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スイセイのこと 5

☞11のつづきから

僕は、うつむいたまま、耳まで赤くなってしまっているスイセイに説明を求めた、それはどういう事なのか、スイセイが結婚すると決意しても、僕の知るかぎり結婚というものには双方の同意が必要の筈だ、スイセイが一方的にそんなことを決めても、結婚は成立しない。お母さんはそれに同意しているのか、仮にお母さんがスイセイとの結婚に同意しているとして、その場合、お母さんの息子である僕と、スイセイのこの世で唯一の家族であるしらたまの立場はどうなってしまうのか、そして結婚するという事はこれまで別世帯だった僕の家とスイセイの家をひとつにまとめるということなのか。

そんなことを赤くなって俯いたままのスイセイに立て続けに聞いた、「結婚する」というスイセイの気持ちというか、一方的な決断を僕だけに突然宣言されても、僕はともかくお母さんとしらたまは少し困るんじゃないかという事を。そうしたらスイセイはおもむろに顔を上げて

「アホ!俺が1人で一方的にマリさんと結婚するとか言い出したらただのやばいヤツやろ、同意はもろとる、ほんで、俺がマリさんと結婚したらオマエは俺の息子になる。あとしらたまはしらたまや、今後も俺の家族であり続ける。あと出来たら俺はマリさんとオマエとしらたまと俺、全員で一緒に暮らしたい、以上!」

僕の顔に唾液の飛沫が飛んできそうな程勢いをつけてそう言って来たので、僕は少し仰け反った姿勢になって、スイセイは「以上!」まで言い切ってからまた下を向いた。

「以上って言われても、僕はなにひとつ了承していない。しらたまはお母さんによくなついているから一緒に暮らすこともお母さんと家族になる事もちっとも構わないだろうけど僕は」

「え!カイセイはあかんの?」

さっきの言葉を言い切ってからまだ俯いていたスイセイは、僕のこの言葉を聞いてもう一度顔を上げ、今度は身を乗り出して僕の目を真っ直ぐに見ながらこう言った、俺がオマエのおとうちゃんやとあかんのかと。

「いいとか悪いとかそういう事じゃない、スイセイは僕と会話をしても僕に急に腹を立てたり呆れたりしない貴重な人間ではあるけど、じゃあだからお母さんと結婚して、その結果、僕の父親になると今日突然言われても」

「言われても?」

「よくわからない…この件では、僕は珍しく混乱してると思う。」

この時、僕はどんな顔をしていたんだろう、鏡で自分の顔を確認できなかった事がとても残念だ、僕は、僕にしては珍しく混乱して、結果、とても困った顔をしていたんじゃないかと思う。それに僕は普段はどんな時も覚醒していれば、いや、眠っていてもいつも頭の中がずっと騒がしく動いていて、それは自分で「ちょっと今は止めておきたいな」と思ってもそれを停止する事ができない仕様になっているはずで、僕の頭の中ではいつも例えば21世紀の初めに絶滅したヨウスコウカワイルカについて、円周率について、南極のドームふじ観測拠点の測定する南極の気温について、目の前に現れた疑問について、あとしらたまのために明日買いに行くキャットフードについて、そういう事が24時間稼働しているコンピューターサーバーみたいに脳内で絶え間なくぐるぐると回っている状態なのに、この時僕は「スイセイがお母さんと結婚する」という2人の超個人的な決定事項に付随してスイセイが僕の父親になるという事を僕がどうして了承できないのか

それについて逡巡する行為自体が、突然停止してしまっていた。

フリーズだ。

「…せやな、俺はマリさんに結婚してもええよって言ってもらえて、マリさんと結婚したら自動的にオマエも家族としてついてくるて思って、ちょっと普段の倍、頭に血が上っとった、ごめん、すまん、許してくれカイセイ」

スイセイは、胡坐をかいた膝の上に自分の手をついて僕に深々と頭を下げた。

「でもなあ、あんなあ、カイセイ。俺はマリさんの事スゴイ好きなんや、あんな人この世に2人とおらん、弱々しいんか雄々しいんか、慎重なんか大胆なんか、なんや全然わからんホンマにおもろい人や、それにアホみたいに優しい、ほんで作ったもんは何食うても満遍なくうまい、そのくせ掃除とか片付けが全然好きちゃうから言うて『こういう事は家ではカイセイがやるの、だから、ハイ』て全部俺に回してくる、ほんまにおもろい。ほんで、それとは別にオマエのこともものすご好きなんや、何でかしらんけど。ちょっと前にオマエに話したやろ、大昔、俺がオマエ位の歳の頃に、地震でいっぺんに家族全員死んだて、せやけどマリさんと結婚したら、そのいっぺんに全部無くしたもんがな、今になって、いっぺんに全部俺の所に帰って来るんやて思ったらなんや嬉しくなってな」

