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「悪の凡庸さを問い直す」


 これは出た時から読みたかった本。「悪の凡庸さを問い直す」。これは有名なアイヒマンに対するハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」という言葉から来たものだけれども、一般の解釈は少し違うと聞いて気になっていた。
 「悪の凡庸さ」とは広く知られている言葉ではないだろうか。果たしてそれが、アーレントがどういう意味で使っていたのかは、あまりよく分かっていない気がする。

 今、定着している解釈は以下のものかと思う。これは1999〜2002年ごろに盛り上がったものらしい。

特段歪んだ思想や強い憎しみを抱いているわけでもないごく普通の人間でも、自ら考えることを停止し、上から言われるがまま命令に従えば、巨大な悪を成し遂げてしまうことがある。

 少し前からこの解釈は違う、という話は聞いてはいたのだけれど、何が違っていて本当はどうなのかを、知りたく手に取った。とてもエキサイティングな本だと思うし、面白い本。とりあえず「エルサレムのアイヒマン」は既読。

 5月24日に「関心領域」という映画が公開される。私も見に行くつもり。ここでまた一般的に信じられている「悪の凡庸さ」が話題になるのでは、と田野先生は呟いていたように記憶している。だから映画観る前にこの本を読まねばと思っていた。この本の編著をご担当されている田野先生のX(旧Twitter)、かなり面白いのでおすすめです。
 気になったところをいくつか。

アーレントとホロコースト研究者の見解の対立は、法則定立的な政治学と個性記述的な歴史学の基本的方向性の違いを反映している面がある。これは1970年代以降のナチズム研究を期待してきた原理的対立、つまりホロコーストの決定要因をナチ体制内部の権力構造に見る「機能派」と、それをヒトラーらナチ指導部の世界観やイデオロギーに見る意図派の対立とも関連している。

p57

 アイヒマンを「組織の歯車」として免罪してはならず、「政治において服従と支持は同じもの」と捉えなければならない(「政治とは子供の遊び場でない」!)というのが、「エルサレムのアイヒマン」の結論であった。

p99,100

 アイヒマンのもつ「凡庸さ」は、彼が「ありふれた/平凡な」存在であること意味するものではない。むしろその「凡庸さ」は、アイヒマンが「よくいるcommon」存在でないことを意味するのであって、彼の特異さを際立たせるために用いられている用語であった。かように、「凡庸 banal」という表現に「ありふれた/平凡な」とは異なる独特の意味合いをもたせているところに、アーレントの議論が誤解されやすいもう一つの要因がある。

p.100


アイヒマンのさまざまな記録をもとに、現在まで、歴史研究的にどう変わってきたか、哲学的に「悪の凡庸さ」をどう捉えていくか、というのが歴史学者の視点、思想哲学研究者がそれぞれの立場から細かく記されていてとても面白い。
 こうして論を作っていくのだな、と漠然と。

 最後の小野寺拓也先生、香月恵理先生、矢野久美子先生、百木漠先生、三浦隆宏先生、田野大輔先生の対話が興味深いし、とてもエキサイティングだ。対話で議論を深めるってこういう事なのか、というのも見える。対話型の本って不得意なものもあるけれど、これは本当に勉強になったというか。
 なかでも、主体性とエージェンシー(行為主体性)の議論は面白かった。

 いえ、主体性と呼ぶべきかどうかは検討すべきところで、主体性とは明確な自律した意志や動機にもとづくものであるべきだという規範的な定義があるのだとすると、主体性とは呼べないのかもしれません。けれども、少なくともエージェンシー(行為主体性)ではあると思うんですよね。官僚たちは組織のなかで、権限などの制約を受けつつも、自分の使えるリソースを使って力を発揮して出世していくのですから、エージェンシーとは言えるだろうと思うんです。

p.161

 あとは、「忖度」という私が日本的だと思っていたものが、この時にも作用したのではないか、という話も出てきて、「忖度」は組織のなかでは生まれてきてしまうものなのかなと。

 現代社会においては罪とか責任とか主体といったハードな概念が強く忌避される傾向があるように感じていまして、誰も悪くないとか、ヒトラーは実は優しい人だっとか、ナチスは良いこともしたといった、ライトな歴史修正主義の傾向が強まっています。過去の人に責任を求めて罪を追求する言説を嫌うというか、人それぞれに正義があるといったような、ある種の価値相対主義が蔓延しているのは、私も肌で感じています。そういう時に「悪の凡庸さ」という言葉が今後も利用されていいのかということについては、危惧を覚える面があります。

p.185

 「悪の凡庸さ」ではなく、「悪の浅薄さ」の方がいいのでは、という議論もありここもまた面白い。

 言葉を正確に正しく使う、その正しさとはどこから見てなのか、言葉たらずと言っても良さそうなアーレントの「悪の凡庸さ」を、それぞれの立場から解きほぐし、それぞれが出す意見や考え根拠みたいなものが、ぶつかり合うという感じでもなく、淡々と提示されてそれについて穏やかに誠実に話し合う。大人としてとるへぎ対話の姿も見たような気がした。

 最後のブックガイドと映画の紹介もあって良い。この本、とても良かった。

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