黒い純愛
夜闇の中、笛の音のように聴こえていたその音が女の悲鳴に変わった。
ユキオは無意識のうちに悲鳴のする方に走っていた。
闇を溜め込んだダムのように横たわる巨大な公園。その奥から女の悲鳴は聴こえて来る。
ユキオは腕に覚えがあるわけでもないのに自然と危険な香りがするその場所に向かっている自分が不思議で、夢の中のような現実感の希薄さを感じていた。
公衆トイレのすぐそばの芝生で、男が女を組みしいていた。男は手足が長く、若かった。
「やめろ!」
ユキオがそう叫ぶと、女を抑えたまま男は振り向く。しばらくユキオを見つめていたが、意外なほどあっさりと女を解放した。
身体を反転して、芝生の上にだらしなく仰向けに横たわる。
闇に慣れた目には、街灯と公衆トイレから漏れる明かりに挟まれたその空間は明るかった。
女を犯そうとしていた男は、飛び抜けて美しい顔立ちをしていた。暗闇に溶ける黒髪は、首すじの辺りまで伸びている。女になっても絶世の美女で通りそうな美貌だが、体つきはしなやかで、開いた胸もとや首すじの辺りから強烈な男の色気を感じさせた。脚がすらりと長くスマートだが、尻から太ももにかけてバランスの良い筋肉がついていてNBAのトッププレイヤーの体躯を連想させる。
一番、喧嘩したら厄介な類いの男だった。
かたやユキオは、こちらも飛び抜けた美形なのは間違いないが、中性的でスポーツとは無縁の印象だった。どちらかと言えば、女子高生の制服でも着せればそのまま可憐な美少女で通用するような可愛らしい顔と体形。
襲われていた女性は逃がせた。一定の満足感がユキオの胸の中に流れている。だが、目の前の現実は継続している。行動には結果が伴う。男は立ち上がった。足先から指先まで発達した運動神経が行き渡っている人間特有の滑らかな動作だった。
これだけ恵まれた肉体を天から授かりながら、強姦なんていうくだらない行動に走った。ユキオの胸の中に嫌な気分が充満する。
一瞬で男は距離を詰めてきた。
強い恐怖で身がすくんだ次の瞬間には、撮影中のカメラを落とした時の映像のように頭の中で世界が反転した。
うつ伏せに地面に押し付けられ、土や雑草に愛撫させられている錯覚がユキオを襲った。男は何か格闘技の寝技に精通しているようで、身動きひとつ取れなくなった。元々、相手の方が身長も体重もあって、しかもこうして密着していると相手の身体は筋肉の塊であるのが分かった。
理性も倫理も無い。正義もへったくれも無い。それなのに体力だけは異常発達している。これでは、猛獣に等しかった。ユキオの目には悔し涙が溢れた。
ズボンを引きずり下ろされたとき、最初は金目の物を盗ろうとしているのだと思った。だが、次に下着も引きずり下ろされ、ようやくユキオの背筋に悪寒が走った。全力で身をよじり抵抗するが上に乗った男はまるで動かない。
何か、男が超自然的な存在に感じられて来る。こんなに理不尽で圧倒的な暴力を振るってくる存在が、人間のはずは無い。上に乗って決してどかない。熱と筋肉の悪霊。
男に身体の奥深くまで侵入されたとき、胸の中が責め苛まれた苦痛の末に甘い苦しみに変わった。心臓を痺れさせる被虐的な甘い痛み。
その甘さを感じた自分に、ユキオは絶望した。
□□
警察に行く気にはなれなかった。
男の熱を浴びせかけられた腹の奥に、恥の核を植え付けられたみたいだった。警察署で、警官に向かってレイプされたと訴える自分を想像しただけで、その恥の核から膜のようなものが広がって、自分を覆い尽くすのを感じた。膜に覆われると、自分が深海に漂う無力な弱小生物のように思えてきて、指先を動かす事さえ億劫に感じられた。
恥の核が出来てから、ユキオは彼女とのセックスも上手くいかなくなった。
ベッドで横たわる彼女の裸体を前にしても、男性としてのエネルギーを腹の奥に出来た恥の核に吸い上げられていくようで、まるで役に立たない。
大学で知り合った彼女は、ありとあらゆる暴言を吐いてユキオの尊厳を傷つけた。
