見出し画像

Queen Angio 1

 『この世界から小児科医がひとりもいなくなるのでは』

そう思うほどに子どもたちの界隈には苛烈であった感染症の大波と共に、例年のごとく驚くほど暑い夏が過ぎゆきて、朝に夕に微かな秋風の吹くころにはかねてから予定の4歳の入院があるのやからと、歯を食いしばって夏をやり過ごし、さあいざその日を無事に迎えたら、それが南から強い台風11号のやって来る日であるというこの踏んだり蹴ったりぶりは一体何なのですか。

 一般に『子どもが入院なんです』と、どなたかに言うと「まあ…それは大変ですねえ」というすこしその場の空気の滞るような、哀しい雰囲気になりがちなものなのですけれど、そして実際親の方はわりと大変なのですけれど、こと病気のある業界に生まれて育った子どもというものにとって生まれて今日までずうっとお世話になっている大学病院の、それも小児病棟というものは己が実家かおばあちゃんのお家かと、そういう趣のあるもの。

 世界の概要を何とはなしにとらえ始めた病児であるところの4歳児はうきうきとまではしないものの淡々と、入院用のお荷物の中にお気に入りの絵本やらぬいぐるみやら明治のアポロチョコを「いや別にこんなんいらんで」という私の言葉をすべて無視してぎゅうぎゅう詰め込んで

「アンギオ(Angio、カテーテル治療や検査を行う血管造影検査のこと、ここでは血管造影室の呼び名として)にはどのかんごしさんがいっしょにきてくれるん?Sさん?Wさん?Mさん?センセイはみんなくるんやろ?」

訳知り顔の得意顔でそんなことまで言い出す。自分の処置の日には小児循環器科の医師を全員呼んでほしいそう、そしてこの時4歳の指名していたアンギオへの付き添いの看護師がまた小児病棟の、人柄らはええ、朗らかでかいらしい、そのうえ仕事が出来て仕方ない3年目以上の精鋭なのだから贅沢なことよ。4歳にしてアンギオの扉を潜ること既に10回超、今や娘は私の中でのみ『Queen Angio(血管造影室の女王)』と呼ばれている。

あらかじめ予定された検査や処置の入院というのは、入院患児本人にとっても、それに付き添う親にとっても

「やらなあかんのはわかるけど、しんどい」

というものではあるのだけれど、病棟で待っている主治医はいつもの馴染みの先生であるし担当看護師はその時々で違うのだけれど今回は4歳と私が大好きな8年目のベテランの看護師さん。彼女が病室に現れると窓のない壁際の、生成り色のカーテンに仕切られた小部屋には小春日和の明るいひかりが差しこむように感じる。とてもまぶしい、とても嬉しい。

 今回の入院は、この4歳が3歳の春のはじめ、梅も咲かない頃に受けた手術のあとしまつ。

 それは下大静脈と肺動脈を人工血管を使って繋いでついでに循環のための穴を心臓に開けるなどした大きな手術。

 これはもともと病態の割に状態の安定した、そして心臓以外の内臓の頑健な当時3歳を鑑みると「まあ大丈夫うやろ」と予想していたのに術中い思いもかけないことがいくつも起きて術後ICUに長逗留することになり、その間3歳はECMOを使い人工呼吸器を使い人工透析器を使い辛うじて命を繋ぐことになるなんて多分主治医も思っていなかったと思う。病棟でこの子の帰りを待っていてくれた看護師さんたちは日々更新される電子カルテを覗き見て「これはもうあかんのかもしれへんな」と、とても哀しかったのだと、それは術後1年半を経た今回の入院でかれこれもう4年のお付き合いになる看護師さんから初めて聞いた。

 それから1年後、術後評価のためのカテーテル検査をしてみたらば、手術のあの日に意図的に空けた穴はやや小さくなりこそすれ未だ姿を心臓にきれいに残し、その穴から循環に不要な血流が流れ込んでいるし、その上肺にはふわりとまるで現世に行き場を無くした浮遊霊の漂うように白い影。それでこれは一体何やろかと詳しく造影CTを撮ってみるとその画像は真っ白く濁り主治医が曰く

