「弥助は侍」と言うChatGPTを説得してみた
最近、ゲーム「アサシンクリード シャドウ」にまつわる話題がネットを日々賑やかしている。このゲームは日本の戦国時代を舞台としており、信長に仕えた黒人「弥助」を「侍」として主人公に据えているところから話題となっている。ゲームのことなので、そういうこともあろうと思っていたが、発売元のUBIsoftが「日本の史実に基づく」との趣旨の発言があったことで炎上しているようだ。我々日本人の常識からすると、どう考えても弥助が侍であったとするには無理がある。
昨今、弥助を侍とする漫画、ドラマや小説が世に出ており、日本人はそれをフィクションと考えて問題にしていなかった。ただ英語版Wikipediaでは日本人の知らぬ間に弥助を侍と記述していたそうだ。このような流れから国外では「弥助=侍」との誤解も広まっているようで、通称「アサクリ」と呼ばれるこのゲームが発端となって、様々な議論が巻き起こっている。
そこで、膨大な資料を読み込んでいるはずのChat GPTはどういう見解を持っているのかと興味が湧き、以下のような対話をしてみた。
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弥助(やすけ)は、日本の戦国時代に織田信長に仕えた黒人の侍として知られています。彼の詳細な史実は限られていますが、いくつかの重要な点が記録されています。
1. 出自と来日:
• 弥助はアフリカの出身で、モザンビークの出身とされることが多いです。しかし、具体的な出身地については議論があります。
• 1579年(天正7年)にイエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに同行して日本に来ました。
2. 信長との出会い:
• 1581年、弥助は織田信長と出会います。信長は彼の外見に興味を持ち、弥助を自分の家臣として迎えました。
3. 信長の家臣としての活動:
• 信長は弥助を重用し、しばしば側近として同行させました。弥助は信長の家臣団においても特別な存在であり、その存在感から注目を集めました。
4. 本能寺の変:
• 1582年、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀に討たれました。弥助もこの事件に巻き込まれましたが、明智光秀に捕らえられ、その後の消息は不明です。一説によれば、明智光秀は弥助を殺さず、宣教師たちに引き渡したとも言われています。
これが弥助に関する主要な史実です。彼の存在は、当時の日本における国際的な交流や、信長の多様性に対する寛容さを示す一例として注目されています。
弥助が侍であったという直接的な証拠は限られていますが、いくつかの史料や記録から彼が侍として扱われたと解釈される点があります。
1. 『信長公記』:
• 弥助の存在についての最も詳細な記録は、信長の家臣であった太田牛一が書いた『信長公記』にあります。この中で、弥助は信長の近くにいたことが記されています。信長が弥助を見て「体の色が普通の人と違う」と興味を持ち、その後、信長の側近として扱ったことが記録されています。
2. 信長の対応:
• 信長は弥助に特別な関心を示し、弥助を家臣として迎え入れたとされています。信長が弥助に自分の側近や護衛の役割を与えたことは、侍としての地位に近いものを示唆しています。
3. 武士の待遇:
• 弥助は信長に従って各地を転戦したと伝えられており、戦国時代の武士(侍)としての役割を果たした可能性があります。例えば、信長が弥助を鎧で武装させたことが記録されています。これは、弥助が武士としての訓練や役割を持っていたことを示唆しています。
4. 本能寺の変:
• 本能寺の変の際、弥助が信長と共に本能寺にいたことが記録されています。信長が明智光秀に討たれた後、弥助が光秀に捕らえられたことが記されています。光秀は弥助を「獣」として扱わず、宣教師たちに引き渡したとされ、これは彼が一定の尊敬を受けていたことを示唆しています。
弥助が鎧を着ていたことを明示的に示す一次資料は存在しません。しかし、彼が武士としての待遇を受けていた可能性があることから、鎧を着ていたと推測される点があります。以下は、その推測を支える主な記録です。
1. 『信長公記』:
• 弥助についての最も詳細な記録である『信長公記』には、彼が信長に仕えていたことが記されていますが、具体的に鎧を着ていたという記述はありません。ただし、信長が彼を側近として重用し、武士のような扱いを受けていたことが示されています。
2. ルイス・フロイスの記録:
• ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは、1581年に弥助が信長の前に現れたときの様子を記録しています。フロイスの記述によれば、弥助は「背が高く、力強い黒人」であり、信長が彼の肌の色を確認するために体を洗わせたというエピソードが記されています。しかし、鎧についての具体的な言及はありません。
3. 推測される理由:
