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「「むなしさ」の味わい方」

 きたやまおさむ著「「むなしさ」の味わい方」。これも出た時から気になっていました。「むなしさ」って味わうものなのだろうか?

 「むなしさ」とは何なのか。「むなしさ」はどのように生まれるのか。
 発達過程を元にどのように「むなしさ」は湧いてくるのか、と言うことを解説されていて、分かりやすい。ウィニコット的な感じかと思う。
 自他の分離や、対象喪失、期待が裏切られたりすることで生まれる「間」や空虚から「むなしさ」が生まれるというのが簡単にまとめた感じだろうか。

 分かったような、そうでないような。本当にこれでしのげるのかな、と思ったり、心に無限のスペースって本当にあるの?と思ったりはしたのです。個人的には、もう心のスペースに何も置けなくなって、溢れかえったような気もしていたので。
 いくつか気になったところを。

 いずれにしても、「喪失」を喪失した時代に生きる私たちは、移行期の「間」に耐えるのが苦手であること、そして「間」は容易に「魔」になってしまうということをここで改めて確認しておきます。

p.104

逆の見方をすれば、急な幻滅による悲劇的な展開を回避する、あるいはこなすためには、時間をかけることが必要なのです。なんらかの移行対象や、次の希望や夢を自分で見つけて、移行期という時間をかけることで、目の前で起きた幻滅を自分の中でうまく橋渡ししていく。

p.110

「むなしさ」というものも、決してはっきりとさせることができず、割り切ることのできないものです。そうしたものを存在してはいけないもの、恐ろしいものとして否定して、ひたすら埋めよとするのではなく、心のスペースに置いておく。しかも心には無限のスペースがあるので、むなしいという感覚も、そこに置いておくことができるのです。

p.151〜152

 時間をかけて「間」にじっくり立ち続ける。そのことで、「間」から生じてくる「むなしさ」を味わい、そこに漂うモヤモヤをぼんやり眺めてみる。その空間と時間は、白か黒かを早急に決めたがる心に余裕を与え、また、自分が身を置いている不分明な世界を体験して、人との関係性、そして自分自身に奥行きをもたらし、器としての幅を与えてくれるでしょう。

p.152

 「むなしさ」が、文化や芸術につながっているということは、納得。

 ゆっくり、ゆったり、ゆとり、よゆう(余裕)ゆうぎ(遊戯)、ゆるす(許す・赦す)・・・・。心理的な解放感をもたらす日本語には「ゆ」という音が共通している場合が少なくありません。

p.172

 この他にも日本語の音に注目することがいくつか出てきて、この視点はなかったけれど、確かに音というのはあるなぁ、と思った。ここから「湯」の話が出てくるのですが、私は湯につかると、疲れが一気に感じられてフラフラになってしまい、温泉などはいったらぶっ倒れてしまうので、お風呂でくつろぐのは難しいかも。

また「むなしさ」を感じるということは、心の全過程を実感できているということでもあります。心のある一部ではなく、「わたし」は上部と下部、陸生と水生の両方を「わたして」、その全体を体験しているのです。
(中略)
 しかし、全過程を渡りゆきながら、「むなしさ」を感じている「私」がそこにはいるのです。

p.173〜174

 この引用だけでは、上部?下部?水生?陸生?となるかと思うが。。
 水生、陸生は、心の成長過程にある、自他の分離のところで、日本人はこの間の移行期間が長く、両生類の時代が長い、という比喩があったりした。人は、白黒ではなくその間の両方を生きつ戻りつつ、陸と水を行ったり来たり、両生類だったりしながら生きているもの、ということなのかなと。ちょっと
 上部と下部に関しては、フロイトの考え方の意識(上部)と無意識(下部)のことかと。それらはバラバラではなく地続きである。

 なんとなくラストで、フランクルを思い出した。人生の意味を問うのではなく、人生に問われ続けているのだ、というような一説が確か「夜と霧」にあった。このことを思い出した。
 「むなしさ」に苦しむよりもそのむなしさを感じることこそ、「私」がここにいるということだ、ということなのだろうか。
 「夜と霧」を読んだ時に、その結末にいたく感動したのだけれど、今回はそうでもなかった。

 ちょっともやもやが残りつつ、また読んだら理解できるのだろうか。とりあえず最後まで読めて良かった。
 むなしさの味わい方、、というだけあって、すっきりとはしない。

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