血の祝日


通勤電車に急制動がかかり、前にいたOLに身体が触れる。意識とは別の部分で身体が勝手に反応して、性欲の高まりを感じた。鼻がつまったような感覚がして、胸苦しくなる。

満員電車。肉体が、無造作に、不自然にひしめき合っている。

クーラーボックスに生きたまま詰め込まれた魚は、異性と身体を擦り合わせるとき俺たちみたいに不意の性欲に悩まされたりするんだろうか。

目の前にぶら下がる手垢まみれの薄汚いつり革も、網棚の上に放置された安っぽい雑誌も、変に腰を曲げたおかしなポーズで視界の下方につき出されてるOLの尻も、電車内の風景のどれもが猥雑に感じられる朝だった。

《人身事故のため、しばらく停車いたします》

みな、薄々その意味を感じ取りながら誰もスマホから顔を上げようともしない。いかに他人の生き死に無関心でいられるかで都会への順応度を競ってる、そんな雑念すらも感じない。透明な無関心。

誰かの死が電車内の人間にもたらすのは、砂ぼこりのように走る一瞬の苛立たしげな表情、それだけ。

人を列車という川に放流できなくなった駅のホームでは、みるみるうちに人が溢れかえっていく。

その場を離れればいいのに、線路の先に雌が川底に産卵した卵でもあるかのようにみんなホームに押し寄せる。

満員電車の周りを、人の充満したホームが包む。

隣にいるサラリーマンが、やたらに鼻で息を吸っていた。誰かの体臭への抗議のつもりなのか。

自分の革靴の中にぎゅっと押し込められた臭いを想像して嫌な気分になる。

空気の中で、満員電車の苦みがダシのように増していく。やがて扉が開き、別の路線への案内がアナウンスされ始めた。

未練たらしく座席に座っている一部の乗客を除いて、人が新たな水流に導かれるように流れ始める。

俺も、流れに乗った。別の路線に乗って終着駅まで行けば会社の最寄り駅からはだいぶ離れるがオフィス街を10分も歩けば会社に着く。

だが、階段を昇っている途中でスマホ画面に新しい電車遅延情報が流れている事に気付いた。代わりの路線も人身事故でストップしたという速報だった。

その場で呆然と立ち尽くした後で、改札前の窓口で遅延証明書を求める列に加わった。

しかし、改札を抜けて駅前に出た後で自分の判断の不味さに気づく。列に並んでる間に街に溢れ出た通勤困難者の群れによってタクシーは涸渇しきっていた。

仕方なく、ホームに戻った。ほとんど隙間なくホームを埋め尽くした人影。空間を子供じみた執念で人型にくり抜き続けた末のような風景。

昆虫の身体のパーツみたいにほとんどの人の目の前にぶら下がるスマホ画面。

スマホ所有者がその他に向ける軽蔑の目は、昆虫が同属の身体欠損者に向ける目に近いのかも知れない。

心も身体も、石のようにして待った。

(誰かが今、毒ガスを撒けばこの空間は爽やかになるのに。)

頭をそんな空想がよぎったら、出来るだけ細かい部分までイメージを作り込むようにつとめた。

ため息のアドバルーンがホームの屋根を浮游させんばかりに蓄積された頃、ようやく運転再開のアナウンスが流れた。

不可解なくらい黙々と、口を開いた銀色の蟲のような車両に流れ込む人の群れ。自分も押し流されて車内に収まる。

人の息の流れに着色して、車内を極彩色に染めてやりたいと思った。

やがて、満腹の車両が身じろぎして、気だるげに動きだす。

車体に加速度がつき始めた瞬間だった。

再び急制動がかかって車内が撹拌された。

今度は小さなおじさんの禿げあがってテカった頭皮に頬擦りするハメになった。

不安感と不穏な苛立ちが沈黙のなかで密度を増していく。

車掌も気まずくて言い出せないのか、停止してからやけに長い間があった。

「人身事故のため、緊急停止いたします」

おい、ふざけるなよ!気の短い誰かが野太い声で叫んだ。

車内にざわつきが広がる。自分のためというより、属してる組織に迷惑をかける。そんな大義名分があるときだけ俺たちは騒げるのかも知れない。

いいから、そのまま走れ!

