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子どもと外で遊ぶのをやめたら。


「若いうちは子どもと遊んで関係性を作った方がいいよ。」

大学を卒業しすぐに採用され小学校の先生になったわたし。そのとき、周りの先生方に何度もそう言われたか、分からない。


ちなみにこの場合、遊ぶ=校庭での外遊びを指す。

一緒に遊ぶことで、子どもたち同士の関係が見えてくる。
一緒に遊ぶことで、子どもたちに好かれ、信頼関係に繋がる。

子どもと外で一緒に遊ぶことのメリットは、理解してはいる。
現に、昼休みに運動場で子どもたちと遊ぶ若手の先生は多かった。

しかし実を言うと、わたしはこれが嫌で仕方がなかった。

小学生の外遊びといえば、ドッチボールか鬼ごっこがほとんど。
そして、コートを引いたり、チーム分けといった準備の必要なドッチボールより、鬼ごっこが多くなる。

鬼ごっこといえば、みんな先生に追いかけられたがるので、わたしを狙いうち。
やっとタッチして鬼が変わっても集中砲火を浴び、また鬼。
疲れてきて、走るスピードを緩めたいけれど、「早く捕まえてよ〜。」と言いたげに子どもたちはわざとわたしの近くで逃げる。
ようやくタッチすると、また追いかけられる。
暑い日も寒い日も日光の元、昼休みの間20分間、エンドレスにこれが続く。


そんなに走るのも速くない上に、走ること自体が大して好きではない。
思えば、わたしは小学生の頃も運動場での鬼ごっこは好きじゃなかった。

「楽しかった〜。」とうれしそうな子どもたちの姿を見たくないわけじゃない。

食後の昼休みに太陽の下、走り続けなければならない。それがただただ、しんどいのだ。

そしてしんどいのは体力的なものだけではなかった。

ああ、20分の昼休みでさっき集めた国語ノートチェックが、出来たのにな。
さっきのテストの採点、放課後かなあ。

20分という短くとも貴重な時間を外に出ることに費やすことで、放課後の仕事量の負担が頭をかすめてしまう。

さらに加えてもう一つ。

先ほど一緒に遊んだ子どもたちが、手を出した出さないとかのトラブルやわたしへの反抗などがあると、内心ちらりとよぎってしまうのだ。

「折角、遊んであげたのに。」と。


別に子どもと身体を動かして遊んだからといって、すぐさまそれがその子自身の心の安定に繋がるわけじゃないし、信頼関係も出来るわけじゃない。

頭で分かってはいてもそう思ってしまう自分が小さくて、なんだか嫌だった。

子どもたちの「遊ぼう〜!」との誘いに笑顔で応じる裏で内心ため息をついている、そんな気持ちがいつか子どもたちに伝わるんじゃないか。

子どもとの外遊びは、そんな風に思っていてもしなきゃいけない若手の先生の義務なのか。
そこまでして、子どもとの外遊びは大切なものなんだろうか。

渦巻くもやもやが決定的になったのは、とある5時間目の道徳の時間のときのことだった。

その日も気温が高い中、いつものように子どもたちと鬼ごっこをしていた。なんだか、いつもよりしんどいな…なんて思いつつ、子どもたちとたわいもない話をしながら、教室に戻る。

道徳の教科書の教材文を範読し、子どもに考えさせたい問いを投げかけようとしたときだった。

ふいに、ちかちかと白くなる目の前。
あ、これが立ちくらみというやつか、と思った瞬間、黒板の大部分が白く染まり、チョークで文字を書くことが困難になった。

しかし、ここでしゃがみこんだりしてしまっては、子どもたちは何事かとびっくりするだろう。

「じゃあ○○について、班で話し合ってみて。」
とその場で適当な指示を出し、冷や汗をかきながら教卓に両手をついて深呼吸し、なんとかその場をやり過ごす。

しばらくそうしていると、白く塗られた景色は徐々に霧が晴れるように、元の世界に戻った。

しかし、そうやって続きを行った授業は、こちらの指示も問いの繋がりもなんだかちぐはぐで、子どもの反応もいまいち。
その日の道徳の授業は、何ともお粗末に終わった。

折角、授業の内容、昨日の夜遅くまで考えたのに。
昼休み、思いっきり走らなかったらこんな風に立ちくらみを起こさなかったはず…。

年間、道徳の時間は35回あるとはいえ、この教材で子どもたちが学べるのは、今日このたった1回。
わたしが原因でつまらない授業にしてしまったことが、すごくすごく悔しかった。

子どもたちと外で遊ばなくては、彼らの人間関係が掴めないのか?
子どもたちと外で遊ばなくては、彼らとの信頼関係を結べないのか?