今から、元カレに抱かれに行ってやるから、あんた横で見てなさいよ。
そう彼女から言われたとき、腹の奥に熱を浴びせられたときの感覚がまざまざと蘇って、ユキオは腹の奥の核がゆっくりと成長していくのを感じた。
大学のキャンパスで男の姿を見かけるようになったとき、ユキオは最初、自分の幻覚だろうと思った。
だが、男は徐々にユキオの生活圏に浸食してきて、今ではユキオの属する友人グループの輪の中心で笑っているようになった。
ユキオの友人たちが、男の名前を呼ぶのを頻繁に聴くようになって、自然と頭にこびりついた。
男は『シヴァ』と呼ばれていた。
元の名はシバサキとかいうらしいが、その禍々しい語感が、男の雰囲気にぴったりだとユキオは思った。
もう冷めきっていたユキオの彼女は、シヴァにあからさまな色目を使い、媚を売っている。
危険な香りがする類いの美形で、ファッションも洗練されていて、喋ればその頭脳が飛び抜けている事が誰にでも伝わる。シヴァには生まれながらのカリスマ性があった。
彼女とはすでに別れているも同然だったし、気持ちも冷めていた。それでも、自分の部屋に帰ると彼女がシヴァとまぐわっていて、付き合ってるときには1度も聴いたことが無いような本気のあえぎ声をあげていたときには、冷たい鉱物のような確固たる殺意を覚えた。
シヴァは翌日、ユキオがいる大学の公衆トイレの個室に飛び込んできた。
シヴァは、震えるユキオの頬を長く冷たい指で優しく撫でながら囁きかける。
女がいかに愚劣な生き物か、お前に見せてやりたかったんだ。
抵抗も出来ずに再び侵入され、恥の核をつつかれた。その日から、シヴァはユキオを所有し、当たり前のように抱くようになった。
大学内に奇妙なカルト集団が出来上がりつつあった。
シヴァを中心にした集団だった。
前世サークルとか呼ばれたそれは、前世の罪業の重さによってサークル内の立場が変わるのだった。
前世の罪業が重ければ重いほど、サークル内の地位が上がる。
シヴァは、誰よりも深く罪業を背負っていると自称し、サークルの王として君臨していた。オカルトに興味がある女たちやシヴァの性的な磁力に惹かれた女たちが次々に入会していき、シヴァに心酔する男たちも増えていった。
そもそも大学に籍があるのかさえ分からない男を中心にしたサークルが存在する事すら異様だったが、誰もその事に異論は挟まなかった。
付き合いたての彼女とラブホテルで三連泊したときみたいな臭いがこもったユキオの部屋。シヴァが居座るから、サークルのメンバーがひっきりなしに出入りしている。
そんな臭いを部屋にこもらせておいて、ユキオがいないとき信者の女たちと何をしているのかバレてないと思っているシヴァの図太さが不思議だった。
シヴァの唾液の匂いをさせた女がユキオと入れ替わりで部屋を出ていくとき言った。
あんた、自分で気付いてると?男を寝取られたときの女の目をしてるよ。
ユキオは洗面所の鏡の中に映る自分の顔を見た。
吊り上がった女の目がそこにあった。
前世サークルが大学のキャンパスを飛び出し、都心の街頭で過激なパフォーマンスをするようになった頃、それはもはや大学内の1サークルとは言えない規模に成長していた。
シヴァが、信者一人一人に与える贖罪ミッションと呼ばれるもの。それは最初、バラエティ番組の罰ゲーム程度の可愛いげのあるものだった。坊主頭に剃りあげ学生服のコスプレをして、渋谷で一日中ナンパをするとか。見えない弾丸が飛び交っているていで、ほふく前進をしながら中野ブロードウェイの全フロアを回るとか。
しかし、段々とエスカレートしていって、過激化したそれは、もはやテロと呼ぶ方が近いものになっていた。
テレビのニュース映像の中に、前世サークルの中心メンバーの顔が映し出されている。親指を拳の中に隠し、喉仏の前に持ってくる、自らの首を切り落として贖罪を行った者の姿を表現したポーズをとった信者の彼は警察に連行される間、まばたき一つせずにカメラを見つめていた。
