「気取り文」ほか

 以下の内容は7月24日から始まったPCの復旧作業の真っ最中にふわふわと頭に浮かんだ考えを、ひとまず作業の落ち着いた7月28日に再構成して書き連ねたモノである。いわゆる随筆、エッセイにあたるのだろうか。
 私はこの随筆や、エッセイというジャンルが好きである。国語や現代文の教科書には、例えば夏目漱石先生であれば”こころ”よりも先に”自転車日記”を載せてやるのが良いとさえ考えているほどだが、この話はまたにしよう。
 24日に何があったか仔細は伏せるが、PCを何度再起動してもブルースクリーンを吐き続け、あの手この手の万策も尽きてリフレッシュし、それからこうやって元通りとはいかずとも、マトモに使えるようになるまで丸4日かかってしまった。
 読者諸君もバックアップを取り、ゆめゆめ注意を怠らないよう気を付けて貰いたい。


・気取り文

 PCが壊れた。それは私にとっては自分の半身が突然無くなってしまうほどの衝撃であった。
「そんなおおげさな」と思うかもしれないが、これがまったくおおげさな話では無い。そう分かって貰う為には少し、私自身の話をしておく必要があろう。
 さて私という人物は治療法の確立されていない持病の身体をだましだまし動かしながら求職中の身である(休職でも可)
病名を明かすと
「なァんだ。その病気の人なら働いてるのを知ってるぞ」だの
「治るって本を見掛けたわよ」だの言われて滅入ってしまうので伏せておくが、まぁ、内耳を患っているとだけ言っておこう。そしてこれらの言は半分正解で半分はずれなのだ。
現に私を診察した医者の説明によれば
「薬は効く人と効かない人がいます。例え効いても完治するモノではありませんし、まぁ、気を落とさないで下さい」ときているのだから。
そして残念な事にまぁ、私の場合は効かなかったという訳だ。
 そんな私にとってPCが、またそれを用いての創作活動がどれほど大事なモノであるか、少しは分かって頂ければ幸いである。
 また、ここに宣言しておきたいのだが、私はこうした身の上話によって同情を誘いたい訳では無い。それも分かって頂きたい。

 前置きが長くなってしまった。話を戻そう。
とは言えこの話は猛暑酷暑の中4日間に渡るPCの復旧作業を描いた物では無く、その合間合間に起きた事、考えた事を書き連ねるのみである。
ブルースクリーンからの復帰方法などこのご時世、ちょっと調べれば出て来るものであるし、復旧作業と言っても四六時中モニタを睨んでいた訳でもない。
 唸るPCと、それに当てる扇風機の音と蝉しぐれ。そんな中私が何をしていたかと言えば、ベッドに腰かけたり床に長座してみたり、衣服の整理をしたり、ふと思い出してPSPを掘り起こしたはいいが充電ケーブルが見つからずあちらこちらを引っ繰り返したりと、動物園のクマの方が落ち着いているんじゃないかしら、というくらい落ち着きが無かった。
 そうしてどすんばたんと部屋を引っ掻き回している内、ふと三冊の文庫本を見つけるに至った。その三冊とは赤川次郎先生の
”悪魔を追いつめろ!”
”死者は空中を歩く”
”死者の学園祭”であった。
 蔵書と言う蔵書は引っ越しの際に売り払った私であるが、元来抜けているのでこういう事もあるだろう、という事でそれを手に取り読み進める事で、やっと落ち着いたのである。

 文庫本を手に読書をするのは数年来ぶりであったが、活字を目で追う事も頁をめくる事もやはり心地良い。何より赤川先生の本というのは小気味よく、読みやすいのだ。
 強気な女子と、ちょっぴり頼りない男子のコンビを機関車として、我々読者を載せた客車を物語というレールの上をぐいぐいと引っ張っていく銀河鉄道。そんな感覚を覚える程にスラスラと読み進めてしまった。やはり良い。
 合間合間に家事も挟みながら三冊とも読み終えてしまった私は、心の中にふつふつと読書欲とでも言い表すべき感情が湧いてきた。
「もっと読みたい!」
そしてそれと同時にこのような感情も湧くのであった。
「なにか書きたい!」
学生時分、誰に読ませるでも無くボールペン一丁でお話を書いていた頃のように、エンジンが掛かってしまったのだ。

 あくる日の朝、さて私は心の中に渦巻く二つの感情をどうしたものかと持て余していた。外は命に関わる酷暑、さらに我が身は先日からの精神的ショックによってふらつき立つ事も辛い。と来れば図書館に行く事も叶わない。
そんな折に、ふと数日前にツイートした青空文庫の事を思い出した。確か、思い出せない漫画のタイトルを調べた際に、その原作にあたる物語も一緒に出て来たのである。

 おお、これならば手元にあるスマホでも読めるではないか。さらに借り物の本を汗ばんだ指でページをめくる罪悪感も無い。これは素晴らしい。
そんな訳で私は、めくるめく物語の世界へ飛び込んだのであった。
 まず最初に開いたのは江戸川乱歩先生の
”怪人二十面相”だ。読んだのはもう相当昔になるので、話のあらすじなどこれっぽっちも覚えていない。

――名探偵明智小五郎と、その助手小林少年と、怪人二十面相との火花を散らす頭脳戦!

