スプーン一杯の記憶、あの日食べた蜂蜜。
「これは、特別な蜂蜜やからな。」
そう言って遠い親戚の叔父さんは、わたしにスプーン一杯分だけの蜂蜜を差し出した。
まだ小学生になって間もないわたしと祖母で田舎の曽祖母の家に泊まりがけで訪れていたときのことだ。
とろりと重量感のある蜂蜜。普段食べていた蜂蜜よりもずっとずっと甘い、濃厚な一口。
口の中から消えてもなおその存在感を放ち続けていることに、幼いわたしは衝撃を受けた。
「もうちょっとだけ、食べたい。」
そうねだったが、
「これは小学生にはまだ早い蜂蜜なんや。」
そう言って、叔父さんはもう瓶の蓋を開けようとはしなかった。聞けば近所の養蜂場からもらった、採れたての蜂蜜なんだと言う。
今思うと、1歳未満の乳幼児に蜂蜜を与えると乳児ボツリヌス症を発症する恐れがあることから、小学生とはいえ幼い子どもに生の蜂蜜をあげるのはあまり良くないと彼は判断したのだろう。
しかし、もちろん当時そんなことを知らなかったわたし。
きっとおじさんはあの蜂蜜を独り占めしたいから、くれないんだろうなあ、とうらめしく思っていた。
****
パンにはバターと蜂蜜。
ヨーグルトに入れるのも蜂蜜。
喉が痛いときにも蜂蜜。
実家では蜂蜜の瓶が常備されており、身近にあって当たり前の存在だった。
社会人になり実家を出て一人暮らしを始めたときには、蜂蜜はわざわざ買わなければいけないものとなる。
しかし一人では、なかなか食べきれないので買うこともなくなり、蜂蜜とは少し疎遠になってしまった。
そんなときだった、旅行先で入った蜂蜜専門店で様々な花の種類の蜂蜜を見かけたのは。
食べ比べをさせてもらい、一口に蜂蜜と言っても花や産地によって随分甘さの種類が違うことを知った。微妙に異なる黄金色を目でも味わいながら、そういえばかつてとても美味しい蜂蜜を食べたことがあると思い出したのだ。
記憶とは不思議なものだ。
20年以上思い出さなかったのに、突然あの日の蜂蜜の味と驚きがぶわりと鮮明に蘇ってきた。スプーン一杯だけだったからこそ、より記憶に刻まれていたのかもしれない。
あの蜂蜜は何の蜂蜜だったんだろう。
聞いておけば良かったが、もう曽祖母もいなくなってあの家を訪れることもなくなった。
あの叔父さん、元気にしているだろうか。
あの蜂蜜との再会を求めて、旅行先で蜂蜜を見かけるたびにどこのだろう、何の蜂蜜だろう、と貼られたラベルをまじまじと見つめてしまう癖は、この先しばらく治りそうにない。