そんな理不尽な声も上がるが、こんなに大勢の証人がいる前で死体を引きずったまま走り続けられるわけがない。

いったん、ドア開きます。アナウンスとともに電車のドアは再び開き、人々はホームにさわさわと溢れ出た。

その日、都内の主要路線のあらゆるところで人身事故が起きていた。

人身事故の処理が済み、電車が走り出すと、すぐさま再び人が飛び込む。その繰り返しで都内の主要路線は完全な機能不全に陥った。

また、自転車で会社に行こうとする者の先手を打つように都内の自転車屋のほとんどが放火されたり爆破されたりしていた。

すべて昨夜のうちに行われた犯行だった。

そして、今日になって都内のバス会社やタクシー会社も爆破されたというニュースが流れた。

犯人の目的は不明。でも、相当巨大な組織による組織的な犯行なのは間違いない。

その日、結局、夕方になっても電車は動かず、会社に向かうための足も無く。

会社に五度目の連絡をいれたとき、「今日はもう通勤しなくてよい」と言われた。

目的を失って駅から徒歩でとぼとぼと帰る。その途中、5年ぶりに図書館に入った。

心が軽く、本棚の前で思わず微笑んでいる自分に気づいた。

□□

ネットに渦巻く陰謀論。

深刻な調子で、連続多発公共交通自殺事件を取り上げるニュースキャスターたち。

ある芸人が、「自殺する人たちが一斉に誰かのためになってから死のうって意識に目覚めたんすかね?」とワイドショーのコメンテーターとして発言してネットで炎上した。

だが、俺にはその芸人が言わんとするところが理解できたし、内心、共感してる人もたくさんいたろう。

どこかで、会社に行かない口実を与えてくれた自殺者に感謝している気持ちが自分のなかにあった。

建前の奥にある本音を、わずかばかりでも漏らせば攻撃の対象にされる。

普段、何に耐え、何を妥協して生きていればそこまで他人に不寛容になれるのだろう。

俺も、あと何年か満員電車のなかでスーツの肩を擦りきらしていればネット上の憎悪依存症患者の仲間入りを果たしてしまうのだろうか?

新宿駅のホームに、警官隊がいた。

まるでテロリストと対峙するようなものものしい空気がある。

ただ、立て続けに自殺しただけでテロリスト扱いされる。自分もいつ、国家の敵に認定されるか分からない。スマホ画面に顔を浸けている人々の何人がそんな不安を覚えたかは分からない。けど少なくとも俺は不穏な空気を胸で味わっていた。

思えば、線路は長くどこまでも続いている。

自衛隊を全員動員したところで、中央線の東京ー高尾間を見張る事すら出来ないかも知れない。

自殺者はなにも目立つ主要駅で飛び込む必要は無いのだ。

普段から鈍行以外は通過する小さな駅から今日の飛び込みは始まった。

通過するときのトップスピードで轢かれたものだから、現場の惨状は凄まじいものになった。

また、始まった。

車内のざわめきが、なにかを期待するような色合いを帯びているように聴こえるのは俺の偏見か。

またぁ、と不満げな台詞を口にする女の唇が憎たらしい芋虫のように笑みの形に身をくねらせている。

代替路線でドン、再開後の路線でドン、惑星軌道のごとく昨日の経路を再現した後、ホームで立ち尽くし、歩いて会社に行くことにした。

会社に着く頃には夕方だろうが、行こうとしたというアリバイが必要だ。

車道は、ぎっしりと車が詰まったまま巨大な砂時計の上澄みのように静止している。

スマホ画面に、自動車の搭載した人工知能が東京全域でハッキングに遇っている、と速報が流れていた。

日本の車が人工知能の搭載を義務付けられてから、もうだいぶ経つ。

年間三万人前後のまま増えることもなく減ることもなく推移してきた日本の自殺者。その大半がなんらかの統一された意志のもと自殺を決行し始めたのだろうか。イスラムの自爆テロのように。

なぜ年間三万人もの自暴自棄な人間を社会が抱えるリスクを、俺たちは真剣に考えて来なかったんだろう?

絶望したら、お上に楯突くことも無くおとなしく死んでいく日本人。その控えめさに甘ったれ、俺たちは何の対策も講じてはこなかった。

私たちは美しい日本を取り戻すと口先では言いながら、勝ち誇った顔で労働者を搾取する悪法を強行採決してきた権力者たち。

あいつらはなぜ、自分の命を断つ覚悟をもった人間が年間三万人も出てくる国の異常さと恐ろしさに想像力を働かせなかったのだろう?

自殺者による血の祝日は、それから10日間続いた。

政府は、自殺者の名前をお抱えメディアで大々的に報道させたり、過剰な賠償金をかけたりして様々な弾圧を試みた。だが、電車に飛び込んだ人間が揃いも揃って天涯孤独の身の上だったし、死ぬ覚悟のある人間に弾圧をかけても効果は薄かった。

「仲介者の賃金中抜きが横行し、労働者の搾取に繋がるといって、禁止されていた派遣労働がいつの間にか解禁され、なぜだろうと?と疑問に思っていたらアラ、不思議!派遣会社の親玉が政権の中枢にいる。そうして、法律を好き勝手に変えて自分の会社に利益誘導してるんだ!」

犯人からの犯行声明。スーサイド・レジスタンスのリーダーの演説は、テレビでは都合の悪い部分をカットして放映されていた。

セーラームーンのお面を被った彼は細身だった。

不意に、彼は俺自身なのではないか?という錯覚に襲われる。

俺はホームから電車に飛び込もうと決意している。

だが、飛び込もうとした瞬間、別のサラリーマンに先を越された。

サラリーマンの血を顔面に浴びながら、俺は決意したのだ。

無為な死を遂げる自殺者を集め組織するのだ。

自殺者はみんな寂しがっている。自殺サイトなどで自殺者のふりをして潜り込み、仲間を増やそう。

どうせ死ぬなら社会に衝撃を与えてみないか?

俺のビジョンに賛同する自殺者は数多くいるだろう。

だが、その瞬間、我に帰る。

俺は、スーサイド・レジスタンスの演説をネット動画で観ている、ただのしがないサラリーマンに過ぎない。

背骨が抜かれ、ペラペラの紙人間になったような寂寞感が全身に広がった。

「政府が、金持ちの味方をし、労働者をコケにし続ける限り、俺たちは何度でもこの国に血の祝日をもたらす!愛国者の皮を被った守銭奴ども、覚悟しておけ!」

全身に広がった寂寞感は、俺の足を伝わって、アスファルトに広がり、この街全体を寂しさで覆い尽くす。

この記事が参加している募集

#私のイチオシ

50,926件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?