「いらん血管がまた生えてしもとる。この肺の血管はゆくゆく循環の邪魔しかせえへんし、詰めよう」

足の付け根の太い血管から細い管を入れ、そこから小さな金属を入れて血管を詰め、細い血管がこれ以上枝葉を伸ばさないようにしてしまおうということになったのだった。

 このコイルというものは医療用チタンらしく大体の医療用品がお高いように多分お高い。そしてこれの保険適用は11個までなのだそうで、上限を超えた数をどうしても使いたければ病院がその額面を負担することになるのだとか。世界には私の知らない決まりごとと理がある。これ確か2年ほど前も、大きな手術に先立ってやはり循環の不足を補おうと肺の中に細かく育ってしまっていた不要な血管を詰めることになり

「コラテ(collateral flow/副側血行路)は手術の邪魔にしかなりません、不要な血管は徹底的に詰めましょう。保険の上限?そんなものは全額病院が被ればいいんです、お母さんが気にすることではありません」

このように主張する己が職務と患児に真摯で誠実な小児心臓外科医と、実際コイルを詰めるカテーテル処置をする小児循環器医、4歳とは生後間もないころからの付き合いの大雑把でぶっきらぼうでしかし患児には甘い主治医その人が

「そんなんしたら俺が病院長に怒られる」

ため息とともに小声で文句らしきことを言ったもの。だいたい小さい子にそんな量のコイルをぎゅうぎゅうに摘めたりしてみい、患児本人がしんどいやんけ。

 ともかく、今回の入院は肺にコイルを詰める、コイル塞栓術が目的のよくある10日程の入院なのだけれど、これまでの入院とは少し毛色が違うのは、それがこの人の治療を前に前に前進させるためのものではなくて、前回の手術の難渋がなければやらなくてもよかったのじゃないかなと、そういう類のものであるということ。人生ゲームで言うなら『会社が倒産して一回休み』のような、そこはかとなく不毛な感じが微かに漂うやや虚しいもの。

 私はかつてこの4歳を生む前に新生児科医から

「3回目の手術が終れば、普通の子とそう変わらない生活がおくれますよ」

のようなことを聞いた気もするのだけれど、その3度目の手術が終わって1年半、常人よりもはるかに低い酸素飽和度の数値はあまり好転していないし、それだから在宅酸素療法からは離脱できないままで結果

「手術が終わって半年もすれば酸素は使わなくなるんです」

そう言って入園を許可してもらった幼稚園には詐欺を働いたことになる。その幼稚園にはいま世界が感染症の嵐の渦中にあるということもあるけれど、入園後もう3度目になる入院のためになんだかとても休みがち。

 「3度目の手術が終われば…」と言うあの話は私が胎内の子の将来の生存を想うあまり脳内に捏造された虚言かもしらんし、何もない場所からふと聞こえた空耳やったのかもしれへん。

 なんだか思ってたんと全然違うなあ、去年のこの子の人生を賭けた3度目の手術が終わったらもっと穏やかに晴れやかな秋の青空が秋桜の上にうつくしく広がっているような新しい日々があるのだと思っていたのになあ。

 結局、今年色々と楽しい計画があってきらきらとラムネ色に染まるはずだった夏だって、クーラーの無色透明で人工的な風の中、すべてが空しく過ぎ去り2学期の幼稚園は始業式も出席せずに初日の最初からお休み。一体こんなお休みばかりの園生活に意味はあるのやろうかとほんの少し、小指の爪の先ほどの疑念が湧かないこともない。しかしそんなことをいま言うていても仕様がない。

「愚痴は誰も買ってくれへん、1円にもならん、人に聞かせてもいっこもおもんない」

というのが上沼のえみちゃんの教えであるのやし(出典不明)と、私は猫背で俯きがちで伏し目がちの自分をすこし太陽の方向に向けて思い直した。幼稚園への登園が半分もできていなくとも、この入院が永劫回帰的くりかえしのコイル塞栓で直近には何の意味も持たへんのやとしても、その意味は自分で見つけよう。