ー否、そうじゃないはず。
わたしは、わたしのやり方で子どもたちの様子を把握して、関係性を築きたい。


決めた。
特別なときを除いて、わたしは昼休みに子どもたちと外遊びするのをやめよう。


しかしそうは決めても、他の若手の先生たちが、たくさん走って子どもたちと遊んでいるのを見かけるたび、しなきゃいけないことの一つをサボってるような気持ちがして、ちくちくと胸が痛んだ。

また、「なんで碧魚先生は、昼休みに外で子どもたちと遊んであげないんだろう。」
と周りの先生たちに思われているようで、しばらく引け目も感じていたのも事実だ。

しかし、昼休みに外に遊びに行かない代わりに、二つ自分に課したことがある。

まず一つ目。
一緒に遊んでいなくても、子どもたちは今誰と仲が良いのか、どんな遊び方をしているのか、把握しようと努めること。


昼休みの後、不満顔、悲しそうな顔をして教室に帰ってくる子はいないか注意深く表情を観察する。
休み時間中、トラブルや喧嘩が起これば何が原因だったのか、次はどうすれば良いか、子どもたちの言葉で考えさせる。

「そういえば、今日は何して遊んだの?」
と昼休みのことを話題にすることもあった。

そしてたまに、窓から
「お〜○○めちゃくちゃ足速いな〜。」とか
「うわ!○○転けた!大丈夫かなあ。」など
彼らの様子を見つつ、あえて実況中継する。

すると教室で遊んでいた子たちも、わたしの側に寄って一緒にわいわい言いながら見る。
そうすると、一緒に遊んでいなくても
「○○、増え鬼で最後まで残ってて、すごかったなー!」
なんて言われれば、
「え、なんで知ってんの〜?」
と言いつつうれしそうな顔。

ああ、そっか。
わたしが一緒に遊ばなくても、子どもたち同士が楽しく遊べるように見守れる存在であれば良いんだと気付くことが出来た。

そして二つ目。一緒に身体を動かしてのコミュニケーションが出来ないなら、わたしはわたしなりの強みを活かすこと。

楽しんで学びに向かえる子が、増えて欲しい。そう考え、授業の中での子どもたちのやり取りを増やした。

それは授業中、直接褒めることもあれば、その子がノートに書き表したことに対して、
「しっかり考えられているね。」
「そんなことにまで気づけるなんてすごい!」など、コメントを書くこともあった。
時には、その子が好きなキャラクターやオリジナルのイラストを添えて。

わたしは、子どもたちの理解度や考えが知れるノートチェックや絵や字を書くことが好きなので、その仕事に特に何の苦も感じなかった。

また、昼休みにノートをチェックし終えて子どもたちに返すことで、子どもたちはさっき自分が書いたことのフィードバックをすぐに得ることが出来る。

休み時間、教室に帰った子どもたちが席に着くなり、机の上に置かれたノートを開いて、

「うわ、炭治郎おる!」
「いえーい!スペシャル判子、ゲット!」
など、反応している姿を見るのも楽しい。
 

これは昼休み、一緒に子どもたちと運動場に出ていては出来ないことだ。



日々、目の前にはたくさんの選択肢という名の分かれ道が現れる。

どちらを選んでも、自分の生き方やポリシーを左右しないような些細な道もあるし、あのときこっちを選んだから…と人生のターニングポイントになるような重要な道もある。

それが、心ときめく花咲く道のときもあるし、歯を食いしばって歩く茨の道を選ばなければならないときもある。

人生において何かを選ぶと言えば、
「これにチャレンジしよう。」
「習慣に取り入れよう。」
「やってみよう。」
といったように、今より+αの何かを手にし、取り入れるイメージが強い。

しかし、選ぶものがある一方、選ばないものが出てくるのも自然なことだ。


しかし、今回のわたしのように選ばなかった道が、周りから選んで当たり前だとされるときには、肩身が狭い思いもするし、これで良かったのか、と自問自答することもある。


なぜ、その道を歩くのを辞めるのか。
辞めて選んだ先には、何があるのか。


悩んで出したその道を選ばない、という選択。
それもまた一つ、価値ある選択なのだとわたしは信じている。


あの日から、昼休みに子どもたちと外で遊ぶのをやめたわたし。
周りの先生の目を気にしていたけれど、特に何も言われなかったし、子どもたちと外遊びをしなかったからといって、それがマイナスに働くことはなかった。

それどころか、わたしが先生として大事にしたいことはなんだろう、
何に力を入れたいんだろうと考える一つの大きな一つのきっかけになった。

ときに周りが選んでいても、選ばない勇気を持つことの大切さ。

「昼休みに外で遊ばない」そんな選択がわたしに教えてくれたことである。


#エッセイ  



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