 夢中になっていくつかの作品を読み終わった後、ふと気付くと物を考える時の口調がこれらの文体に似てしまった。
 そう。今書いているこの文体は、明治、大正、昭和を確かに生きた文豪達”気取り”の文なのである。恥ずかしながら影響を受けやすい私の事であるから、しばらくこれは抜けそうにない。いやはや困ったものである。

・読書感想文

 ところで私は読書感想文という宿題が大嫌いである。
自分が気に入った作品を友人知人に勧めるのであれば
「これ面白かったよ!」とか
「君が好きそうな本だからオススメ!」とか、そういった一言で済むのに、何ゆえ400字詰め原稿用紙ウン枚に渡って、先生方の気に入るように書かねばならんのだと憤慨してしまうのである。
作品を読んだ後の感動と言えば、かげがえの無いモノであり、それを言葉にしろなぞ無粋な真似を!などと思ってしまうのである。
 とは言え私が憤慨した所でみっともない話なので、ここ数日間で読んだ作品から何冊か、これは覚えておかねばなるまいと思った物と、短いながらその感想文を書いていこうと思う。

”比島投降記:ある新聞記者の見た敗戦/石川欣一”
 タイトルの通り、フィリピン諸島の森の中で終戦を迎えた従軍記者が日本に帰るまでを描いたルポ。
敢えて何も言わないので、彼が何を見て何を感じたか、是非とも読んで頂きたい。

”小説家たらんとする青年に与う/菊池寛”
 小説家へ向けたアドバイスではあるが、これは現在のいわゆるクリエイター諸氏にも善きアドバイスになり得ると思う。
いや、クリエイターのみならず様々な人に通じる事であろう。

”怒れる高村軍曹/新井紀一”
 上官から理不尽を受けた者が上官になれば、また理不尽を与える。
教育係となった高村軍曹はその事に気付き、どう育てるか苦心するという話。
今日に於ける社会にもこうした問題は見受けられる辺り、精神的には戦中どころか戦前からちっとも前進していないのではないかと思う。

・贅沢品

 多くの人には一品や二品、贅沢品というモノがあると思う。
例えばそれはジッポや腕時計だったり、コンサートやライブ、またそこで客席に投げられたボロボロのギターのピックだったり、週末にちょっと奮発して入った高い店だったり。
 少し話は逸れるが、今日に於ける安月給について贅沢をしなければ暮らしていけるのだから文句を言うなと言う人がいる。
しかし、ちょっとした贅沢によってさえ、日々の労働に費やした気力が回復するのは確かなのだから、本来はもっと贅沢の出来るよう取り計らうべきだと思う。
 話を戻そう。私にとっての贅沢品は、台所にある炭酸水メーカーである。

 この炭酸水メーカーというモノは読んで字のごとく、炭酸水を作る機器である。
専用のボトルに水を入れ、同じく専用の、弁が付いているらしき注入口を取り付け、二酸化炭素のボンベが取り付けられた本体と結合してボタンを押せば
「シュボボボボボボ!!」と騒がしい音を立ててボトル内に二酸化炭素が注入されるのだ。
二秒ほどで注入口の弁から気が抜けて甲高い音がするので、コレを合図にボトルを本体を取り外して少し待ってやれば、そんじょそこらの炭酸飲料よりも強い炭酸水の出来上がりである。

 猛暑酷暑が続くここ数日、ストレスから暴飲(※)のケが出ていた私であるが、この炭酸水メーカーが大いに役立ってくれた。
冷蔵庫が発展していなかった時代、炭酸飲料で涼を取っていたという話を聞いた事があるが正にその通りで、一口付けるだけで爽やかな気分になれるのだから。
 さらに、何しろ元が水道水なのだから、砂糖やカフェインの入った炭酸飲料のように飲み過ぎて悪影響がある訳では無い。せいぜいゲップが増えるくらいである。
 そして前述の通り炭酸が強い。これが私のような、無類の炭酸飲料好きには堪らないのだ。プランターに植えたハーブなど千切ってきて浮かべるのも良い。

 ※暴飲と言っても決して酒には手を出さない。少しでも酔うと立てなくなってしまうからである。

 欠点と言えば、その二酸化炭素ボンベを使い切って補充する時であろうか。
一応二本のボンベを交代で使ってはいるが、自分は車が無いので、補充してくれる店までえっちらおっちら箱に入れたボンベを持って歩かねばならんのである。これが私には、文字通り、荷が重い。
 贅沢というモノは、やはりその人の身からちょっとだけ余るように出来ているから贅沢というのだろう。

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