 それで今回私は、普段4歳と「お外で歩行の訓練をしようね」と言っているのに

「お外いかない、お家で遊ぶ、アイス屋さんごっこしましょう」

と言われてしまって泣いている娘の訪問リハビリのPT(理学療法士)の先生と相談をして

「入院中、状態が良いだけにぷりぷりに元気な4歳児を処置の日まで病棟でただ待たせていてもアレなんで(4歳は服用薬の関係でカテーテル検査やコイル塞栓術の前の1週間点滴で過ごさなくてはならない)リハビリを主治医にオーダーしては」

そういう入れ知恵を授かった。それでこの苛烈な夏を大学病院、地域の各病院、医療施設で最前線の小児循環器医として乗り越えてきた病棟主治医に3カ月ぶりに会って3秒で頼みごとをした「先生ここはひとつリハビリをお願いします」先生は「ええよ、待ってる間ひまやもんなあ」と快諾してくれて、それで安心した私は先生この夏は大変だったでしょう生きてましたか?と不穏な挨拶をしたのだった。

 1年半前「呼吸はしているだけでエライ、生きているだけでもうエライ、君はなにもかもがエライ」そう賞賛しながら4歳の術後難渋を戦った病棟主治医に「夏、大変だったでしょう、先生が生きててよかった、生きててエライ」なんて入院の日の挨拶をする秋があると思わなかったですよ私だって。

「大変やったわー俺の医者人生であんな数の患児を見たことも診たこともないし、あんな数の救急車を受け入れたこともない」

ピークは海の日であったそう。丁度その頃、私は以前からとてもとても楽しみにしていた実家への帰省を静かに諦めていた。先生はしんどかったけどまあまあ大丈夫やったわと笑ってはったけれど、流石に阿鼻叫喚の7月の渦中にいたその時は心がぽっきりと折れたのではないかしらん、先生がこの秋ちゃんと病棟にいてくれて本当によかった。

(子どものころから優秀で、何にだってなれたのに俺はどうして小児科医になんかになってしもてんやろ)

なんて思い道に倒れて挙句廃業(転科?)していたら私の心が折れていたことでした。だってもうひとりの主治医はよく似た状況の中、過労で倒れた夏であったもので。

 ともかく7月を生き延びた先生はリハビリをオーダーしてくれて、さっそくその日のうちに4歳の元にはリハビリ科の溌剌としたうつくしい女性の先生が病床に尋ねていらした。ただ4歳の昼食時にやってきたその方が曰く

「あらっ、ご飯食べてはる、エッST(言語聴覚士、言葉や嚥下のリハビリをする)やなくてPTでした?ヤダー先生、間違えてる」

ということだったので先生の夏の疲れはまだ静かに体の中に残留しているのかもしれない。頼んだのはPTの方です、ゴハンは偏食ですがモリモリ食べてます。

 この秋、4歳は早々令和6年度の小学校の入学準備を始めたもので、運動機能に関して病院でずっとお世話になっているPTの先生のご意見が欲しかったのだ。既に地域の小学校とは初回の挨拶を兼ねた顔合わせが決まってしまっているもので、そこで何を話していいものか何を聞いたらいいものかそれの相談をしたい。私に医療者の後ろ盾をくれ。

 それに前回の術後、歩く事も立つことも笑うことすらできなかった4歳が走ることも跳ぶこともできるようになった姿を見て欲しい。あのときひたすら歩け歩けと励ましてくれたあのPTの先生はきっととても喜んでくれると思う。

 そうして昨日、暫くぶりに再会したPTの先生は相変わらず肩幅も歩幅も声も大きい、頼もしさが白い服を着て歩いてるような人であって「再来年の小学校入学にあたって運動機能の評価とか負荷試験のこととか、私にはよく分からない事が多いので一緒に考えてほしいのです」と言うと「そうか!もうそんなになるんや」と喜び、それから廊下を歩け歩こうと4歳を連れ出した。思えばこの人は、4歳が3歳で術後人工呼吸器に繋がれて顔は浮腫み赤紫色で半目、それこそ三途の川の際にある時にも

「ハイ!呼吸して!呼吸!」

筋肉は使わないと即なまるのやと笑顔で語る体育会系ラグビー部的厳しさの人だったなあと、私は1年半ぶりに思い出した。女王は「ちょっと!なにこれきいてないのだが?」て顔をしているけれど、なんて言うのかな、戦場だった夏を越えても人生っていうのは厳しいものなのやわ、頑張れ。


サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!