向田邦子と『ごはん』とわたし。
父は、この分でゆくと次は必ずやられる、最後にうまいものを食べて死のうじゃないかといい出した。
母はとっておきの白米を釜いっぱい炊き上げた。私は埋めてあったさつまいもを掘り出し、これも取っておきのうどん粉と胡麻油で、精進揚げをこしらえた。格別の闇ルートのない庶民には、これでも魂の飛ぶようなご馳走だった。(中略)
我が家の隣は外科医院で、かつぎ込まれた負傷者も多く、息を引き取った遺体もあった筈だ、被災した隣り近所のことを思えば、昼日中から、天ぷらの匂いなどさせて不謹慎のきわみだが、父はそうしなくてはいられなかったのだと思う。
『父の詫び状』より【ごはん】 向田邦子 1978年 文藝春秋
国語を愛し、現代文を偏愛し、教科書配布のその日に国語関係教科書だけは即前頁を読み終える国語科クラスタのみんな大好き向田邦子。
異論は認めるが説は曲げない。
『向田邦子は突然あらわれてほとんど名人である』
それが向田邦子がこの『ごはん』の収録されている『父の詫び状』を出版した際書かれた書評の一節だ
この氏にとって初めてのエッセイ集が世に出たその時、文芸の世界と、それを手に取った当時の、というか実はこの『父の詫び状』の初版が出た年は私が生まれた年の11月で年は取りたくないものだと口からこぼれるお年頃になった今日この頃の私でもこれは少し嬉しい、向田邦子と一瞬の同時代を生きた人間だというこの事実。その当時の読者達は嘆息を漏らした。
それは文筆家として初めて人前に紙媒体の作品を発表したその時、氏がもう既に完璧に自身のスタイルを獲得していたからだ。
なにそれこわい。
31歳で出版社を退職し独立、主にテレビドラマの脚本家として生きた氏の書くものは、そこにまるで映像として情景が浮かび上がるような、だってテレビドラマの脚本家だものにんげんだもの、映像的で写実的で生き生きとした表現に溢れて読む人を引き付けて離さない。
だってなにしろうまいのだ。
乾き切った生垣を、火のついたネズミが駆け回るように、火が走る。水を浸した火叩きで叩きまわりながら、うちの中も見回らなくてはならない。
「かまわないから土足で上がれ!」
父が叫んだ。
私は生まれて初めて靴をはいたまま畳の上を歩いた。
「このまま死ぬのかもしれないな」
と思いながら、泥足で畳を汚すことを面白がっている気持ちも少しあった気がする。
空襲の晩、四方を日に囲まれた氏とその父のやり取り。焼夷弾が空から降り注ぎ、死が眼前に迫ったその時、火の回りの速さを走り回るネズミにたとえる視覚的な表現と、畳を土足で汚した非日常を「面白がる気持ち」のこの両極端さ客観が行き過ぎた面白さ。
これは1945年3月10日。死者10万人、罹災者100万人といわれる東京大空襲のその最中を書いたワンカットだ、邦子、何見てたん、そんで畳泥足で歩くのウチの娘②(2歳児)のやるやつや確かにアレはやってる本人は超楽しそうやられた母は泣く。
そして何よりこの氏の文字によって描かれる食べ物の数々、ご本人は料理上手、業界の人達というものは付き合いも広ければ、会食も多くておいしいものも大層召し上がるそんな生活をされていた方ではあるが私が好きなものはどちらかと言うと氏の言う『節約(しまつ)な』食べ物ばかりで
海苔巻きの端っこ、あの酢飯に対して具の分量の多い部分
海外から帰国して食べるさらしネギとカツオを入れて海苔でくるんだご飯
祖母の作った出汁でのばした卵かけごはん
うどん粉でとろみのついたライスカレー
このすべての食べ物の書かれている随筆はすべて私が10代に読んだものばかりなのに、そのすべてを文字だけでなく想像したその料理…なのかこれは、その時想像した映像と共に思い出す事が出来る。
そして
私は埋めてあったさつまいもを掘り出し、これも取っておきのうどん粉と胡麻油で、精進揚げをこしらえた
この『ごはん』のサツマイモのてんぷらも、その時「あ、おいしそう」と教室で思い描いたその時自分14歳。授業は興味のあるものしか耳を傾けない、数学は間違ったページを開き、英語の文法の板書は素無視してグラウンドを眺めていたセ三本線のセーラー服のえんじ色のネクタイの色、そのもろもろがセットになって懐かしい映像が脳の奥底から引っ張りだされてくる、そして授業は聞け14歳の自分よ。
