縮む教室
教室から、クラスメートの席がひとつ消えた。
高校入学二日目の事だった。
入学初日。クラスの初顔合わせで、自己紹介のときにウケようとして失敗し、氷河期のような寒い空気を作り出したお調子者の席だった。
気のせいだと思った。そのお調子者の席が消えた分だけ教室が狭くなったように感じたのは。
入学早々にスベって、将来に悲観した挙げ句に自主退学でもしたのだろう。あの生徒は。
同じ高校に進学した幼馴染みのユカリと久しぶりに肩を並べて下校した。
川沿いの土手を歩いているときに、何となくあのお調子者の生徒を話題に出してみた。
ダレ、ソレ。
真顔でそう言うユカリに、一瞬、ボケてるのかと思って関西芸人のマネをしてツッコミを入れた。
「いや、いくらスベって初日で辞めたからって存在を無かった事にするの可哀相やろ!」
「なんで関西弁になるの?ってゆうかスベって初日で辞めたってなに?」
ユカリはお笑いに関心が薄い。綺麗な女特有の、ユーモアセンスの無さ。今も彼女は真面目な顔をしていた。冗談抜きで、覚えてないのだ、あの生徒の事を。
そのときはそういう事もあるか、と自分を納得させて軽く流した。ほんの微かな引っ掛かりを感じながらも。
入学式から2週間後に、新入生歓迎の意味も込めた球技大会が開催された。俺たちのクラスの男子は校庭でのサッカーに参加していた。
そこで、俺たちのクラスに得点のチャンスが訪れた。ゴール前でフリーの選手が出来て、そこにころころとゆるいゴロのパスが渡る。田巻というメガネの生徒はそのイージーなパスを盛大に空振りした。さらに、脚を蹴りあげ過ぎた反動で土煙を上げて転倒。グラウンド中が失笑に包まれる。
パスを出したサッカー部の生徒だけが真剣に怒ってメガネの生徒を口汚く罵っていた。
翌日、教室に行くとその生徒の席が消えていた。
そして、明らかに教室はその生徒の座席分だけ縮んでいた。
そのとき、初めて背筋が凍った。
あの田巻という生徒に昨日パスを出したサッカー部の大城に恐る恐る訊いてみた。
ダレソレ?
そう、なんの悪意も底意も感じられないさっぱりした顔で大城は聞き返してきた。
昨日、あれだけ怒り狂っていた相手を忘れるなんてあり得なくないか?心の中のもやもやが渦を巻きながら大きくなっていく。
失敗しない人間なんていない。
日々、教室や校庭では誰かが失敗する。
理科の授業中、スマホに保存してたエロ動画が急に流れ出して赤っ恥をかいた男子がいた。スマホがウイルスにでも感染してるのか止めようとしても動画が止まらない。
さんざんみんなに笑われて、『エロテロリスト』とかいう妙なあだ名まで付けられていた。
その生徒が翌日、消えている。
教室は狭くなっている。
あれだけインパクトのある失敗をしたヤツなのに、誰もその事に触れない。覚えていない。
国語の授業中、あまり名前の知られていない作家の文章を朗読させられた女生徒がいた。新庄という名前の、高専のロボコンにロボット側として出場しそうな体型の彼女は、数ページの短い朗読中に3回も4回も噛んだ。
翌日、彼女の席は教室から消えている。
教室はさらに狭くなっている。
放課後、担任の先生に思いきって自分の見たことを打ち明けてみた。学校に常駐しているカウンセラーの部屋にそのまま連れて行かれた。
呆れ顔と嘲笑を混ぜ合わせて『心配してます』という建前のベールで包んだような女性カウンセラーの表情を見て、正直に話せば精神病院に連れて行かれるという危機感を覚えた。
カウンセラーの奇妙に甘ったるい猫なで声が逆に不気味で、鳥肌がたってくる。
学校を休んでしまえば、この悪夢から解放されるんじゃないかと何度か考えた。だが、休みがちになっていた女生徒の席がある朝、消えているのを見て、その望みも消えた。
廊下を歩くのにも、細心の注意を払うようになった。
常に神経を尖らせ失敗の芽を事前に察知していく。以前は気にもかからなかった事に危険を感じるようになった。背後から近付く廊下を走り回る同級生の足音。スマホを眺めながら前方から歩いてくる女生徒。大股開きで廊下に座り込んで股間を晒している不良っぽい女子グループ。
