さかな


夢。

縁日の夢だった。

闇のなか、ぼんやりとした灯りの屋台だけがぽつりぽつりと道のさきに浮かび上がっている。

すれ違う人々がぼんやり光ってるような気がして目をやると、その人の、浴衣の、女性器や男性器のあるあたりに、小さな銀河系が浮かんでいた。

一人一人、みんなが、下腹部のあたりにミニチュアの宇宙を抱えていたのだ。

ここは、神様が来る縁日なのか?それは起きたあとの解釈。夢のなかにいる自分は、それを自然な事として受け入れていた。

夢の中の曖昧模糊とした意識で、ぼんやりとした記憶しか残ってなかったけど、金魚すくいをした事だけは明確に覚えている。

そうして目を覚ますと、夢の中でとった金魚が窓辺の水鉢で泳いでいた。

ぼくは夢の中の縁日からさかなを持ち帰ってしまったのだ。

近づいてまじまじと見ると、それは金魚とは似ても似つかない白いさかなだった。

水鉢のなか可憐にゆらめく花びらのような尾ひれ。

不気味なので捨てようか躊躇しているうちに、出勤時間になり、夜になって帰ったら消えているんじゃないかと期待して帰宅するとそれはそのままそこにあった。

いや、正確に言うとそれはそのままではなかった。

その白いさかなは明らかに大きくなっていた。

水鉢の細くなった入り口よりも、どう見ても大きくなっていて、球体の胴体部分のなかで窮屈そうに身をよじっている。人間の、少女のような目をしていた。なぜそう感じたかは分からない。大きく、つぶらな瞳をしていて、その瞳に見つめられると胸が締め付けられた。池で、餌を求めて、水面に唇を丸く広げる鯉の口を見ていると、女の夜の口の形を思い出す。そんな奇妙な事を言う学友がいた。あるいは、これはそれに似た倒錯なのかも知れない。

軟式用の金属バットで慎重に水鉢を割って、昔、熱帯魚を入れていた水槽に移した。水底に散らばったガラスを拾うとき指先の皮膚が小さく切れた。傷の赤ん坊みたいに小さくほのかな傷口だった。それでも細く血が垂れる。

血が染んだ浅い水底で、心なしか白いさかなは悲しげな目をしている気がした。

窓辺から見える雲も、車窓から見える雲も、白く柔らかい印象のものを見るとすべて彼女を連想した。

だが、胸のなかで育んだ連想は家に帰ると破れさってこぼれた落ちた。

白いさかなは、水槽のなかで硝子にめり込んで身動きひとつとれなくなっていた。

急激に身体が膨張して、水槽のなかで身体が押し潰されそうになっている。

苦しげな切ない鳴き声が聴こえてきて、たまらない愛おしさが胸にこみ上げてきた。

彼女を、とりあえず浴槽に移動する。一抱えもある白い身体を浴槽に移すとき人間の女を抱いているという激しい錯覚に襲われた。浴槽に水が溜まって溢れるまで彼女を抱き締めていた。彼女は、澄んだ湖面のような瞳で僕を見ていた。

彼女が、浴槽にいられないほどのサイズに成長したとき、どこに移せばいいのだろう?と1日胸に悩んでいた。

家に帰ったとき、彼女は白いなめらかな肌を持つ美しい女に成長していて、全裸のままぼくの帰りを待っている。気がつくとぼくはまだ帰りの電車の中にいて、座ったままうたた寝していたようだ。目の前に立った女が激しく勃起したぼくの股間をせせら笑いながら見ていた。

電車を降りて、自分の住むアパートに近づくにつれて、町の空気が騒然としていく。嫌な予感が胸のなかで膨らんでいって、思わず早足になった。

馬鹿げた数のパトカーと、救急車と消防車がアパート周辺の通行を完全に塞き止めていた。

屈強な警察官が現場に近づくのを阻もうとしてくるが、住民です!住民です!と狂ったように連呼してようやく家の前まで近づく。ベルトを掴んで持ち上げてくる警察官がいて、思わず、一般市民に暴行するのか!とどこかの活動家のような事を口走ってしまった。

地形が変わっていて、一瞬降りる駅を間違えたのかとすら錯覚した。

自分の部屋があるべき場所にあるのは、瓦礫の山だった。自分でも情けないくらい虚脱感があった。背骨が一気に溶けたみたいだ。帰ると自分の部屋が無くなり、瓦礫と化している。それだけで人はここまで打ちのめされるのか。

