夢なら覚めて

そんな風に思った事が幾度となくある。それ自体が想定外で、そんな事は自分の人生では起こらないと思っていた。子どもの登園拒否から始まって、夫の失踪(これは以後数回繰り返されることになるが)、子どもの不登校、受験の失敗、退学、両親の発病・手術、夫の実家の騒動……と数え上げたら枚挙にいとまがない。我ながら驚く。とは言え、個人の受け止め方次第な部分もあって、私のような頭の固い杓子定規な人間にとってはそうなのかもしれない。そして、あまりにも頻繁にそういう“事件"(私にとっての)が起きるので、“事件“を起こした当事者達よりも私の方が悲劇のヒロイン宜しく深く深く沈んで他人の同情を引くような言動に走りがちになっていた。おそらくは勝手な思い込みで人の人生を脚色して"私が一番可哀想"とこれまた思い込んで生きていた。 
あれから数十年。未経験で未熟で未知で…"未"だらけの、"未"をまとって生きていた私は、今では少しだけ人の痛みを理解し寄り添うことができるようになった(つもり)、かもしれない(わからないけど)。
想像力の貧しさを埋めるのは経験しかなくて、その為には年を取る事が必要なんだと痛感する今日この頃。
「私」という人間のレベルに相応の出来事が用意されている人生なんだと。

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