後ろから突き飛ばされ顔面を強打する。
前方の女生徒と衝突して絡み合うように転倒し痴漢の烙印をおされる。
パンチラを凝視したまま窓から墜落して脊椎を損傷する。
それぞれのトラブルが頭に浮かび、俺はそれを未然に防ぐ。
後ろからの足音が通り抜けるまでバンザイしながら壁に貼り付き、スマホ女子が前方から来たら回れ右して同じ方向に歩き出し、パンチラ女子が廊下にいたら立ち止まって凝視する。
こうして、日々の失敗を華麗に避け続けた。
ユカリに、この事を伝えようかと何度も考えたが、悩んだ末に止めた。
天然なところがあるユカリは、失敗しまいと意識すればするほど失敗するのが目に見えていたから。
そもそも、この状況を周囲に伝えるという事そのものが失敗に分類される不安もある。クラスメートに、ひそかに伝える方法も考えてはいた。だが、教室でこれを話して、笑い者になった翌日には自分が消えるかも知れないのだ。
どんな事でも毎日それをやっていれば磨かれていくものなのかも知れない。
廊下が朝陽を浴びて妙な輝きかたをしていたり、体育倉庫の用具が奇妙に歪な積みかたをされていたり、上級生の番長的な生徒の頬がぴくぴくと痙攣していたり。
ほんのわずかなトラブルの兆候も感じ取れるようになった。
さわやかな笑顔のままそれらのトラブルに飛び込もうとするユカリをさりげなく保護する余裕さえ出てきた。
みるみるうちにクラスメートは減っていく。壁はもう、身体を思いっきり伸ばせば届きそうなくらいに縮まっている。
修学旅行が目前に迫った日、ついにクラスは俺とユカリの二人きりになった。物置きサイズの部屋に、黒板と教壇だけつけたような奇妙な教室。
そこにユカリと二人で肩を並べて教師の話を目の前で聴く。
中学のときに通っていた個人授業をウリにする塾のようなスタイルの授業。
よくあるデスゲーム系の小説のように、最後の一人になればこの奇妙な現象から抜け出せるのだろうか?
俺は、ユカリに最後の一人になって欲しいと願った。子供の頃から、ユカリが好きだった。幼馴染として以上の感情でユカリを想っていた。
だから、あえて失敗しようと思った。
林修に憧れて、仕種や口調を完コピしてる国語教師の授業中、俺は意図的に失敗しようと決意し、席を立ちかけた。
授業を途中退席するという大胆な行動に出れば、間違いなく俺は消失するだろう。
そのとき、狭い教室に美味しそうな匂いが充満している事に気づいた。
匂いの発生源を追って隣を見ると、頬っぺたに白い米粒をつけたユカリがこちらを見ていた。
「タコさんウインナー食べる?」
立てた教科書の陰に、ユカリのお弁当箱が広げられていた。
なぜ、この狭い教室で早弁をしている?ユカリ?
翌日、俺は教室で一人ぼっちになっていた。
トイレの個室のような狭い部屋に、教師は毎時間やって来て授業をしていく。
部屋は狭いのにチャイムの音量は変わらないのだから、休み時間が終わるたびに頭がキンキンする。
教師一人一人のお口のコンディションが毎日、はっきりと分かってしまう。
教師が質問をしてくるときは、当然だが100%俺に当たる。
お昼頃、一人ぼっちの教室で金属製の弁当箱を開いた瞬間、弁当箱の隙間にユカリの目があった。
弁当箱の隙間で、ユカリは目をしばたいた。
それから、教室の、ありとあらゆる隙間に、クラスメートの目を発見するようになった。
カーテンの隙間や、黒板の下のチョーク入れ、教壇の横に置かれた花瓶の、茎と茎の隙間。
俺は、隙間からクラスメートたちに見つめられながら学校生活を送っている。
たった一人なのに、校庭で体育のサッカーやソフトボールの授業があったりするが、それでもまだ俺には決定的な失敗が訪れてくれない。
数学の教科書の、ページとページの隙間にユカリの目が出現して、俺は手を止めた。
ユカリの目は、難解な数学の公式の間で涙ぐんでいた。
それを見て、涙がこみ上げた。
数学の教科書を開きながら涙をぽろぽろ流す自分の姿が窓に映っていた。
隙間の目が、一斉に笑んだ気がした。
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