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「おいしいごはんが食べられますように」

 最近夜はオーディブルばかり聴いている。いまは、また本を読むのが少し難しいので、助かる。そして、普段あまり手に取らない(図書館でものすごい待ちだったり、ブックオフでベストセラーと山積みされている本を見ると、どんどん後回しにしてしまう)ものを聞いている。
 今、売れている本には今売れるだけの理由があるのだと思うし、そういうものが気になったら、気にならなかったり。

 「コンビニ人間」はすごかった。コンビニを舞台にこういう話の展開ができるのだな、こんなにも今を捉えられるのだな、と思うと、ちょっと震える。また大久保佳代子さんの淡々とした朗読も良かった。不気味といえば不気味なのかもしれない。程度の差はあれ皆が心の中にどこか持ってるものでもあるような、適応する、社会って、みたいなとこがドンっと突きつけられる。あなたは、自分が普通だって言えるのか?普通ってなんですか?

 さて、「おいしいごはんが食べられますように」。これはキャッチコピーにあるように不穏。タイトルからはほのぼのしたようなものが浮かぶけれど、読みながらこれは一種のホラーみたいだと思った。
 それと同時に今の自分の立場を考えると、少し胸が痛む。
 誰もが守りたくなるか弱い感じの芦川さんと、仕事ができて頑張り屋の押尾さん。うまく立ち回る二谷さん。
 芦川さんは色々配慮されてて皆が残業でも定時で帰ったり、早退したり。それに少し不満げな押尾さん。芦川さんがお詫びのつもりか、職場に手作りのお菓子を持ってくるようになる。 
 二谷さんは芦川さんと付き合っていたりするけど、時々押尾さんともご飯に行く。
 なかなかあらすじを書くって難しい。

 おいしいものを食べるためにわざわざ遠方まで出かけたり、おいしいものを食べることに情熱を燃やす。なんとなく昔は当たり前のように、美味しいものを食べたい、と思っていた。
 何か大きな仕事が終わったり、ストレスがかかったりすると、よく「何か美味しいものでも食べて」とか言われる。

 今もできれば美味しいものを食べたいけれど、そのためにものすごい労力をかけたりはしなくなった。コンビニ人間で表現された餌、まではいかないけれど、どちらかというとそちらよりになった。労力がもうかけられないのだ。
 個人的に最近美味しいものってなんだろう、と思う。なんとなく思うのが、食べたいものを食べたいときに食べられた時が美味しいなのかな、と少し思う。食べたいものすらわからない日々が多い中でささやかに思う。
 確かに人が手をかけた丁寧な料理は美味しい。そういったものが食べたい時と、そうでもない、カップラーメンが食べたい時もある。
 一般的な美味しいとは少し違うのかもしれないけれど、そういう感覚がある私にとっては、この本を聴き進めるにつれて、ちょっとホラーのように感じてしまう「美味しい」。
 「美味しいものを食べる」ことがじわっとプレッシャーになるような感覚。「美味しい」は正義。「体にいい」は正義。みたいな、なんとなくのこの居心地のわるさ。その正義を疑わない、当たり前の感覚にちょっともやっとする。
 そんなちょっとした居心地の悪いモヤモヤ感をじんわりと感じる本でした。なかなか面白い読後感でした。

 個人的に心が痛んだのは、本筋とは少し逸れてしまうところもあるのだけど、配慮される人が待遇が同じ、というのはいつもカバーしてる側からしたら、やっぱり面白くないよね、というところだ。
 とりあえず仕事復帰して一年。最近も「今体調悪そうですね、これやっておきます」と仕事で言われたことがあったので、この本の描写にはちょっと心が痛んだ。
 治る目処も立たないので、多分ずっと誰かに配慮をし続けてもらわないといけないのだ。いっそ普通雇用を辞めようか、と最近思っていたりしたので、芦川さんへの押尾さんの視線は、そうだよなー、とため息が出る。
 芦川さんと押尾さんの関係と同様、いつも気を遣ってくれる同僚から見て私は社歴も長いし、歳も上だったりして、不満は持ってるだろうな、としみじみ思う。上司には昇進とかは彼女を先にどうぞ、と言ってはいるけれど、周りから見てやはり不公平感は否めないだろうな、など。
 なんとなく普通雇用で頑張ると思っていたけれど、自分にとっても周りにとってもあまり幸せでないなら、こだわらない方がいいかもしれないな。

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