「彼に何をさせたんだ」
シヴァは軽く振り返って面白そうに笑っているだけだった。
罪を償わせてください。
多くの若い人たちが、シヴァの元に集まっては何の借りもないはずの男の足下にそう言ってひざまずいた。
シヴァは当然のように罪の告白と悔い改めを受け入れ、彼らに贖罪ミッションを与えた。
シヴァは相手の罪の意識を利用して、対象が若い女なら必ずレイプしたし、男なら自分の奴隷として徴用した。
しかし、不思議と、シヴァに蹂躙された後、彼らは救われたような顔になるのだった。何かに許されたような、恍惚とした、安心しきった顔に。
シヴァは他人を支配し蹂躙するという役を引き受けることで、周りの人々を救済しているのかも知れない。ユキオは、そんな倒錯した思いに駆られていた。
シヴァの元に来る若い女たちに、ユキオがいくら優しい言葉をかけたところで彼女たちを絶望から救う事など決して出来ないのだった。
そんな彼女たちが、シヴァの支配下に置かれた後では安らいだ顔をしている。
ユキオでは決して与える事の出来ない救済を、シヴァは蹂躙する事によって与えるのだ。
ユキオには、何が正しさなのか分からなくなってしまった。
前世サークルが公安にマークされ、厳しい監視に晒されるようになると、シヴァはユキオのアパートを出て信者の一人が所有する箱根の別荘に拠点を移した。
冬がきて、輝かしい花の群れが枯れ果てたように、いちどきにユキオの身辺は寂しくなった。
ユキオの周りから人は消え、元々いた友達まで失われた。
シヴァの魅力に引き寄せられた人たちの流れの中に身を置いて、寂しさとは無縁でいられた激動の日々。
ユキオは、シヴァと初めて出会った場所を歩いていた。昼間、その公園は光に溢れ、とても凶行が行われた現場には見えない。
音も光も無い映画のように、シヴァと過ごした日々が映像となって胸の底を流れていた。
影で作った映画のようなその胸の底の映像を、ユキオはどうしても止める事が出来なかった。
そのとき、スマホがメールを受信した。開くと、見知らぬメールアドレスからのメールだった。
『お前が、俺の最後の居場所になってくれ』
シヴァからのメールだと確信した。公安に跡を辿られないように信者のケータイを使って連絡を寄越したのだ。
胸が揺さぶられ、涙が溢れるのを止められなかった。心臓が熱く融けて、涙となって溢れでているようだ。
そんな自分自身の心の動きが、何よりも恥ずかしいと、ユキオは思った。
その数日後、シヴァは逮捕された。
殺人や強盗の実行犯でもないのに、シヴァには無期懲役という破格の量刑が課せられた。体制への反抗を許さないという時代の気分を大いに反映した判決だったのかも知れない。
そして、15年の年月が流れた。
□□
模範囚として15年服役し、仮釈放される事になった囚人シヴァ。
彼の身元引き受け人になるという奇特な人物が現れたという事が、刑務官の間でちょっとした話題になっていた。
シヴァとは何ら血縁関係に無い彼はプロテスタントの牧師だという。
ガラス越しの面会ルームに現れたのは修道服に身を包んだユキオだった。
白髪が目立ち、ひどく老け込んで見えるシヴァとは対照的に、ユキオは少々面妖なくらい瑞々しい美貌を保っていた。
死魚の目に、濡れた光が滲んだ。何年もその瞳が忘れていた光だった。濡れた欲望の光。
「あのときの、約束を果たしに来た」
ユキオは牧師として神に仕えながら、結婚して家庭を持っていた。妻と二人の子供。額縁の中の絵のように理想的な家庭。シヴァの元にいた時代に比べればそれは平凡で退屈な生活だったが、素晴らしく平穏で幸福でもあった。
なぜ、今になってシヴァのような危険人物を自分の人生に引き戻してしまったのか。ユキオ自身にも自分の心理は分からなかった。
キリスト教精神が旺盛で、聖書に書かれてある事をそのまま実行しようと努めるような女だったユキオの妻は、浮世の人間からしたら不気味に見えるような華やかな笑顔を満開に咲かせ、文句ひとつ言わずにシヴァを迎え入れた。