居ても立っても居られんくなってん。スイセイは頭を下げた姿勢のまま、そう言った。

僕は、ちょっと頭を振ってみた、僕のその様子をみてスイセイはなにしとんオマエと言ったから僕は『再起動』と言った、僕は逡巡を継続しなくてはいけない、この『結婚』に関する事で僕が理解できていない点をスイセイに質問しないと、僕は疑問を疑問のままにしておく事が好きじゃないんだ。僕は言葉を繋いだ、スイセイあのさ、仮にお母さんとスイセイが結婚するとして、それはスイセイがお母さんの夫になって、お母さんがスイセイの妻になる事であって、僕はお母さんと今はもうどこにいるのか知らない生物学上の父の子なのだから、スイセイは僕の父親になれるのだろうか、それにそもそもお母さんもスイセイも2人とも別々に家を持って、別々に仕事を持っていて、別々に家族を持って暮しているのだから、2人を『結婚』という関係に更新する事に何か意味はあるのか、あと

「僕がスイセイの息子になると、僕に何かいい事でもあるの」

スイセイが1995年の1月17日に一瞬で無くしてしまった家族をもう一度持つという事を切望している事はスイセイのさっきの言葉の文脈からある程度理解したけれど、僕は5歳のあの冬に僕の人生からログアウトした生物学上の父の代理をする人間なんて今更必要ない、これまでそれでやってきたのだから。スイセイはスイセイだ、今までもこれからも、僕はそれでいい。そう言うと、スイセイは急に真面目な顔をして僕にこう言った。

「俺が死んだら俺の莫大な財産がお前のモンになる」

「そんなものないだろう、スイセイの持ち物なんて、今住んでいる古い家としらたまとカメラだけじゃないか」

「アホ!他にもレンズと機材があるやんけ、たっかいヤツが!それに莫大な財産なんかこれからなんぼでも俺が稼いだるわ!」

スイセイは僕のおでこを笑って指で軽くはじいた、さっきまで発熱を疑う程赤い顔をしていたスイセイはだんだん元のスイセイに戻ってきたみたいだ。

「でも…そうやな、マリさんと俺が結婚したかてカイセイは自動的には俺の子にはならんねやて、ちゃんと手続き、養子縁組ていうのをして、それで初めて俺の子という事になるんやて、それをしておけば、ホンマに俺が死んだら俺のモンは妻にあたるマリさんと俺の子にあたるオマエのモンや、他にもいろいろ、家族や言う証明がないと使えへん制度とか決まりが山盛り世の中にはあるんやて、俺も全然知らんかったけど。とにかく結婚と養子縁組やら言うのをしておかんとこの仕組みは使えへんやんけ、それにこれには平等を期したい、俺はこの件については急がなあかん」

そう言ってからスイセイは首の後ろに手をあてて「妻やて」と言ってまた下を向いた。赤くなったり怒ったり謝ったり俯いたり、今日のスイセイは普段の倍、挙動不審だ。

「養子縁組の件はわかった、スイセイの主張したい点もわかった、今のところスイセイに財産と呼べるものなんかひとつも無くても、もし自分が死んだら家族に自分の持ち物を全部そのまま渡したい、だからきちんと法律上の関係を結んでおきたいという事なんだろう、それは理解した。でも最後の言葉、なんでその事を急がないといけないの、平等ってどういう事」

僕がそう聞くと、携帯電話の振動する低音がかすかに部屋の中に響いた、どこだろう、この振動音のパターンは僕の携帯ではなくてスイセイのものだ、僕はスイセイの携帯電話を探した、普段スイセイは携帯を全然携帯しないでその辺に放置して全く自分で取らない、ちゃんと出るのはお母さんからの着信だけだ。僕は微かな振動を背中に感じて背後にあるソファを見た、そこには体を丸めてぐうぐう眠っているしらたまが居るだけだったけれど、僕はちゃんと携帯ありかが直ぐに分かる、しらたまのおなかの下だ。しらたまはスイセイの携帯を温めるのが趣味だから。それでそのしらたまをどかして温められていた携帯、それを確認すると画面に