そう、味覚と記憶とはワンセットでニコイチだ、随筆上のこのごはんたちは実際私の口腔を満たしたわけではないけれど、空想力著しい14歳の脳で確実に再生され、今日不惑を超えた私の思い出としてしっかりと確立している。
邦子、恐ろしい子。
そして、この氏程ではなくても私にも、思い出の『ごはん』というものがある。
🍙
さて、ひとも不惑を超え人並みに暮らしていればそれなりにおいしいものも食べていそうなものだが、何しろ台所を預かる主婦それが自分、毎日の食事と言えば偏食が過ぎる3人の子ども達の献立に苦心惨憺した挙句、子どもがコレなら食べるという
肉肉肉。偶に芋。そしてあとは炭水化物。
というラグビー部男子達まっしぐらなメニューを作るばかり、目にも美しく繊細なご馳走が食卓を彩るという生活からは程遠い毎日で、直近で『ごちそう』という名の付くものをいつ食べたのかとひと様から聞かれて答えられるのはもう2年も前、末っ子の娘、ここでは娘②と呼んでいるその子を産んだ時まで遡らないといけない。
何それどんな生活してんのと思われるかもしれないが、この末っ子、現在2歳の娘②というのが、重度心臓疾患児として生まれ、生まれた時から経管栄養、数多の入院手術を経て、現在在宅で酸素を吸入しつつ生きる医療的ケア児にして疾患児、兎に角普通より手がかかって仕様がない、そして性格は滅法気が強いとあって、気が強いのは関係ないかもしれないがこの母はおいそれとゆっくりおいしいものも食べに出かける事が出来ない、母の心と財布に余裕というものがない。
そんな訳で、私の今思い出に残る『ごはん』の筆頭のひとつとしてあがるのは、この娘②を出産して数日間、大学病院で経産婦として入院している最中の産婦人科病棟で食べた食事のことになってしまう。
産婦人科病棟とは、病院の中でも稀有な場所。
何しろ赤ちゃんが生まれてくるのだから、めでたい、新生児というものは特に経産婦にとってはこの世で最も可愛いと思えるもののひとつ、尊い、愛しい、そして無事に生まれてきてくれて他人の私からすらありがとうそしておめでとう、そんないのち誕生を寿ぐ雰囲気にあふれている幸せの場所だ。
ただ、この時私が入院していたのは三次救急、高度救急救命センター、母子周産期センター、救急名称三本柱を有する地域医療の要にして高度医療の砦・医大の付属病院で、故に産婦人科病棟と言えどもすべてがよろこびと新しいいのちにあふれる場所という訳ではなく
どちらかというといのちとその対極を分ける戦場の最前線。
そのフロントラインに娘②は生まれ、無事出産を終えたその数分後、娘②はNICU、母の私は産科病棟と二手に分かれ、出産その日、夜遅くまで私達母子は再会が叶わなかった。
産後数分が生死を分けると言われるいのち達。
その日から始まった私の5日間の入院生活。痛む身体を、特に産後直ぐの経産婦なもので尾籠な話で大変恐縮ではございますが痛い、股が、その身体を引きずって時間制限付きの面会時間、何やらコードとチューブだらけの抱き上げる事も
「もう少し落ち着いてからにしましょうね」
そうナースから言われてお触り厳禁の娘②をかなしく眺めるばかり、その当時は何が心拍で何が酸素飽和度で何が呼吸数なのか皆目わからない数字が乱高下するコットの上のモニターを恐ろしいもを見るように眺め、搾乳した母乳をピジョンの哺乳瓶(新生児用)に詰めて運ぶしか仕事がない日々の確か4日目、NICU組の母の私が「今ちょっと産科病棟がいっぱいで」と隣の小児病棟に病床を移された日の夕餉にそれはやって来た。
お祝い膳。
あれはいつごろから生まれたものか、経産婦の産後をいたわり赤子の無事の誕生を祝い、病院とは思えないような豪華な食事が饗されるあの文化。
私はこの時、娘②が生まれて即NICU搬送が予定されその後大きな手術が待っているその事に脳内の容量が完全に圧迫されメンタルに至っては持ち得る感情の許容範囲を超越していてそんなことが「入院のしおり」に記載されていることなど忘却の彼方どころか読んでないので知りませんというありさまで、一人寂しく、入院患児達の声と、小児病棟のナース達が手作りしたのであろうサンタとトナカイの飾りつけもにぎやかなクリスマス前の小児科病棟で
「おめでとうございます」
その病院のプラスチックのトレーに乗り切らない豪華な食事を看護助手さんから受け取った時