教会の若い女たちによる、凄まじい争奪戦を勝ち抜いてユキオの妻の座に収まった女性とは思えない淑やかさだった。今でも教会にはユキオ目当ての女性信者が大挙していた。ミサ中、ユキオの説教に聴き惚れる女性信者が居並ぶ中でも、彼女はこの華やかな笑顔を決して崩さない。
夫と妻と子供たちの食卓。
そこに、刑務所の匂いが肌の深層まで染み付いた得体の知れない男が座っている。
妻の浮気相手が家族の食事の場に同席しているような、妙に違和感のある光景だった。
家の庭でシヴァが娘二人と遊んでいる。
今どきの娘の感性に戸惑いながらも、シヴァは真面目に子供の遊びに付き合ってあげてるようだ。
ユキオは、その光景に思わず笑みをこぼした。
禍々しい雰囲気と発散しながら多くの信者を従えて、カルト組織のリーダーとして君臨していた男が今では女の子とおままごとをしている。光あふれる庭で娘たちと戯れるその姿は悪人とは程遠かった。
シヴァを正しい道へ導けるかも知れない。ユキオはそんな希望を抱いた。
長崎で、カトリックの神父たちとの交流会が予定されていた。ときに、激しい宗教談義に発展する事もあるこの席で、プロテスタントの恥を晒すわけにはいかない。そこで、若手牧師の中でも特に優秀なユキオが指命された。カトリック側もエリート集団であるイエズス会の中でも、選りすぐりの若手神父を送り込んでくるはずだった。
5年前、ある牧師が交流会をきっかけにカトリック側に改宗するという事件が起きた。それ以来、教会上層部はさらに神経を尖らせるようになった。生涯独身を貫く神父たちのストイックさに圧倒されないように、交流会への妻の同伴は厳禁になった。
別人のように丸くなったシヴァの様子は安定していたし、妻や娘たちやむしろ男臭いシヴァの方を頼りにする態度さえ見せるようになっていた。ほんの少しばかり複雑な気持ちもあったが、それでもユキオは安心して出張に出掛けることが出来た。
女性との接触を禁じるという戒律は、カトリックの神父たちの攻撃性を高める効果しかないんじゃないか?ユキオはそんなカトリック否定の観念を胸に渦巻かせながら帰路についていた。ユキオの美貌が、相手を興奮させて攻撃性をより引き出していた事に本人だけが気付いてなかった。
もう3回づつ家や妻のケータイに連絡を入れているのに誰も電話に出ないしメールの返信も来ない。そのことが胸のわだかまりを増幅していた。
無意識に目を反らしていたが禍々しい予感が胸の中で膨らみ続けていた。
冷たい悪夢の中を歩くような感覚につきまとわれていた。風景から黄色味や白味が失われていき、青く暗い色が増していくように思えた。
妻を寝取って、家庭の支配者に収まったシヴァの姿が脳裏に浮かんでは消えた。娘たちもシヴァに憧憬の眼差しを注ぎながらその足元にかしずいている。
妻を失うイメージは薄皮が切れたくらいの痛みしかもたらさなかったが、娘のそれは胸の深部までうずいた。
神の恩寵《おんちょう》に包まれていた牧師の家が、今は禍々しく暗い雰囲気に閉ざされていた。映画エクソシストの一場面、神父が悪魔憑きの少女が待つ家に対決に向かうシーンのようだ、とさえユキオは感じた。
我が家の庭に、見たこともない黒犬が佇んでいる。
ユキオが思わず身構えると、黒犬は悠然と目の前を横切って去った。
その黒犬の口に、人間の手首が咥えられていた。
黒犬の口の中で手首から先だけが手を振っているように見えた。
頭の中に漂白剤をぶちまけられたようになってユキオが立ち尽くしていると、家の中から女たちの談笑する声が聴こえてきた。
ユキオは、ほっと胸を撫で下ろす。よく見れば家の中からは暖かな光が漏れている。
だが、ノブを捻ると何の抵抗もなくドアが開き、再び違和感が差す。
ドアを開けながらユキオが「ただいま」と声をかけると、女たちの談笑はぴたりと止んだ。
確かに、聴こえていた。
だが、外から見れば明かりが漏れていたはずの家の中には濃密な闇があった。粘り着きそうな深い暗闇だった。
