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New体育論-Management Perspective-

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小学校で体育を指導しながら、スポーツ産業のマネジメントを学んだ私が、スポーツが発展するためにあるべき体育の姿を様々な切り口から解説するシリーズ。これまでにはなかった「新しい体育の… もっと読む
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記事一覧

「体育」の意味を改めて考える

昨年度末で退職し、この4月は次の仕事までのモラトリアムだった。今はもう自分で体育の授業をすることはないが、次の仕事もまったくの無関係ではないので、久しぶりにできたゆったりとした時間にも、体育について考えを巡らせていた。 新年度の体育を考えるオフラインイベントへの参加、体育・スポーツ経営学の研究をしている大学の先生とのディスカッション、為末大氏の著書『ぼくたちには「体育」がこう見える』をはじめとする関連文献の考証など、今までよりも一歩ひいた視点で体育を眺めることができた。

体育における教師の介入モデル

今回は、体育における教師の子どもへのかかわりについて深く掘り下げる。教科書の存在しない体育では、教師の「ここに向かわせたい」という主観的なイメージが非常に強く影響する。そして、その達成に向けてさまざまなアプローチで子どもに指導や声かけをしていくのだが、それにはいくつかのパターンがあることが分かった。 本稿では、教師が子どもの活動に介入していくときの役割と介入するポイントを整理することで、教師の行動のパターンモデルを提案する。 1.授業中の教師の役割教師は授業中にどのような

評価のときにもつべき5つの視点

教師に限らず、すべての人は何かしらの対象を評価している。個人の成績かもしれないし、自分の健康状態かもしれないし、今日訪れたレストランの料理の味かもしれない。学校で教師が「評価」と聞くとすごく堅苦しい感じがするが、実はもっと日常的で感覚的なことなのだとも思う。 評価するとは、ものごとを価値づけし、場合によってはその因果関係などを推測する知的作業である。また、その評価の結果が自分の行動選択に影響を与えることも少なくない。では、我々は対象について、何をどのように評価しているのだろ

運動会の表現種目に関する一考察

ここ数年はさまざまな分野で「あたりまえの見直し」がされてきている。学校もその例外ではなく、各校の努力で様々な部分にメスが入れられていることだろう。特に大きな見直し点の1つが学校行事であり、運動会の在り方は多くの学校で再検討がなされているはずである。 しかし、なかなか大幅な変更に踏み切れないのは、ある意味運動会の象徴ともいえるだろう「表現種目」の存在がかなり大きく影響しているのではないかと思う。実際、運動会準備や練習の大半がこの表現種目に向けられたものであり、正直表現種目さえ

「面白い!」「うれしい!」「楽しい!」の意味とその違い

私の記事を読んでくださっている方は、少なからず体育や子どもの運動指導に関心があるだろう。多くの方があるいは教師や指導者として子どもの前に立っていると想像する。自らが指導者として子どもたちに運動の場を提供したとき、やはり気になるのは子どもの生の反応である。わざわざ感想を記録させる人もいるが、それよりも実際の表情やついこぼれる一言の方がより多くの情報を与えてくれる。 当然、提供する側としては子どもにポジティブな体験をしてほしいし、ポジティブな言葉や反応が子どもから聞きたいもので

体育は「study」か「play」か

体育をなんとかしたいと考えている教員はとても多い。積極的に研修に参加して専門性を高めようとしているモチベーションに満ち溢れた教員は、体育にとって希望の光である。私もその中の一人だが、いざ研修会に参加してディスカッションをすると、多くの場合で次のような質問がとんでくる。 「評価はどのようにしたらいいのですか?」 「学習カードはどのように活用していますか?」 「楽しい体育にしたいけど、どうしても技の指導もしなくちゃいけなくて…」 非常にまじめである。まじめといえば聞こえはいい

体育における学習者の「解放」

このマガジンでは、体育に関連する具体的な実践だけでなく、しばしば哲学的なテーマで考察を展開してきた。「中動態」や「エトス(ethos:倫理)」、「贅沢」といった概念を参照しながら、体育授業における新たな可能性の模索をしている。本稿もそのようなやや哲学的なロジックを書き綴った文章になるだろう。今回のテーマは「解放」である。 学習者を「解放する」とは本稿の中心的な概念となる「解放」は、ジャック・ランシエールの『解放された観客』で提示されたものである。そもそも「解放」という語には

