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命との距離感

※少しセンシティブ(グロテスク)な表現があります。

蛙を踏み潰した。

車の左後輪の前側に、手足を大きく広げた仰向けの状態で蛙が横たわっていた。
場所から見るに、車で轢いてしまったことは明らかだ。
意図的ではないにせよ轢いてしまったという不快感と同時に、蛙が車に轢かれる瞬間を想像した。
中学生の頃、同級生の男子生徒が悪ふざけで生きた蛙を壁に投げつけ遊んでいた。腹は裂け内臓が飛び出し、血によって蛙は壁に張りついていた。その悲惨な光景を今でも覚えていて、その行為が理解できず、どうしてこんなやつらの方が、世の中をうまく生きていけるのだろうかと不快に感じていたことも同時に思い出した。

こんなことを想像してしまう自分がよくわからない。

すでに命を落とした死体としての姿と命を落とす生死の間際とでは、感じるものは違う。

命が途絶える瞬間というものに、恐怖心があるのだと思う。それに対して何かと自分と重ねてしまうし、死ぬときは呆気ないから。
命の話で、呆気ないという言葉は適切な表現ではなけれど、それほど死は前触れがない。

牛や豚といった日常的に食している生き物のドキュメンタリーを見ていると、生死と向き合うことを蔑ろにしてはいないかと度々思う。
そして、真摯に向き合えているかと問われると肯定できない。命に関して達観しているところはあるし、生活の中で向き合い続ける課題ではある。
だから、向き合うには無知ではいられないし、経験や好奇心から見聞を広めていくことを怠ってはいけないとも思う。
何事に対しても無知ではいたくない。



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