『何がめでたいのか』
そう思ったものだった。
勿論顔に出してなどいない、と思いたいが、私の表情筋というものが己の感情に対して相当正直に機能するというか、顔芸…じゃない、腹芸というものが全く出来ない仕様になっていて、多分相当哀しそうな顔をして食事を配膳してくれる看護助手さんからソレを受け取ったに違いない。相当申し訳ない上に大変情けない。
そのトレーの内容は確か
牛肉のポアレ
オマールエビのサラダ
コーンスープ
付け合わせ的にガルニチュールを別盛り
レモンのグラニテ
病室のあの細長い机、油圧式で上下するヤツ、それに不釣り合いに豪華な内容のこの晩餐を前に私は猛烈に寂しくなった。
だって何をどう祝ってもらっても、傍らに我が子がいないのだから。
本当なら、NICU搬送などなければ、出産して即、生まれたての我が子を片時も離さずに横に置き、眠い産後直ぐの授乳は辛いぜと文句を垂れながら、それでも片手に赤子、片手に己の食事という状態でごはんを食べられていた筈なのに、それならば食事など塩おむすびでも嬉しかったのに。
お産は3回目、ベテランの経産婦と称される身分とは言え、NICUと心臓疾患児は未知の領域未知との遭遇。今日は明日は一体どうなるのかどうなっているのか我が子は、漠然とした不安の中、そして搾乳しろと言われても情けないもので傍らに我が子がいなければちっとも出て来てくれない乳のせいか然程空腹という感覚を維持してくれないハラでその豪華お祝い膳を
食べた。
食べたんかい。
だって折角やし。
それはここの分娩入院費が意外と高かったというのも一因がある、モトは取らねばならん。
それに食べ物を粗末にしてはいけないと子に教えている手前。
そして腹が減っては何とやら。
手に取ったカトラリーで頂いた、多分病院の厨房の調理師さんと栄養士さんの心づくしのお祝いの晩餐は、哀しくておいしさ半減だったような、哀しくてもおいしいものはおいしい、そう思ったような、娘②の誕生のその日12月8日、それから数日を経たその日は12月も中旬、夕食の配膳される午後6時は日が落ちて暗くなり、その薄暗い窓の外をぼんやりと眺めて涙と鼻水を垂らしながらそれを機械的に口に放り込んでいた事は覚えているが、肝心の味を良く思い出せない。
泣くか食べるかどっちかにしろ自分よ。
ただ、涙と鼻水だらけの顔面では食べきれなかったそれを、自宅で夫と共に私の帰りを待っている上の2人の子ども達に食べさせてやりたいな、タッパーないですか、何で家からもってこなかったんや自分と思ったのは覚えていて、悲嘆に暮れていてもそういう所がもう関西ナイズされたおばちゃんなんやワシは。
どんなに好きなものでも、気持ちが晴れなければおいしくないことを教えられたのは、この鰻屋だったような気もするし、反対に、多少気はふさいでも、おいしいものはやっぱりおいしいと思ったような気もする。どちらにしても、食べものの味と人生の味とふたつの味わいがあるということを初めて知ったということだろうか。
これは、肺門琳巴線炎を患った際、氏の母親が病院近くの鰻屋で好物の鰻を食べさせてくれた思い出を書いた一幕だが、この時筆者小学3年生。今の私の上の娘である娘①とほぼ同じ年なのだから嫌になる、小学3年生で人生の味について考え得るだろうか、ウチの娘①なんて昨日、今度小6になる兄と鶏のから揚げをめぐって死闘を繰り広げていたが、これは一体どういう事か、そして私がそんな人生と食事の味わいについて考えたのは娘②を産んだ39歳の時なのだから、早熟な才能と凡庸な主婦とではここまで感情と感性の発達に開きがあるものか、神よ、一体どうなっているのですか。
でも『思い出に残るごはんでごちそう』を思い描いた時、あの日、我が子は、娘②はどうなるのか、あんなコードとチューブだらけの身体で明日を生きられるのだろうかと思って泣きながら食べたあの哀しい晩餐が記憶から引っ張りだされてくるのだから、人生というものは食べるという事は、そういう事なのだろうと思う。
🍙
それならば、もっと明るい気持ちとワンセットになっている『ごはん』は何なのか。
自身の脳内に検索をかけたその時出てくるのが
『アンパンマンのミニスナック』
なのだから私は本当に口が貧しいというか、人間が節約に出来ているというか。大体それパンやないかい。