闇から流れて来る冷えた空気。ユキオはその中に異臭が混じっている事に気付いた。
暗闇の奥から、ぽつり、ぽつり、と囁き声が聴こえてくる。
しっとりと間を置いた、敬語の話し声。長い付き合いのある、信頼のおける上司と話す部下のような口調だと、ユキオはゆっくりと暗闇に侵入しながら、そう感じた。
囁き声がする方へ、音をたてないようにしながら慎重に歩いた。靴下が、廊下で何度か濡れた場所を踏み、右足は湿った布に包まれる不快な感触に占拠された。空間に漂う異臭からして、動物の糞尿かも知れない。
囁き声は、家族の食卓兼リビングルームから聴こえていた。ユキオは、部屋の入口にある電灯のスイッチに手を伸ばした。
瞬間、世界が漂白された。
白く染まった次に、部屋の輪郭が真っ赤に浮き上がった。
電灯の白い光に照らされた部屋の風景は赤黒い色に沈んでいた。
全身、真っ赤に染まった全裸の男が、椅子に座っていた。亀頭が異様に発達したペニスまで、血まみれだった。そのペニスの形状を見て椅子に座っているのがシヴァだと気付いた。
シヴァは固定電話の受話器を握って、誰かと話していた。相手の話を聴きながら、しきりに頷いて、相槌をうっている。だが、その電話はどことも繋がっているはずがなかった。引きちぎられた電話線がシヴァの足の小指のあたりに垂れていた。
普段は、家族の食事がのっているテーブル。その上にあるものを見て、ユキオの絶叫は止まらなくなった。
妻と二人の娘の生首がテーブルの上に置かれていた。
三人の後頭部をすり合わせ、顔が三方を向くような形でテーブルの真ん中に置かれたそれは、人間という印象をもはや離れて、植物のように見えた。
最愛の人の顔によく似た実をつける、奇怪な植物のように。
解体され部屋に散乱した三人の死体の中で、子宮だけは最後まで見つからなかった。その部位だけどこか別の場所に埋めたか、喰った可能性がある、と後に発売された低俗週刊誌の記事に出ている。
シヴァの死刑判決は異例の早さで確定した。仮釈放中の、身元引き受け人家族惨殺事件。弁護側も擁護のしようがなかった。
あれだけの出来事がありながら、いまだにユキオはシヴァを完全に見棄てる事が出来ずにいた。それは狂気の領域に入る関係性だったかも知れない。
周囲の人々はユキオの行動と聖書の教えを結びつけて、彼を現代の聖人だと崇め奉ったが実態はそんなものではなかった。
ユキオは、いつ、自分とシヴァとの間にこれほど断ち切りがたい絆が芽生えてしまったのか、自分でも戸惑っていた。
無理矢理、肉体の繋りを結ばれて身体の奥深くに刻印を押されたときなのか、多くの信者に囲まれて狂乱の日々を過ごしたあの頃なのか。
面会に行くうちにユキオはある奇妙な事に気付いた。
シヴァは死刑が確定してからというもの、明らかに若返っているのだった。
いや、正確に言えばあの事件があった日、以来だ。妻と娘が惨殺されて子宮が奪い去られたあの日から。
今では、シヴァはどう見ても20代前半の若者にしか見えない。
「いやね、死刑囚っちゅうもんは急にやたらと元気になってね、若返ったみたいに生き生きとはしゃぎ出すもんなんですよ。死を目の前にして細胞が活性化するって言うんでしょうか?人体の不思議ですな」
そう刑務官に説明されたが、とてもそんな気持ちの問題で片付くような若返り方ではなかった。
今のシヴァは、完全に出会った頃のあの禍々しいエネルギーに満ちたシヴァそのものだった。
いよいよ死刑執行の日が訪れて、ユキオは密かに東京拘置所のある一室に招かれた。
被害者遺族には、死刑執行の瞬間を見届ける権利が与えられているのだ。
その小さな薄暗い部屋に入ると、目の前がガラス張りになっている。
執行前の今は何の変哲もない部屋がガラス越しに見えているだけだが、向こうの部屋の床中央には奇妙な四角い切れ目が入っている。ちょうど家の床下収納スペースがある場所に似た切れ目だった。死刑囚は首にロープを巻かれ、その切れ目の上に立たされる。
