2015年6月に第一子が生まれ、 母と実家での暮らしが始まった。 その期間1ヶ月半くらいだったと思う。 毎食、マクロビの体に優しい献立を作ってくれた。陣痛がきた日はお昼はお蕎麦を茹でてくれた。今でも覚えている。美味しかったな。 陣痛がきてから生まれるまで長い時間付き添ってもらって、母も体力の限界だったよう。 夫が病院に駆けつけてくれて、母と分娩室でバトンタッチ。もう疲れたから帰るね、と。出て行ってしまって少し心細かった。 けど、後から聞いたら、産声を聞くまで帰らなかったそ
しばらく更新があいてしまったけど、ようやくまとまった時間が取れたので、記憶がどんどん薄くなる前に…手元に手帳もないので過去を遡る手がかりがなく、断片的になるけど、記録のために書こうと思う。 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 大腸癌のための治療をしてしばらくして、 検査を受けたら、肝臓への転移が分かったとのこと。辛い治療を乗り越えてもまた次の敵が…。 原発の癌が別の場所に転移するということは、 本当に良くないこと、とその時の私は知らず、本当に無知だった。 母が私を駅
母入院の翌日、お見舞いに行った。 手術を受けることは医師から聞いていたようだった。なんの病気なの?医師からどんな説明をされたの?と私に聞いてきたその目が忘れられない…。動揺していて、私が知っている強い母親ではない。 助けて!と言っているような目で、聞いてきたその表情を今でも忘れられない。 癌かもしれないなんて言えない…。 けど、いずれ分かることだし、不安なまま手術を受けるのも可哀想なので、医師から説明されたことを正直に母に説明した。母はいつでも冷静だ。 もう、この辺
母は自宅マンションからタクシーを呼び、自ら入院を懇願し、入院した。きっとフラフラだったに違いない。父は海外赴任中で、自宅には1人。助けを求められる人が近くにいなかった。 私、入院しました。部屋番号は●●です。と、連絡をもらった後、旦那と私は仕事後に車で病院へ向かった。 腸閉塞と診断された。 たしか、病室で横たわる母と私と2人で医師から説明を受けた。 腸閉塞…なんか聞き慣れた病名で、命に別状はないんじゃないかと楽観視していた。治ってまた元気になるって。 2人で、腸閉塞
このnoteはしばらく、私と亡くなった母との記録が続きます。 〜〜〜〜〜〜 その当時、私は社会人4年目。 入籍は済ませたものの、まだ身軽だし週末は友達との予定があったり、旦那と出かけたり、気ままに過ごしていたと思う。 予定が空いていて旦那も不在の暇な週末だけ、実家に帰り、夜ご飯をご馳走になって帰ることがよくあった。この日もそんな感じでふらっと実家にお邪魔した。しかし、母の元気がない。ベッドに横になっていて食欲がないと。 2013年4月頃。母の具合は悪くなっていく。
2013年4月頃 私は結婚が決まり、入籍を済ませ、6月に結婚式を控えていた。招待状のことや準備とかでバタバタしていた。父は海外赴任中で、結婚式のタイミングで帰国してもらう予定となっていた。 主人は出張で不在にすることが多かったので、そんな日はお互い1人なので、横浜に住む母は東京の私たち夫婦の家に夜ご飯を食べに来てくれた。 たしか私が作ったのは、豚肉とかぶの甘辛煮。 一緒に夜ご飯を食べながら… 母「最近、食後に胃が痛くなることがある」 私「そうなの?どうしたんだろう
私は至って普通の家庭育ち。 サラリーマンの父と専業主婦の母、それに妹。4人家族。毎年夏は旅行へ行ったり、祖父母の家に泊まりに行ったり、平凡ながらも幸せな家族。 私も妹も大学卒業後は就職し、それぞれ一人暮らしを始め、父も海外勤務が長く単身赴任で海外へ。母は1人で4人家族が住んでいたマンションに住んでいた。父も私も妹も、仕事で忙しい日々をそれぞれ過ごしていた。賑やかだった家が一気に静かになって、きっと寂しかったろうな…。 2016年に60歳でこの世を去った母。 あんなに平