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「見えないものを探す旅 旅と能と古典」

 最近はどうにも調子が悪く、なんとも居づらい。家にいるのに帰りたい、みたいな気分だ。(確かそんな本があった)
 その割にぼんやりしていて、道の車止めにぶつかって転んで怪我をしたり、どうにもままならない事が多い。仕事を再開し始めたこともあって、どうにも居心地の悪い日々が続いている。

近頃はあまり本を読めないのだけれど、ぼちぼちと読んだものを。

「見えないものを探す旅 旅と能と古典」安田登
https://www.akishobo.com/book/detail.html?id=1006

恥ずかしながら能のことは全く無知であるので、この本の良さを半分も理解できていないかもしれないが、能という視点を得て、世の中を新しい視点で豊かに眺めることができるというのは、少し視界が開けたような気持ちになる。

この本で印象に残ったものを。

<事実としての存在>はそこにはないが、しかし厳然とそこにある存在、それを「非在」と呼ぶことにしよう。
縹渺たる風景の向こうに、幻としての強烈な存在をあらしめる「非在」の手法。否定されることによってそれは現実として「なくなる」のだが、しかし私たちの中に隠されている「もう一つの意識」によって、それは「あった」ときよりもむしろしっかりと認識されることになる。
組織から追い出され、物語を失ったとき、今まで確固たるものだと思っていた叙事的世界が、カラカラと崩れ、極めて不安定なものだとうことを思い知る。だからこそ、歌を謡う。歌は叙情(抒情)的世界に属する。韻文的な世界だ。彼の生は散文的世界から韻文的世界へと移行する。叙情的世界は、表層的には不安定でありながら、しかしその根底が真理につながっているがゆえに実は強固な真理世界なのである。

 私は病気になって元の物語が壊れてしまって、今、新しい物語を探している割に、元の物語を失うことをいまだに恐れていて、漂泊することも恐れている状態のような気がする。これに拘るからこそ苦しいのかもしれないけれど、私は変にまだ元の物語にしがみつけているところがあるので、思い切って手を離すべきなのではないか、とも思う。そう簡単ではないけれど。 
 やはり戻るべきではなかったと、戻る前からずっとどこかで思っている。
 新しい物語が、良いとは限らない、ということもある。でもその時はまた新しい物語を探せばいい、ということもわかっているが、根なし草のなんとも中途半端で、拠り所のない状況に耐えられるのだろうか。
 こういうのがネガティヴケイパビリティーというまのなのだろうか。
 散文世界から韻文世界へとはどういうことなのだろうか。とりあえず、伊勢物語でも読んでみようか。

「あはひ」というのは「あいだ(間)」とは違う。(中略)それに対して「あはひ」は「会ふ(会う)」を語源として、ふたつのものの重なっている部分をいう。

古くは、「うち」と「なか」の区別があったという。家の中は「うち」、縁側は「なか」である。「うち」まで入ることができるのは「みうち」だけだが、に「なかま」であれば「なか」である縁側まで入ることができる。「なか」である縁側は自他の境界が曖昧は「あはひ」の空間だ。

 仕事を再開し始めて、自他境界というか、うちと外、なか、という感覚はとても理解できる。自分はなかの扱いがどうにも下手らしいのだけれど、うちとなかは違う、うちには入れないぞ、ということでなんとなく防御できるところもあるのかも、など思った。

本を読んでも心穏やかに受け取れるように戻るといい。


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