いざ刑が執行されると、その切れ目の範囲で隣の部屋の床が抜けて、落とし穴に落とされるような形で囚人は首を吊られる。
娘と孫を同時に失った妻の両親、その親戚。狭い部屋は肩を寄せ合うような混雑ぶりになった。
ついにこの日が来ましたな、ついにこの日が来ましたな。と宿願叶ったと言わんばかりの笑顔で連呼する親戚の顔を、ユキオは初めて見る気がした。
首吊りショーを特等席で見るために、今日だけ親戚代表に変身したのかも知れない。
妻の父は、怒りの表情のまま泣いていた。
早く地獄に落ちればいいのよ、死んだからって安らかになれると思うんじゃないわよ。死んだあとも苦しみは永遠に続くんだからね。
妻の母は、敬虔なクリスチャンとして知られていたが、事件以降、地獄の文献を読み漁っては、毎晩夫に地獄についての講義をするようになったらしい。旅行先のパンフレットを見せるように冥府を描いた絵画を示しながら地獄の苦しみについて延々と語るのだ。疲れ果て倒れるように眠るまで延々と。
その形相は、キリスト教徒というより悪魔崇拝者のそれに近かった。
ユキオが泣きもせず怒りもせず無表情で佇んでいると、だれよりも深い哀しみを抱えているせいだ、と周りは解釈した。妻と娘たちの死という現実が、胸の中にことりと収まる事なく、いつまでも周囲を浮遊している感覚。自分という存在すらも、この場所この現実から剥がれ落ちてどこかに漂い出してしまいそうだ、そうユキオは感じていた。
□□
東京の、猥雑な色合いの風景に白い絵の具を12滴垂らしたようだった。彼らは、服だけでなく肌も髪も、濁りのない純白だった。12人の純白の男たち。
彼らはシヴァの命が断たれようとしている東京拘置所に向かって、ゆっくりと歩いている。
不意に、その12人の男たちの腰に奇妙なデザインのベルトが出現した。ボクシングの世界王者が付けるチャンピオンベルトほどのサイズだった。
彼らの服装とは対照的に、そのベルトのデザインはそれぞれが非常に個性的でカラフルで、原始宗教の神々を表現した原住民のお面のように奇抜なデザインをしていた。それでいてどこか神々しい威光さえ感じさせる。
12人の男たちの先頭にいた男が、ベルトに右手を触れて囁いた。
「・・・・・・変・・・身」
純白の光輝が爆発的に広がり再び12人の男たちの形に収束した。
ベルトのデザインを、そのまま全身を覆う戦闘スーツにまで拡大したようだった。
純白の男たちは、12体の原始宗教の神々のようにカラフルで奇抜な戦闘スーツに姿を変えた。顔から足先まで全てが覆われ、元々の彼らの姿を窺い知る事は出来ない。
死刑執行が行われる部屋に姿を現したシヴァに、ユキオは強い違和感を覚えた。
片頬に笑みを浮かべたその表情に死刑執行前の緊張はまるで見られない。コンビニに立ち寄ってコーヒーでも買うような気楽さ。
ユキオは職業柄、多くの死刑囚を見てきた。刑を執行される直前の最後の懺悔を聴く役目を仰せつかった事も多くある。どんな凶悪犯でも刑執行前になると醜態を晒すものだ。直前までは余裕しゃくしゃくの態度でいても、いざその時になると様子はまるで変わる。非常に狂乱して部屋から出まいと抵抗したり、足腰が立たなくなり自分で歩けなくなって刑務官に数人がかりで運ばれたり、その際、糞尿を撒き散らしたり、まともでいられる死刑囚などほとんどいない。
そういう意味で、死刑執行前のシヴァのこの態度は常軌を逸していた。
ユキオの周りではシヴァの態度に対する怒りの唸りが起こる。妻の母はシヴァの笑みを見た瞬間、ヒーと悲鳴を上げた。
シヴァはユキオを見ていた。
ユキオは、シヴァの顔を直視できない。これから死にゆく者の顔を眺める勇気が出なかった。
「早く死ね」
妻の母が最初にそうつぶやいた。
「早く落ちろ、早く死ね」
そう見知らぬ顔の親戚が続いた。
シヴァの余裕の表情が、クリスチャンの家系から完全にキリスト教精神を奪い去ってしまったのかも知れない。
早く死ね!早く死ね!早く落ちろ!早く落ちろ!