• 弥助が信長の側近として戦場に同行していたこと、またその際に信長が彼を特別に扱っていたことから、武士としての役割を果たしていた可能性があります。戦国時代の武士が戦場で鎧を着用することは一般的であったため、弥助も同様の装備をしていたと推測されます。
一次資料に明示的な記述はないものの、弥助の特別な待遇と役割から、彼が鎧を着ていた可能性が高いと考えられています。
弥助が武士のような扱いを受けていたとされる一次資料としては、以下のものが挙げられます。
1. 『信長公記』:
• 太田牛一による『信長公記』には、弥助が織田信長に仕えていたことが記されています。この記録によると、弥助は1581年に信長に初めて会い、信長が彼に興味を持ち、その後側近として仕えさせたことが記されています。特に、弥助が信長の屋敷内に住んでいたことや、信長が彼を特別に待遇したことが記されています。
2. ルイス・フロイスの記録:
• イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスも、弥助に関する記録を残しています。フロイスの記録によれば、弥助は非常に力強く、信長が彼の肌の色を確かめるために体を洗わせたというエピソードがあります。このエピソードから、信長が弥助を特別視していたことがうかがえます。
これらの一次資料から、弥助が信長にとって特別な存在であり、ある程度の武士のような待遇を受けていたことがわかります。具体的に「武士」としての称号や役職が与えられていたという記述はありませんが、その役割や扱いから、武士としての地位に近い存在であったと解釈されます。
信長に仕えていたすべての者が侍であったというわけではありません。信長の家臣や従者にはさまざまな役割や地位があり、必ずしも全員が武士(侍)としての地位や役割を持っていたわけではありません。信長の周囲には、以下のような多様な人物がいました。
1. 武士(侍):
• 主に戦闘に参加し、軍事的な役割を果たす者たちです。領地を持ち、家臣団の中核を成していました。
2. 側近:
• 信長の近くで日常の世話をする者たちです。これには、武士だけでなく、医師、書記、茶人なども含まれます。
3. 奉行・行政官:
• 領地の管理や行政を担当する者たちです。これには、財務担当者や裁判官なども含まれます。
4. 従者・雑用係:
• 直接の戦闘や行政業務には関与せず、日常の雑用や裏方の仕事を担当する者たちです。
したがって、弥助が信長に仕えていたからといって、必ずしも侍であったとは限りません。ただし、弥助が信長の近くで特別な待遇を受けていたこと、そしてその役割が武士の側近としての性質を持っていた可能性が高いことは事実です。しかし、具体的な役職や地位についての詳細な記録がないため、彼が正式に「侍」としての地位を持っていたかどうかは確定的なことは言えません。
おっしゃる通り、一次資料に基づく限り、弥助が正式に侍としての地位を持っていたという証拠は乏しいです。以下の点を考慮すると、弥助が侍であったというのは可能性が低いと判断されます。
1. 苗字の欠如:
• 日本の戦国時代において、侍は通常、家名や苗字を持っていました。弥助に関する一次資料には、彼が苗字を持っていたという記述がありません。これは、彼が正式な侍としての地位を持っていなかったことを示唆します。
2. 『信長公記』の記述:
• 『信長公記』には、弥助が信長の側近として扱われたことが記されていますが、具体的に「侍」としての地位を与えられたという記述はありません。信長が彼に興味を持ち、側近として重用したという点は記録されていますが、それ以上の地位については記載がありません。
3. ルイス・フロイスの記述:
• ルイス・フロイスも、弥助が信長に仕えていたことを記録していますが、彼が侍としての地位を持っていたかどうかについては言及していません。フロイスの記述からは、弥助が信長にとって特異な存在であったことがわかりますが、侍としての正式な役職を持っていたことを示す情報はありません。
4. 信長の珍奇なものへの興味:
• 信長は珍しいものや異国の文化に対して強い興味を持っていたことが知られています。そのため、黒人である弥助が特別視されたというのは自然なことです。弥助が信長の側近や護衛として重用された理由の一つは、その珍しさであったと考えられます。
以上の点を踏まえると、一次資料に基づく限り、弥助が正式な侍の地位を持っていたとは考えにくいです。彼は信長にとって特別な存在であり、側近としての役割を果たしていた可能性は高いですが、正式な侍としての地位を与えられていたわけではないとする見方が妥当です。
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最初に史実を尋ねた時には「黒人の侍」との表記が出てきて驚いた。デフォルトで侍扱いをしている。その根拠も示そうとしているが、「一次資料」では出てくるはずもなく、最後には「正式な侍としての地位を与えられていたわけではないとする見方が妥当です。」なんとかChat GPTの説得に成功したようだ。
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