それは、前述の娘②が生まれて1年と5ヶ月経った頃。
娘②はあのNICU入院中、母が鼻水と涙と悲嘆にくれた日々の後、11時間を要した手術と4カ月の入院生活を経て自宅への帰宅を果たしたものの、その時娘②の鼻には謎のチューブが差し込まれたままの状態だった。
胃管ともNgチューブともマーゲンチューブとも言われるそれは、先天性疾患、食道やその他消化器官のトラブルで食事を口腔を介して摂取する事が出来ない疾患児の栄養補給の急先鋒。そのチューブから胃に直接栄養を送り込むというもので、長い入院生活中、心臓への負担軽減と、誤嚥による肺炎を回避するためにその胃管からミルクや母乳を流し続けた娘②は
「嚥下」
という人間の基本機能をどこかにログアウト、それは忘却の彼方、何も食べなければ飲み込みもしない乳児、吸てつ反応何それおいしいの?という少々扱いの難解な赤子として自宅へ初めての帰宅を果たしたのだった。
予想外で予定外の医療的ケア児。
このまま成長したら一体この子はどうなるのか。
いいから飯を食え、飯を。
そうやって自宅に週1言語聴覚士さん、通称STさんをリハビリの伴走に1年超、ペースト状のスープや豆腐やヨーグルトを飲み込む事が出来るようになってはいたが
「咀嚼」
という事が出来ない娘②は、1回の食事量もごくわずか、1歳を過ぎて立派に生えてきた可愛い乳歯で食物以外の、ぬいぐるみや兄と姉の学用品に噛みつくばかりで、何でもいいから食べられるものを、乳幼児には多少ご法度の物でも構いません、娘②ちゃんの『好き』を見つけてあげましょうとSTの先生にも言われてはいたが、相手は物言わぬ幼児、これが食べたい作ってなど話す訳もなく、毎回あれもこれも食べてくれるならと食卓に子どもの好みそうなものを幾皿並べてもすべて手を付けず、毎日母の腹が膨れるばかりだった。
食べさえするなら何でも作ってやるのに。
オマエが食べるというなら、キャビアでもフォアグラでも。
作れるんかそんなん。大体どこに売ってんねや、成城石井か。
そう思って出かけたイオンで、大好きなお買い物カートにちょこんと座った娘②は、ひとつ袋を手に取って
「タッ!タ!」
私にそう訴えた。コレを買えと言う、いいけどそれパンやで、食べへんやんと思ったそれが『アンパンマンのミニスナック』で、幼児というものはある時突然アンパンマンそのひとの虜になる時期があるものだが、今がそうなのか、心臓の造りが今一つ生存に不向きで弱い身体に反して気が滅法強い娘②は兎に角一度言い出したら聞かない。
じゃあ買ってあげようかとレジを通ったそのアンパンマンの袋は、娘②がしっかりと袋の口を握りしめて離さなかった。食べ物とわかっているのかそれともアンパンマンのイラストが気に入っているだけなのか、私はひとこと
「娘②ちゃん、それパンだけど食べる?」
と聞いてみた。幼児が食べやすいように小さく作ってあるスティック状のパンとは言え、水分量も少なくしっかり咀嚼しないと嚥下の出来ない食べ物を娘②が食べたり飲み込んだりするとは思わなかったが、それでも。
「ン!ン!」
娘②は袋を開けろと言う。
袋を開けて一つ取り出し、手に持たせたそれを娘②は。
食べたのだった。
「ンマ!」
と言って。
それは半分程度であとは、ママこれあげるわと言って、いや喋りはしないが、私の口に突っ込んできたが。
ちゃんと咀嚼して飲み込んでいるじゃないの。
私は泣いた、苦節1年1か月、ウチの娘②は人より少々遅れて咀嚼の機能を今獲得しました。と叫びはしないが、イオンで泣きながらアンパンマンのミニスナックを齧る変な母子がそんなことしたら通報されてしまうから。
あの時のミニスナックはおいしかった。
それだけは記憶にある。
『食べものの味と人生の味とふたつの味わい』
飛び切り嬉しい時、口にしていたものは他愛のないものでもとても美味しいと、それを知ったのは自分40歳の時だ。
私はとても向田邦子にはなれそうにない。
人生の味わいについて9歳で知るような早熟な才媛にはとてもとても。
せめてこの先は美味しいものを、子供達に食べさせてやろう。
ウチの子達がうんと喜んで食べて、思い出に残してくれそうなものを。
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