『サカイさん』

と表示が出ていた。

「スイセイ、サカイさんから電話だよ」

でもスイセイは僕にソファの上からどけられて床に降ろされたしらたまを捕まえて抱き上げながら

「今、あんま出たない気分なんや」

僕が差し出した携帯にそっぽを向いたので、僕は画面をタップして勝手に電話に出た。スイセイがサカイさんや事務所の、お母さん以外の誰かからの着信をあまりにも気が付かないフリをして無視するので、最近では僕がスイセイに携帯の近くに居る時には僕が勝手に出るようになっていた。

「もしもし、サカイさん、スイセイが出たくないというので、僕が取りました、カイセイです」

僕がそう言い終わる前に、サカイさんが電話の向こう側で怒鳴った。

「あのね、そこに居るバカを、すぐに事務所に連れて来て!今すぐ!」

そして電話は僕の返事を待たずに切れてしまった。

「スイセイ、なんだか『バカ』って言われていたよ、今度は一体何をしたの」

「しらん」

スイセイはしらたまを抱いたままそっぽを向いた。

☞12

「いやや、不吉な予感がする、俺は行きたない」

歩いてそう遠くない距離とは言え、スイセイの大きな体を、僕の自宅のマンションからサカイさんの事務所まで引っ張って歩くのは割と骨が折れた。スイセイは背も高いし、肩幅もあるし、何しろ毎日重たいカメラとその機材一式を1人で全部担いで現場から現場に行く仕事をしている人間だから力もある。子どもの僕に引っ張られて歩いているんだから本気で拒否している訳ではないんだろうけれど、身長が129㎝の小学生の僕が身長190cmの威圧的な顔面をしたスイセイの腕を掴んで引っ張って歩く光景は事情を知らない他人の目には奇異に映るらしい。すれ違う人はみな一様に僕達2人が通り過ぎると振り返ってこちらを見ているし、よく黒い柴犬を連れて散歩をしている近所のおじいさんは

「ぼく、大丈夫かい、この人、お父さんかい?」

事務所のビルのすぐ目の前の信号で信号待ちをしながら、まだ「嫌や、行きたない」と言って、信号の前でしゃがみ込むスイセイと、そのスイセイを立たせようとしてその腕を両手で掴んで引っ張っている僕を見て質問をしてきた。

「赤の他人です」

「父親になる言うてるやろ」

「じゃあちゃんと立って、サカイさんの呼び出しに応じたらどうなんだ」

「それはそれ、これはこれや」

またそんな豆まきみたいなことを言う。僕は少しため息をついて、青信号になって鳥の鳴き声を模した電子音の響く横断歩道をスイセイを引っ張りながら渡り、事務所の入っているビルの中に入って、エレベーターにスイセイを押し込んで、サカイさんが待っているらしい応接室にスイセイを放り込もうとドアを開けた。そこには応接室のドアを開けた直ぐのところに普段から持ち歩いている黒い手帳を手に仁王立ちの見本のような姿勢で立っているサカイさんと、その奥のソファで座っているお母さんがいた、サカイさんはスイセイの顔を見てまず怒鳴り声に近い大声でこう言った。

「今、21週目ってどういう事!?」

ドアを開けても応接室の中に足を入れようとしないスイセイを押し込むためにスイセイの後ろに隠れる格好になっていた僕にはサカイさんの言う『ニジュウイッシュウメ』の意味がよくわからなかった、何かの予定の話だろうか、スイセイはサカイさんにドアが開くのと同時に怒鳴られて、頭をぼりぼり掻きながら更によくわからない返事をした。

「どういう事て、こういう事です、産みます」

「バカッ!アンタが産むんじゃないでしょ!マリちゃんもマリちゃんよ、何でそんな大事な事もっと早く私に言ってくれなかったの、いつ?いつからよ?そんな事になってたのは!」

「えーと、せやから、アレは俺の授賞式の3日後やから」

「そんな事聞いてんじゃないわよ!」

「サカイさん、スイセイの後ろにカイセイ…」

お母さんが、スイセイの後ろに隠れる形でその場にいた僕の事を指さすと、スイセイは自分の後ろを振り返り、サカイさんはスイセイの背後の僕を覗き込むように確認してから、深呼吸をして、そして少し声の音量を落とし

