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映画「関心領域」

「関心領域」前から観たいと思っていたのに、公開タイミングの5月が体調が悪く行けていなかった。もう逃してしまったな、と思っていたら、ロングランでまだやっていた(8月半ば)ので、観に行ってきた。

 アカデミー賞音響賞をとっているだけあって、音の演出がとても良かったです。劇場という空間は音が良いので、より味わえたかと。

 アウシュビッツビルケナウ収容所の隣に住む収容所長の一家の日常を描いた淡々とした映像が流れ、特に解説なし。一家の微笑ましいような日常生活の中にアウシュビッツから聞こえる銃声や奇声、犬の追い立てるような声などが聞こえたり、死体を焼く煙と思わしきものが見えるのが、とても不穏。

 人はどのような環境にも慣れることができ、自分の生活を守るために、あえて見て見ぬ振りをする事があるのだな、と。これらの音や煙が見えていない訳ではないと思うのだ。
 会話の端々からも、自分たちが何をやっているのか、どういう状況のもとに生活が成り立っているのかを理解はしている様子が垣間見られる。
 こう書くとこの映画の登場人物が異常に見えるのだけど、いや、異常なのだけれど、私個人にそういうところがないか、と言えば否定できない。人間のエゴを軽く見てはいけないな、と。

 無関心である、見て見ぬ振りをする事は最終的に自分の首を絞めることになるのではなかろうか、とふと思った。
 自分に宛てたものでなくとも、理不尽には立ち向かえるような強さがなければ、流されて消極的とはいえ、加害する側になるのではと。

 映画の中で暗視カメラのようなもので撮影された収容者のために食糧を置いたりしている少女が映像的にも対比的に描かれてた。とても勇気ある行動を1人の少女が命の危険を冒してまで行う。行動できる人とできない人の違いはなんだろうか。

 この映画も何か決着がつくとか、そういうものではない。ラスト近くで現代の映像が流れるのだけれど、それもまた淡々としている。
 説明もなく、セリフも多くもなく、流れていくシーンと時間、そして音が、全てを物語るような、良い映画でした。

 ふと、フランクルの「夜と霧」、プリーモ・レーヴィの「溺れるものと救われるもの」(これは昔「これが人間か」ではなかったか?)を思い出した。特にプリーモ・レーヴィの本の方では同じユダヤ人同士でも他者の生存に対する無関心などが描かれており、壮絶だった。
 塀の中の物語と塀の外の物語両方を考えた。

 もしサブスクなどで家で観るのであれば、静かなところで、ぜひ耳をすまして、観て欲しい映画です。

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