床を足で踏み鳴らしながら、そんな唱和が自然発生した。
地獄絵図だ、とユキオは思った。
間抜け、と表現したくなるような唐突なタイミングでシヴァは落ちた。
石ころとか、使用済みのコンドームとかと変わらない速度でシヴァは落下し、全体重を受けたロープは棒のように張った。
その光景の衝撃で、唱和がようやく止まった。見知らぬ顔の親戚が一人だけ唱和から取り残され、最後の「お、ち、ろ」の部分だけ独唱のような形になった。
悲しい、と感じる前に泣いていた。頭ではないどこかでこの光景を受け止めた。
理由も分からずに、ユキオは打ちのめされた。世界の背骨が折れた、はっきりそう感じた。
シヴァがこの世から消えることに、なぜ自分がこれほど打ちのめされるのかユキオには分からない。
いつ、これほど愛した。いつ、これほど惚れぬいた。
あぁ、と妻の母が呆けた声を出した。その顔は、気が抜けて、急にボケが始まったような弛緩しきった顔だった。
妻の父は、なぜか風呂上がりのような素の表情になっていた。
□□
首を吊られた死刑囚の死を確認するために刑務官が地下に降りていく。
落下時の余波でわずかに揺れる遺体が見える。
ふと、刑務官は奇妙なものに気付いた。
首を吊られたシヴァの腰に奇妙なデザインのベルトが巻かれている。刑務官は首をひねる。変だ、あれだけ身体検査をしたはずなのに。
そのベルトはどす黒かった。悪魔崇拝者の祭壇にでも祀られていそうな禍々しいデザインをしていた。
生命力のなくなった身体のなかで、そのベルトだけが異様に存在感を持っている。
そのとき、表で爆発が起こった。地下まで衝撃が来て刑務官はバランスを崩し、つんのめった。
刑務官が激しく動揺しながら顔を上げたとき、首を吊られた死刑囚の遺体が忽然と消えていた。
ロープの締めが甘く、今の衝撃で落下したのかとロープの垂れた先の床を見ても、そこには何もなかった。
刑務官が異常事態を伝えようと同僚に向かって叫んだとき、2回目の爆発が起きた。
心神喪失の状態にあったユキオは二度目の爆発が起きたときにまともに頭を打って気を失った。
気がつくと辺りは火の海。ユキオの身体は誰かに姫のような形で抱きかかえられていた。自分の体格の貧弱さを思い知らされるようで気恥ずかしい。そう感じながらシヴァだと直感していた。
だが、自分を抱いて歩く者の顔は、真っ黒いお面をかぶっていた。原始宗教の神のような異形のお面。
「寝てろ、ユキオ」
だが、その声はたしかにシヴァのものだった。ユキオは、夢見心地のまま再び意識を失った。
轟音。
釣り上げられたように意識が浮上する。
ユキオが倒れてるアスファルトのかたわらで、異形の仮面をかぶった漆黒の男が、よく似た出で立ちの真っ赤な仮面の男の頭を鷲掴みにして、路面に叩きつけ続けていた。
赤い仮面と戦闘服を着た男はすでにぐったりとしている。いらなくなった人形を分解しようとする心を病んだ子供のように、シヴァはその反復を止めない。
そうだ。妙な仮面と戦闘スーツを着ていても、その行動や仕種はシヴァそのものだ。
ふと、周りを見回すと似たような男たちが10体も路上に転がっていた。みな、シヴァに惨殺されたのか。
もはや絶命したかのように見える赤い仮面の男を路面に放り出すと、シヴァはむしゃぶりつくようにその身体に覆い被さった。
一瞬、自分がされた事の再現が始まるのかと胸を痛めたユキオだが、シヴァの行動はそんな正気の範囲では無かった。
仮面の口の部分が開くと猛獣の牙がぞろりと覗いた。
次の瞬間、シヴァは赤い仮面の男の身体に喰いついていた。
血しぶきが飛び、絶命したかのように見えた男の身体が激しくもがいた。