「カイセイはどこまで知ってるの」

と聞いてきたから僕は「スイセイがさっき急にお母さんと結婚すると言い出して、僕は突然すぎて言っている事が全然理解できないし、お母さんとスイセイが結婚することはともかく、これまでただのスイセイだったスイセイが、急に僕の父親になるとかそういう件について、直ぐには了承しかねると言ったところまで」と答えた、実際、話はまだ途中だったのだから。それで僕からもひとつこの場にいる大人3人に質問をした

「21週目って何の事?あとスイセイかお母さんかその他の誰かが何か産むの、リコッタが仔犬を産むとか?」

そこにいた3人はそれぞれ顔を見合わせて黙ってしまった、どうしてだろう。ああそうか、リコッタはメスだけどもう避妊手術をしていたんだっけ。

「マリちゃん、カイセイはなんにも知らないの?」

「どう言えばカイセイを驚かせずに話が出来るのか、考えてはいたんだけど…」 

「そんな事言っても、もう21週目なのよ、いくら何でも…予定通りなら年明けには産まれるんでしょ?それなのに、ここに来てその報告と説明をスイセイにやらせるのは深刻な人選ミスでしょうよ、大体こんな事、どう慎重を期して、どの時期に、どの方向から話したって流石のカイセイもびっくりしてひっくり返るわよ、それをよりによってスイセイなんかに」

「深刻な人選ミスて」

「アンタは黙ってなさい!」

サカイさんは手に持っていた大きな黒いスケジュール帳でスイセイの顔面を叩いた、何だかわからないけれど僕の事でもめているんだろうか、僕は、何か僕の感知しないところでまた何か問題でも起こしたんだろうか。

「あの、結局何のことなの、スイセイがお母さんと結婚するって言いだした事に関係あるの?」

僕はもう一度3人に質問をした、繰り返すけれど僕は疑問を疑問のままにしておくのがとても嫌いだ。そうしたら、ソファに座って少し困った顔をしていたお母さんが僕のところに来て、そして僕の前にしゃがみ込むようにして僕と視線を合わせてから、僕に静かにこう告げた。

「あのねカイセイ、お母さん今、お腹に赤ちゃんがいるの、その赤ちゃんのお父さんがスイセイ」

「それは、一体どういう経緯で」

経緯てオマエ、と言うスイセイを制して、お母さんが説明してくれたコトの経緯は、大体こんな風だった、お母さんは、最初はただ単に事務所の床で寝て、与えれば何でも食べるスイセイを面白い人だとだけ思っていたらしい。その点は同意する、あの頃のスイセイは事務所に紛れ込んだ珍獣みたいな存在だったから。けれど、スイセイはどちらかと言うと他人とのコミュニケーションに問題のある『ちょっと難しい子』である僕に果敢に話しかけ、初めは怪訝そうな顔をしていた僕も徐々に自分から少しずつ話をし始めた。それを見ていたお母さんは「カイセイに初めて友達が出来た」と思ってとても嬉しかったらしい、この『友達』という表現に僕は少し異論があるけれど。ともかくそれでお母さんは、スイセイに興味を持った。この人は何だろう、どういう人間なんだろうと、そう思っている間に、何となく毎日親しく話すようになって

「お母さんはスイセイをとても好きになったの」

お母さんはそう言った、そしてそのスイセイはお母さんの事をはじめからとても好きだった。それで赤ちゃんが出来た。その辺の経緯は今ちょっと端折っといてくれとスイセイがまた横から口を出したけど、大丈夫だスイセイ、人間の生殖と繁殖について僕は大体のことを知っていると言うとスイセイはどうしてだか黙ってしまった。でもお母さんは、赤ちゃんがお腹に出来たとわかった時、それでスイセイと結婚しようとは思わなかったそうだ、僕に赤ちゃんが出来た事を正直に話して、僕と、お母さんと、赤ちゃんの3人で今まで通り暮そうと思っていたらしい。