すぐに白いさかなの事が頭をよぎった。あいつは、無事なのか。瓦礫の下敷きになって死んでしまったのか。額の裏側で、熱い湯を入れた水風船が凄いスピードで膨れ上がるような感覚で、涙が溢れ出すのをとどめようがなかった。

なぜ、これほどあのさかなに情が移っているのだろう。ぼくは知らないあいだにあのさかなと性交渉でも持ったのだろうか。

騒然とする現場を離れて、あてもなく歩いた。

気付くと、川べりに来ていた。

そこでぼくは奇妙なものを見た。

白いものが川の流れを塞き止めていた。

川幅いっぱいに横倒しになった彼女だった。

ぼくは駆け寄って、小山のように巨大になった彼女の魚体に抱きついた。

慈しみのこもった目で、彼女がこちらを見つめていた。

「お前だったんだな・・・・・・家、潰したの」

ごめんなさい、と言うように彼女は目を数回しばたたいた。

彼女に頬を擦り付けたまま眠りこけていた。気がつくとぼくは彼女の皮膚の一部になっていた。その身体の急激な成長に巻き込まれ、吸収合体してしまったのかも知れない。

白いさかなの身体が電車の線路に沿って町に横たわっていた。ちょうど一駅分の長さだった。ぼくはたしかに彼女の一部でありながら、上空から俯瞰で世界を見ることも出来た。上空で浮遊するぼくの意識を見つけた彼女の目が微笑んだ。

彼女の上空を1ダースか、それ以上のヘリコプターが飛んでいる。ドローンの数はさらに多い。彼女を観察する目は全国に広がっているだろう。いや、すでに世界にまで、か。白いさかなとそれを見つめる数億の瞳。彼女の肌を他の男たちの目に晒すのは、とても腹立たしかった。

彼女の身体が心配だった。これだけのスケールの身体。水中ならまだしも、陸に投げ出されている今、自重に耐えられずに内臓が破裂してしまうんじゃないかと思えた。

しかし、夕暮れの町に響いたのは彼女のうめきではなく、『うふふ』という愛らしい笑い声だった。

見ると、彼女のアーモンド型の目が笑んでいた。

ヘリコプターやドローンが飛び交う様子が面白いみたいだった。目が飛行物を楽しげに追っている。

彼女は物理法則を超越した存在なのかも知れない。

あの白いさかなは、ぼくの夢の中から連れてきてしまったなんて戯れ言、誰が信じると言うのか。

翌日、彼女のスケールはさらに上がり、その身体は東京郊外の四市をまたがっていた。数十キロのサイズをもつ白いさかなが日本の国土に寝転がっているというニュースはすでに世界中を駆け巡ってるだろう。

ついに日本政府も重い腰を上げ、日本の市街地で軍事攻撃に踏み切る決意を固めたようだ。

自衛隊の各種兵器が、彼女の周りを囲んでいる。

節分の豆みたいな気軽さで銃弾が浴びせられ、砲弾が炸裂した。彼女の急所を探っているのか、全身くまなく攻撃しているみたいだ。彼女は、くすぐったいのかキャッキャッと楽しげに笑って身をよじった。

その衝撃で、自衛隊の戦車部隊が8割がた壊滅し、攻撃ヘリは突風に煽られて墜落する。

痛快な気分を味わっている一方で、ぼくはこの後に起こるであろう事が不安で仕方なかった。

自衛隊のあとには間違いなく米軍が登場してくる。最新鋭兵器を装備した在日米軍が。

市街地への被害を考慮しない傍若無人な攻撃ぶりで、すぐに米軍だと分かった。

彼女の目ばかり狙った陰湿な戦術。だが、米軍のミサイルはいたずらに日本の街を破壊しただけで白いさかなの身体には傷ひとつ付かない。眼球にドローンの投下した爆弾が直撃しても、ややまばたきの回数が増えるぐらいの影響しかない。

明くる日、米軍基地が成長した彼女の身体の下敷きになった。

ずいぶん前から避難が開始されていたのだが、数百メートルの高さになった彼女の上から眺めると郊外の道路は詰まった血管そっくりに車で埋め尽くされていて、逃げるに逃げられない人々の姿が確認できた。

