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「安楽死が合法の国で起こっていること」

 この本、気になっており、図書館で予約していた。以前に「PLAN75」を観て、こうなってしまうのではないか、という危機感もありで、手に取ってみた。とはいえ、私は安楽死には比較的賛成の立場ではあります。しかしながら、日本での導入は難しいのでは、と思っています。これは読む前の意見です。この辺りも変わってくるのだろうか。

 読み始めてすぐ、自分は何も知らなかったのだな、と思う。
 そして、自己決定についてかなり甘くみていた。
 メモをとりながらとも思ったのですが、とりあえず読み通し振り返りながら気になった点を。

 カナダの事例が衝撃的。2016年に合法化されているのだけれど、かなり進んで?いる。

 またカナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと広がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することができない耐え難い苦しみがある人だが、前述のように2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。

p.46

 あっという間に安楽死の対象者が拡大している。そして、カナダでは高齢者問題大臣が、以下の発言をしている。

「MAIDは最終末期ケアであり、この「ケア」という言葉を私は強調します。MAIDは人々が最後の瞬間までを自分が望むように生きることを可能とするケアなのです。 

p.47

 安楽死はケアなのだろうか。

オランダやベルギーの安楽死は合法化された当初、もうどうしても救命することができない終末期の人に緩和を尽くしてもなお耐え難い痛み苦しみがある場合の、最後の例外的な救済手段と捉えられた。合法化には、既に公然の秘密として行われていた安楽死に規制をかけ、医師の行為の違法性が阻却される条件を明確にする狙いもあった。その意味では、安楽死は「合法化された」というよりも「非犯罪化された」という方が厳密には正しい。

p.47

 そんなオランダ、ベルギーでさえ、対象者が拡大し、捉え方が変わってきているそうなのだが、カナダではケアと呼ばれ、捉え方が全く違う。
 カナダでは適切な公的支援を得るよりも安楽死の方が手続きが簡単、ということもあるそうだ。これは排除でしかない。

 安楽死という問題解決策が存在することによって、その手前で模索され、尽くされるべき医療や福祉や支援の努力の必要に関係者も社会も目を向けなくなれば、安楽死は耐え難い苦しみを抱えた人への最後の救済手段ではなく、苦しんでいる人を社会から排除する安直なーそして最も安価なー問題解決策となってしまう

p.55

 安楽死を判断するにあたり、「QOL」という言葉も出てくる。これもかなり恐ろしい。常々思うのだが、QOLは人から判断されるものなのだろうか。これは個人がどのように感じるかであって、他者から判断されるものではないと思うのだが。。。

 気になるのは、安楽死の対象者が終末期の人から障害のある人へと拡大していくにつれ、安楽死が容認されるための指標が、「救命できるかどうか」から「QOLの低さ」へと変質していると思えることだ。(中略)安楽死をめぐる議論がそれに影響を受けると、「一定の障害があってQOLが低い生には尊厳がない」「他者のケアに依存して生きることには尊厳がない」という価値観、さらには「そういう状態は生きるに値しない」といった価値観が、社会の人々の間にも医療現場でも浸透し広く共有されていく。そして、その価値観の浸透と暗黙の了解が、さらに様々な形の「すべり坂」を引き起こす大きな要因となっていると感じられてならない

p.65/66

 数々の事例が取り上げられ、いったん合法化された後に安楽死の要件がじわじわと緩和されていく様は背筋が寒くなる。個人の権利が確立され、重んじられているように思われるアメリカでもそのようなことが起こっている。
 安楽死は自己決定のはずが、どんどん自己決定が曖昧になってくるような気がしてならない。
 そして子どもへと拡大されている。ベルギーなどでは終末期に限りではあるが、認められているそうだ。これは一線を越えているように思うのは私だけだろうか。
 以下の一言は衝撃的。

なし崩し的に「護るべき対象」から「死なせてあげるべき対象」へと変わっていく。

p.83

 自分の死にたい、という気持ちで安楽死という制度に賛成して良いものなのだろうか、という気持ちがふと浮かぶ。なし崩し、すべり坂、そういう現象を目の当たりにすると、少し怯む。