体育は、目的を「超越」できるか。~体育における「贅沢」~

「体育とスポーツのギャップを埋めることはできないのか」 この漠然とした問いから私の知的探求は始まっている。これまでもマガジンで50本近い記事をまとめてきたが、具体的な実践アイデアは思いついても、それを裏付ける理論や哲学はまだまだ途上にある。そんな中で最近読んだ2冊の本が重要なヒントをくれた。本稿は、それを体育に援用した考察である。初学者の私の理解では論理が飛躍していつになく難解になるかもしれないが、なるべくかみ砕いて記述するようにしたい。 1.目的的なスポーツと手段的な体

なぜ体育は「エンタメ」になれないのか?

先日私は次のようなツイートをした。 この真意を知りたいというコメントをいただいたので、私がこのように感じた理由を本稿にまとめることとする。まず簡単にロジックの整理をすると以下のようになる。 学校教育という文化の役割世の中に存在する文化は「それ自体を楽しむための文化」と「他の文化を生かすための文化」に分けることができる。教育という文化は後者であり、人々が他の文化を理解したり堪能したりするための”補助”的な役割を持つ。 中でも学校教育は、子どもたちにそれらの文化の「試食」を

今年度の体育を総括する

1年間の学級が終わりを迎えた。今年度は昨年度と同じ学年を持ちあがったが、クラス替えもあって初めての子と2年連続の子がシャッフルされた学級だった。この1年間も私の実践の中心は体育にあったが、子どもたちは何を感じていたのだろうか。また、今年度は5年生担任だったので、新体力テストの全国統計の対象でもあった。スポーツ庁から返ってきた自校の結果も非常に興味深い結果を示していた。さらに最終日の子どもたちへのアンケートも含め、結果から見えてきたことをまとめてみる。 1.今年度の主な体育実

「ルールを守る」だけで本当にいいのか?

体育では、スポーツやゲームを通してルールを守ることの大切さを伝えなければならない。それは多くの教員が無意識に、あるいは非常に高い優先度をもって指導していることだろう。しかし、本稿はあえて「ルールを守る」ことを批判的に捉えたい。先日読んだ川谷茂樹氏の「スポーツにおけるルールの根拠としてのエトスの探求」という論文が非常に重要なインプリケーションを与えてくれた。やはり「エトス」がキーワードになるのだが、その詳細は後述するとし、先に具体的な事例から考えたい。 次の4人の行為を、あな

ベースボール型の中でも「野球」が特殊なワケ

体育の授業でも毎年必ず扱う「ベースボール型」とよばれるゲーム。最も代表的というべきはやはり「野球」だが、他にも「キックベース」、「クリケット」、「Baseball5」など多様にある。これらはサッカーやバレーボールなどの他の球技とは違う「型」として区別されているが、一体ベースボール型とは何が特徴なのだろうか。そして、その中でも「野球」という一大スポーツがベースボール型の中でも特殊であるとはどういうことか。 「攻撃」と「守備」まず、スポーツに限らず「ゲーム」とよばれるもの一般に

ポスト・スポーツの時代の体育〜思考中心体育〜

オリンピックやワールドカップのようなグローバルなメガスポーツイベント、もはやどの季節でも風物詩となっている学生の日本一決定戦、日常に溶け込んでいるプロリーグの試合。種目さえ選ばなければ、もうスポーツを観ない日はないくらいにあふれている。 今、そんなスポーツに大きなパラダイムシフトが起きている。それをもたらしたのは、紛れもなく「テクノロジー」だ。 スポーツを激変させたテクノロジーこれまでも、テクノロジーの進歩によってスポーツは多大な恩恵を受けてきた。例えばゴルフクラブやテニ

主体的な者と責任ある者

【主体性】は、現代の学校教育には欠かせないキーワードだが、極めて抽象的な概念でもある。似たような文脈でよく用いられる「自発的」「自律的」「能動的」などの用語とは何が違うのだろうか。主体性の程度を示す「主体的な状態」とは一体どのような姿だろうか。 これが不明瞭のまま観察評価をすると、ただ楽しそうにしているだけの子や(内心めちゃくちゃ不満に思っていても)言われたことをきちんとこなす子がA評価をもらうことになりかねない。主体性が重要であることに疑いの余地はないが、ならば尚更明確な