「どうして」

「だって、前のお父さんと離婚した日に、お母さんとカイセイで約束したじゃない「カイセイ、これからはお母さんとうんと楽しく暮そうね」って。だから、赤ちゃんはお母さんのお腹から生まれてくるから、初めからいたものとしてカウントしてもらうしかないんだけど、お母さんは仕事をして、あのマンションでカイセイと赤ちゃんと今度は3人で暮すのがいいのかなって」

「スイセイはどうするつもりだったの」

「いままで通り、一生懸命写真を撮って、カイセイと仲良くしてもらって、しらたまと暮らすのがいい、そうしましょうって言ったの。お母さんは一度結婚して、でも上手くいかなくて離婚してるし、それで色々大変な事もあったでしょう、何より、スイセイは全部何もかもこれからの人なんだから。世の中にはね、そういう風にふつうの、型どおりにしないでおいたほうがずっと上手くいくこともあるのよって」

「だから俺はそんなん絶対嫌やって、マリさんにごねたんや、子どもが出来たなら、いや仮に出来てなくても、カイセイの了承なら俺がちゃんともらうから、絶対俺と結婚してくれて頼み込んだ」

「具体的にはどうしたの」

「そこの道路の真ん中で土下座して、頼むから俺と結婚して、俺をその子の父親にしてくれ言うた。そうしてくれへんなら俺はもう死ぬって」

「そういうのはお願いじゃなくて脅迫って言うんじゃないかと僕は思うけど。でも、それで結果的に、今お母さんがスイセイとの結婚に同意しているのは事実なの」

「『カイセイがいいと言ってくれたら』って条件つきでの同意は貰っとる」

それって同意って言うのだろうか、仮契約程度の約束なんじゃないだろうか。僕はお母さんとスイセイの顔を交互に眺めて考えていたけれど、どう言葉を繋ぐべきなのかよくわからなくて次の言葉を言い出しかねていたら、そこにさっきから腕組みして僕達の様子を眺めていたサカイさんが静かに口を挟んだ

「…あのねえマリちゃん。この男は連絡はスルーするし、クライアントとは喧嘩するし、その辺に大事な契約書とか領収書は捨てるし、撮影と作業が込んで来たら3日も4日もお風呂に入らなかったりするし、本当にろくでもないけど、お腹の子の父親である以上責任は取らせないと。性格は子どもみたいだし、生活は滅茶苦茶だし、月次の収入は月ごとに0か100かってくらいに不安定極まりないけど、年額でいうと今、結構稼いでんのよこの男は。あと本人の前であんまり言いたくないけど、才能があってそれを腐らせないために真摯に努力ができる人間だと私は評価してる、それ以外の事は完全に破綻してるけど。それにマリちゃんの、思い出したくもないだろうけど前のダンナ、アイツとは根本的に全く違う人間なのよ、バカだけど悪人じゃない、他人に対してちゃんと情のある男よ、だからね、勇気を出しなさい。それにマリちゃんがいくら今、それなりに仕事では安定した場所にいるからって、フリーランスはフリーランスなんだから」

子どもに父親が絶対に必要かと言われたらそうでもないけど、お金と人手は絶対に必要よ、と言ってサカイさんはふうと肩で息を吐いた。サカイさんはさっきのお母さんとスイセイの説明で大体を納得できたのだろうか、僕は今一つわからない事が多いのだけれど、サカイさんはお母さんの仕事のマネジメントをしてきたパートナーだ、お母さんの性格の大体のことはわかっている、お母さんの思い切りの良さとか、でも場合によってはその思い切りの良さが急に消え去る瞬間があるところとか、そういう事を。そしてサカイさんは一旦自分が飲み込んで了承した事案に対して、対応がいつもとても迅速だ。

「とにかく、一度来年までのスケジュール調整をきちんとしましょう。マリちゃんの体の事を最優先で考えないと、産んだらしばらくは書く方の仕事に重きを置く方向で。それと、一応マリちゃんはメディアにも結構出ている人間だからプレスリリースと、姓はどっちのにしてもらっても問題ないわ、2人とも活動上の名義は名前だけだから、結婚の件、私は了解しました。あとはカイセイにちゃんと話をしてあげなさい。マリちゃん、おめでとう。スイセイは明日から死ぬほど働きなさい」

そう言うとサカイさんは、僕にだけ聞こえる声で「あの男がマリちゃんを泣かすような事があったらゴルフクラブで殴ってやんなさい、でもいいヤツよ、知ってるだろうけど」と耳元でささやいて応接室を出て行った。

