立に必要だとしていたものである。

このように表現者の身体が、表現者の意識から独立した「物」と化した状態が望ましい。別の言い方をすれば、主体が自分の身体を使って何かに没入している状態であり、もっと簡単にいえば「夢中になっている状態」である。そういう意味では、徒競走や玉入れをしているときのような競技に夢中な瞬間の方が、子どもの「見られている意識」や保護者の「見せられている意識」は存在せず【子ども-身体-保護者】という三項関係が成立しやすいと思われる。このような関係性を「表現種目」でもつくれるか、ということだ。

7.まとめ

本稿は、発表会としての運動会における表現種目の在り方について哲学的に検討してきた。長く読みにくい文章だったかもしれないが、今ここでもう一度ダイジェストしておこうと思う。

発表会としての運動会では、①教師が「子ども」を保護者に発表する、②子どもが「ダンスや演技」を保護者に発表するという2つの構図がある。このとき両者から見える「子ども」や「ダンスや演技」の姿は統一されず、それぞれの解釈でよいというパースペクティブ性が保障されることで、ルーマンの定義による「コミュニケーション」が成立する。また、その解釈の対象は両者から独立していなければならないこともアーレントによって指摘されていた。

これに基づくと、①の構図では、「教師が見せたい子どもの姿」を保護者に押し付けることなく、純粋に子どもの姿をみてもらい、自由に解釈をしてもらうことが必要になる。また②の構図では、子どもが「見られている」、保護者が「見せられている」という意識を持たずに表現種目を実施することが求められる。そのためには、いつどこでも曲がかかるとすぐに踊ってしまうような演目への没入が必要になる。見せる見せないに関係なく、「そのダンス踊りたい!」と思わせることがどこまでできるか、教師の腕の見せ所になってくるだろう。

以上の検討から、表現種目を含んだ発表会としての運動会を実施したい場合、そこにあるべきは「最高に上手な姿」ではなく「最高に楽しんでいる姿」となるはずだ。ならば、当日までにすべき準備もまた「演技やダンスのクオリティー向上」ではなく「演技やダンスへのモチベーション向上」でなければならないだろう。教師や保護者が期待する「最高に輝く子どもの姿」は、子ども自身からすれば「その瞬間を最高に楽しむ」ことで実現するのだから。

最後までお読みいただきありがとうございました。


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