見出し画像

理想の自分

『そういう自分でありたい』という自分の願望が入ってしまう気がする。

Ricccoさんの記事から、そうだよなと、改めて自分を振り返った。

以前、本当にやりたいこと、自分の強みを見つけるために、ノートに自分の得意なことを書き出したことがある。いざ、考えてみると3つ程書き出せた。しかし、これらが本当に得意なことと言えるのか、自分のことながら自信が持てなかったのだ。どれもこれも、自分がこうありたいという理想像が半分以上、占めていた気がしたからだ。

『得意』という言葉を、他の人が持っていない秀でた、唯一無二のような意味だと解釈している。得意を口にするには、自慢できるような、それ相応の力(個性)を持っていなければならない。その考え方が、自信が持てない要因だ。『得意』=『達者(唯一無二)』ではないのに。

身近な人よりは少しばかり、僕は絵が上手いと思ってはいる。けれども、世の中には遥かに技量がある人ばかりで、得意と言葉にするには、自分はかけ離れた位置にいると、一方的に劣等感のようなものを感じている。
どれもこれも中途半端な技量で、得意なものは一つもないと卑下する癖がついてしまっている。

最近、本郷奏多さんが『僕は、物とか作るのが得意だから」と何かでおっしゃていた。得意だと自分で口にするのかという驚きを感じた。本郷さんのYouTubeを見ると物作りが好きで、やりたいことを思うがままに、楽しんでいる印象を受ける。本郷さんのように人生楽しめれば、自分で得意と言えるようになる日が来るのだろうか。
そう感じると『得意』と言える判断基準として、本郷さんの生き方を基準に考えてしまう。同じようになった時、得意と言える権利を得るような気がして。

『そういう自分でありたい』という自分の願望は、大切な気持ちの表れのようにも感じる。そんなふうに、ポジティブに考えようともする浮き沈みの激しい自分を度々、嫌に思いもする。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?