そして、僕達は応接室に残された。

僕とお母さんと、赤ちゃんと、スイセイ。

おかしな組み合わせだ、才能はあっても性格と生活が破綻している写真家のスイセイ、他人とのコミュニケーションや感情の発露に問題だらけの僕、変な方向にだけ思い切りが良くて僕の知らない間に妊婦になっていたお母さん、そしてついさっきまで僕が存在を知らなかったお母さんとスイセイの赤ちゃん。

「お母さんがスイセイと結婚しないでおこうと思ったのは、昔、僕と約束した事が原因なの」

僕は改めてお母さんに聞いてみた、生物学上の父が僕達の人生から居なくなったあの日にお母さんが僕に言った「カイセイ、これからはお母さんとうんと楽しく暮そうね」という約束を反故にできないからお母さんはスイセイと結婚できないと思ったのか、それともただ単にスイセイと結婚したくないと思っていただけなのか。その僕からの質問にお母さんは少し考えてから、

「うーん、色々な事が合わさってそういう結論になったって事なんだけど、カイセイがスイセイといくら仲良しだからって、いつもの生活が突然変わってしまったらカイセイは混乱するんじゃないかと思ったというのはあるかもしれない、カイセイは環境が変わると調子が悪くなるもの、小学校に入ってすぐの時もなかなか自分のペースがつかめなかったでしょう、だからこれまでずっとカイセイがお母さんと2人で暮らして来た環境を突然変えてしまって、またカイセイが自分の調子を掴めなくなるのはどうかなと思って、タチバナ先生もね『3、4年生の年ごろはこの手の子どもには大きな岐路です、とにかく慎重にいきましょう』って仰っていたし。でも、何よりお母さんは結婚に向いてないのかもしれないなと思って」

だから、どちらかと言うとお母さんの問題なのよ、何かカイセイのせいで結婚しないって言ったみたいな話の方向になっちゃったけど、違うんだからね、そう言って僕の頬を両手で包んで来た。お母さんが落ち着きたい時に必ずする儀式だ。

「あの、お母さんはふたつ勘違いをしていると思うんだけど」

僕は僕の前にしゃがんだままの姿勢のお母さんを立たせて、ソファにもう一度座らせてから僕の考えをちゃんと説明した。

「まず「これからはおかあさんとうんと楽しく暮そうね」というあの約束は、スイセイと結婚したからと言ってそれを反故にしたことにはならないと思う、だってあの時お母さんは「2人で」とは言っていないんだから、そこに人数を限定していないだろう、だから。あともうひとつ、スイセイが僕の生活に闖入したところで僕の生活に大きな支障は出ないと思う、だって僕の生活は2年生の途中からスイセイに色々邪魔されっぱなしなんだ、もう慣れた。ただ、急にスイセイが「父親」になるという事に違和感があるだけだ。だって僕には生物学上の父はいるけど、「父親」の機能を果たす人間なんて生まれてから今までずっといなかっただろう、だから、そういう人間は僕の人生には多分これからも必要ないと思う。スイセイと家族になるのは構わない、でも父親とか言う役割の限定というか切り替えをしないでほしい。僕にとってスイセイはスイセイだ、今までもこれからも」

それを約束してくれるなら、僕はお母さんとスイセイが結婚して、それで家族をひとまとめにするのは構わないと2人に言った。物理的に家をどちらか一方にまとめてしまえば、例えば、僕がスイセイの家でしらたまの面倒をみてから歩いて自分の家に帰ったり、スイセイが僕の家に忘れて行った機材をスイセイの家に届けたり、スイセイと連絡がつかないからってサカイさんに言われて、スイセイの家まで行ってそこの玄関でスイセイが前の晩から酔っぱらってそのまま眠りこけているのを起こしに行かなくてもていいという事なんだろうし、それはとても便利だ。それなら僕達が便宜上家族になるのもちゃんと意味があるんじゃないだろうか。

「便宜上て、便利かどうかで判断すんのかオマエは」

「あと、スイセイの莫大な財産が僕達のものになるらしいよお母さん」

僕の言葉を聞いて「そうなの?」と言ってお母さんは笑った。だから僕はスイセイがそうしたいのなら、お母さんと結婚して、それと同時に僕を養子縁組するのも構わない、その事でスイセイの言っていたスイセイの中で考えている平等というものが保てるのなら。スイセイが僕の法律上の父親になって、それでも僕にとってのスイセイがスイセイのままでいてくれるのなら、それをスイセイは