 ここでまた新たなキーワード「医学的無益性」が出てくる。ここでも具体例が出てくるのでぜひこの本を読んで欲しいのだけれど。

現在の議論の文脈では「安楽死」も、日本でいうところの「尊厳死」も海外でいうところの「尊厳死」も、本人の自己決定を前提にしている。「無益な治療」係争事件には本人の自己決定は存在しない。

p.103

 ベルギー、オランダ、カナダの安楽死をめぐる判決から、安楽死に法的規制があっても実際は多くが医師の専門性、つまり個々の医師のアセスメントにゆだねられていることが浮き彫りにされたが、「無益な治療」論にもまったく同じ問題が潜んでいる。

p.104

このように曖昧な「無益性」を根拠にした治療中止や差し控えについては、障害学者や障害者運動の関係者の間では、障害者のQOLに対する医師の偏見が混じりこむことへの懸念が強い。彼らは「障がいのある人々自身による実際のアセスメントに比べると、医療専門職は障害のある人々のQOLを著しく低く評価する」「どういうQOLが生きるに値しないかについて、自分自身の価値観を投影させる医師たちの判断には一貫性がなく、恣意的で公平さを欠いている」と、それを裏付ける研究データとともに指摘している。

p.106

 このように、「無益な治療」の「無益」は、「救命可能性が低い」という意味での「無益」から「元のようには回復できない」「救命はできてもQOLが低すぎる」「要介護状態になる」という意味での「無益」へとシフトしてきた。「無益な治療」論がもともと他者の介護に依存して生活する障害者にどんな眼差しを向けるかは、想像に難くない。

p.114

 個人的には医療分野にも資本主義の嵐が吹き荒れているのでは、と思う。安楽死の無益な治療論にも影響を及ぼすのでは、と思ったりする。これはかなり恐ろしいことだと思う。
 うまく気持ちをまとめることができないけれど、無益性の議論はかなり恐ろしい。

 このように、安楽死で起こっていたように、「無益な治療」論でも対象者の拡大とそれに伴う指標の変質という「すべり坂」が起こっている。しかも米国の障害学者ジェイムス・ワーズは、障害者に与える脅威という点では「無益な治療」論は医師幇助自殺合法化よりも深刻だと憂慮している。「無益な治療」論によって「医師の権限が最大となり、逆に障害のある人々とそのアドボケイトの権限が最小化される」、ために、医師の価値観次第で「その人が生きるか死ぬかが決定される」からだ。

p.122

 患者が「自己決定」する「権利」として安楽死が正当化され推進されて来た一方で、医療現場ではこのように患者や家族の意向にかかわらず一方的に治療を中止する「無益な治療」論の包囲網がはりめぐらされていっているなら、それは一体なにを意味しているのだろう。個々の医師が「治療に値しない」とみなす患者では、結果的に「生きる」という方向でも意思決定は認められない。つまり「自己決定」が「権利」として認められるのは「死ぬ」という一方向に限定されているということではないのか。そんなものを本当に「死ぬ権利」といえるのだろうか。双方向に選択肢が開けていなければ「決定権を行使する」ことにはならない。私たちは実は、一方向にしか開かれていないものを「権利」と思いこまされているだけなのではないか。

p.135

 この問いはとても大切な気がする。「死ぬ権利も「生きる権利」も両方あるべきではないのだろうか。
 この本は279ページあるのだが、上記で引用したように前半だけでかなりの内容の濃さだ。少し時間をかけて読むことをお勧めします。

 後半は日本での障害者医療についてや、家族による自殺幇助などの家族をめぐる話、コロナ禍で議論になった「無益な患者」論、などなど、話は尽きない。
 最後まで是非とも読み通して、もう一度安楽死について考えてみてほしい。

 安楽死について本当に自分はなにも知らなかったと思う。読み終えてみて、制度としての安楽死を認めるべきか、と問われると私は答えられない。むしろ反対に近寄ったかもしれない。私にはこの「すべり坂」「なし崩し」を抑えるすべがあるのか全くわからないから。そして「生きる権利」がすべての人に与えられるべきではと思うので、「死ぬ権利」だけが与えられる状況は権利なのだろうか、と著者とともに疑問に思う。

 色々読んだ上で、ではあなたが当事者となった時「安楽死」を選びませんか?と言われたら、選びたい私もいる。大変難しい。


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