二個のきのこ雲が身体の頭部と尾部の辺りで立ち上がった。

麻痺した道路に取り残された人々は巻き添えだった。

彼女は沈黙したように見えた。熱核攻撃に耐えられる生物が地球上にいるはずがない。

東京は静かに燃えていた。

放射線が荒れ狂う空間とは思えない静けさで。

やがて黒い雨が降りだした。横たわったまま沈黙する彼女の体表を黒い雨が濡らしていく。

蒸発した池の底に生き物の焼け爛れた残骸が転がっている。黒い雨が、日本の火傷痕を濡らしていった。

東京を壊滅させた核攻撃は、結論から言うなら無意味だった。

彼女の身体は、核攻撃で活性化したようにその成長速度を飛躍的に高めた。

わずか一週間で日本列島をまるまる覆い尽くすサイズに成長した彼女は海に泳ぎだした。

彼女が海に浸水した影響で50メートルの巨大津波が発生し、朝鮮半島と中国沿岸部を完全に水没させて、内陸深くまで津波は押し寄せた。

韓国政府は日本に謝罪と賠償を要求してきたが、日本政府はすでにその機能を失っていたし、日本が受けた津波の被害は言うまでもなく韓国、中国のそれ以上だった。

地球の自転軸を歪めるような、巨大すぎる爆発が三度起こった。宇宙衛星からもはっきりと目視できるような爆発だった。

人類が初めて兵器として使用する水爆だった。

海は沸騰し、日本の国土は散りぢりに分解された。

禿げた岩肌だけが日本の名残だった。富士山は、標高が半分になった。どこかのタイミングで噴火したのかも知れないが白いさかなと水爆の衝撃がキツすぎて誰にも気づかれる事は無かった。

地球そのものを破壊してしまうと言われる水爆が3発。人類は多大な被害を受けたが、ようやく未曾有の危機を脱した。そう思えた。

が、水爆のもたらした放射能の嵐が収まったあとに姿を現したのは、白いさかなだった。

彼女の肌は、陽射しの下、純白に輝いていた。神々しいほどの白く美しい肌だった。

国連の多国籍軍による総攻撃も虚しく、三日後、悪意なき成長の結果として彼女は米本土を踏み潰した。

もはや白いさかなと言われても腑に落ちないサイズ感だった。

宇宙空間から地球を眺めると、途方もなく巨大な純白の宇宙空母が地球の4分の1程度を覆い尽くしてるように見える。

また、その方が本質に近かったかも知れない。

三日後、飛躍的な成長を遂げた彼女の身体に押しやられ地球はいくつかの塊に分解されると、飛散した。

奇跡の星の終焉だった。

彼女は、宇宙空間に一匹で取り残され寂しさのあまりに泣いていた。

彼女の中に入ったり、少し離れて浮遊したりしている意識体であるぼくには抱きしめてあげる事は出来なかったけど、絶えず話しかけて慰めていた。

この世界に彼女を持ち込んだぼくが悪いのであって、彼女は何も悪くないのだ。

地球時間で言うところの3時間後には彼女は太陽系を飲み込むサイズに成長した。今までは彼女なりに、成長速度を抑えていたのかも知れない。

歯止めが効かなくなったように彼女の身体は巨大化を始めた。ほとんど哲学的とさえ思える単位で。

那由多、不可思議、無量大数。知の巨人たちが想像力の中で膨らませた虚構的な数の単位。彼女の身体は、その単位を具現化していった。

空腹に耐えかねては、小魚のように銀河系を飲み込む。三十億個のブラックホールを枕にし、知らないうちに天国も地獄もヒレの先で潰した。

彼女の胃の中に発生した虚数空間ではビッグバンが二度起きたが、同じ規模の宇宙が毎日胃の中に送り込まれてくるので、宇宙同士の衝突に巻き込まれてその都度、消滅した。

ついに、彼女の存在は宇宙そのものと等価のサイズになってしまった。宇宙の果て。今も広がり続ける空間の外側には混沌があった。虚無の世界だった。

それでも、彼女の存在は拡大をとどめる事など出来ない。

この世の外側。空間の外側へと。成長を遂げた。

この世の圏外へ泳ぎだす事に、ぼくも激しい恐怖を覚えていた。


ちゃぽん。

そこは、縁日の金魚すくいの屋台だった。

ビニールシートの上、木の桶の中に泳ぐ小ぶりな魚たち。その中のひとつがぼくと彼女だった。

花火が打ち上げられ、空間を振動させた。水面の揺らめきに鮮やかな色彩が映った。


目を覚ました。

布団の中だった。

自分の匂いと体温が染み付いた布団に包まれている。朝だった。裸足が丈の足らない掛け布団から出ていて、冷えきっていた。

布団の中に、誰かいた。

布団をめくってみると、女だった。

白い、裸の女。

自分の胸元からこちらを見上げる全裸の女は、白くて、どこか魚っぽい顔立ちをしていた。

彼女は、堅くなったぼくのものを握っている。

どこかで、魚が跳ねる水の音がした気がした。

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