ユキオは口元をおさえて必死に嘔吐感をこらえる。
肋骨が空洞になるまで男の内臓を喰い尽くし、ようやくシヴァは顔を上げると、咆哮を上げた。
奇妙な事が起こった。シヴァの黒い肉体が、蠢いている。筋肉の痙攣、そんなレベルでは無かった。骨格そのものが地殻変動を起こしている。そういうイメージだった。
黒いボディの中から、赤い甲冑が生え出てくる。その赤い甲冑は、シヴァの胴体を這いまわり胸と肩と脇腹を覆うと、そのまま定着した。
相手を捕食して、その特性を自分の中に取り込んだ。そんなイメージに見えた。
「・・・・・・俺たちを倒しても」
肋骨の中身が空洞になった男はまだ生きて、喋っていた。ゾンビ映画のような光景に、ユキオは涙ぐみながら耐える。
「・・・・・・異世界のライダーたちがお前を狙ってやって来るぞ。お前は終わりだ、シバサキ」
次の瞬間、赤い仮面の男の顔面はシヴァに踏み潰されていた。
「シィーヴァーサァーキィイイイイイイ!!」
紫色のスーツを着た仮面の男が向こうから叫んだ。
シヴァとその男の間には11体の仮面の男の遺体が転がっていて、ところどころの路面に炎が揺らめいている。
シヴァは腰のベルトに触れて、囁いた。
「我が罪業を啜《すす》れ」
『腹ぺこだ。5前世分の罪業を喰わせろ』
シヴァに答えたのはベルトだった。ユキオは自分の正気を疑った。
「あんな雑魚《ザコ》、2前世分で十分だ」
『ウサギを狩るにも全力を出せって言うぜ?』
「・・・・・・」
『ちぇっ。しゃーねぇ』
シヴァの周囲の空間が歪み、数メートル上空に空間の穴が開いた。
『召還、第六天魔王ノブナガ!』
シヴァは拳法の使い手のように構える。両手を大きく上下に開いたポーズだった。
豪華絢爛な甲冑を着た戦国武将が空間の穴から出現した。武将が手に持った指揮棒を振るうと空間の穴から無数の雑兵が飛び出してくる。
『お前のショボい罪業じゃあ、この程度の小物が精一杯だぜぇ』
戦国時代の雑兵たちが紫色の仮面の男に一斉に向かって行く。
シヴァはそれと同時に飛び上がった。
戦国時代の雑兵たちのイメージが、飛び上がったシヴァの身体に吸い込まれていく。その背中に、天下統一の文字が白地で浮かび上がった。
指揮棒を振るっていた戦国武将もシヴァの肉体に吸い込まれると、突然、爆発的に加速した。紫色の仮面の男に向かって。
戦国武将とその軍勢の怨念をまとったシヴァの飛び蹴りが男を貫き、直後に爆発が起こった。
□□
赤い雪がふっていた。
闇の底が紅に染まっている。
赤い雪が地平線の彼方まで降り積もっていた。
薔薇の花弁のようにゆるやかに舞い落ちる赤い一片一片がたしかに雪だった。
シヴァが、ユキオを抱いて赤い雪原を歩いている。シヴァは普段着に戻っていて女の子を抱えるように軽々とユキオを抱いていた。ユキオはあまり女子と体重の変わらなかった大学時代の姿に戻っている。しかし、夢うつつのままで自分の変化には気づいていない。
シヴァと共に、地獄の底に降りていく。そんな予感がユキオの胸をさした。しかし不思議と心は安心しきっていた。
収まるべきところに収まった。そんなしっくりとくる感覚がユキオの心を覆う。
それは、末期癌の患者が、死の床につくときのような感覚に近かったかも知れない。
シヴァの体臭に嫌気が差すほどの郷愁をおぼえて、目尻に涙が滲んだ。
胸の中にぽっかりと空いていた空洞が、ゆっくり埋まっていくのをユキオは感じていた。
天国には、自分の安らげる場所は無かったのだと、ユキオはようやく気付いた。
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