「約束してくれる?」

僕がスイセイを見上げてそう聞くと、スイセイは僕の頭をくしゃくしゃとかき回してから

「約束する、ほんで、ありがとう」

スイセイのありがとうは、関西なまりの「ありがとう」だ、3音目が上に少しあがる「あり【が】とう」。僕はこれまでスイセイと過ごしてきてこのありがとうが少し伝染って来てしまって、たまにお母さんの前で出そうになる。僕達が便宜上の家族になって、それでスイセイと24時間暮すようになったら、このスイセイの関西なまりは僕にもっと伝染するんだろうか。

「あともうひとつ、聞きたい事があるんだけど」

僕はスイセイのせいで、スイセイみたいな鳥の巣の状態になった頭髪を手で撫でつけて直しながら、もうひとつ質問をした。

「その胎児はいつ生まれるの、男の子?女の子?」

スイセイは、お母さんと顔を見合わせた、多分僕が、赤ちゃんに、というよりも人間に興味を持つ事が珍しいからだと思う、でもそれは大きな誤解だ、僕は生き物なら割と好きだ、猫とか犬とかパフィンとか。胎児は特に喋らないし僕にとっては人間以外の生き物の一種だ。それで今度はお母さんがほんの少し微笑んでから僕に教えてくれた

「予定日は1月17日。性別はついこの前分かったんだけど、多分女の子だろうって」

カイセイの妹になるんだよ。そうお母さんは言ったけれど、僕はその点については全然実感が無くて、お母さんのお腹を少し注意して見てみたけれど、そこに赤ちゃんが潜んでいるようには見えないし、第一僕は兄弟とか妹とかそういうものについて考えた事が無い、だから取り立ててそのきょうだいというものに特別な感想とか感慨みたいなものは僕の中に発生したりはしなかったのだけれど、でも

「スイセイの死んだ妹と同じ、女の子の赤ちゃんなんだね」

「おう」

スイセイの家族は、ちょっと形を変えるけれど、時間と空間を超えて、あの四半世紀前と同じ日を予定日にしてスイセイの所に本当に全部いっぺんに帰って来ることになった。

☞13

その、スイセイとお母さんの結婚は、周囲の人達に絶叫に近い驚きを持って周知された。

「マリちゃん、正気なの、引き返すなら今よ」
「苦労が目に見えてる」
「犯罪」
「何かよくわかんないうちに結婚することになったって本当ですか、人外魔境みたいな話じゃないですか」

事務所のスタッフや、在籍しているデザイナーさん、ライターさん、編集さん、そういう人達の反応は大体こんな感じだったけれど、お母さんのお腹に赤ちゃんがいて、それが年明けに産まれると聞くと今度は皆一様に突然相好を崩して

「赤ちゃん、男の子?男の子?マリちゃん産後いつ復帰する予定なの?もうこのスイセイの机退かしてベビーベッド置くからここに連れて来てみんなで面倒みましょう」
「やだ、新生児とかスゴイ久しぶり、絶対抱っこさせてね」
「今何週目?23週?もう安定期ね、体調はどうなの」
「マリちゃん、お腹あんまり目立たないわね、それに薄着じゃない?冷やすのは駄目よ」

そんな風に結婚の報告の時とは全く違う方向で皆、大騒ぎを始めた。サカイさんがお母さんとスイセイの結婚とお母さんの妊娠を事務所のスタッフの人達に発表する前日に

「ウチのスタッフはほとんどが子持ちだから、明日、みんな舞い上がって大騒ぎになるわよ。経産婦というのはねえ、高確率で新生児が大好きなものなのよ、カイセイ」

パソコンで仕事をするフリをして、小さな赤ちゃん用の洋服や靴下をずっと見ているサカイさんがそう言っていて、僕はどうして他人の赤ん坊に他人が喜んで大騒ぎするのだろう、そんな事あるのかなと思っていたけれど、目の前に広がるこの光景はサカイさんの言った通りの大騒ぎだった。みんな、仕事はしなくてもいいんだろうか。

「スイセイ、犯罪だって言われてるよ」

「祝うか、くさすかどっちかにして欲しいんやけどな」

スイセイはそう言いながら、それでも嬉しそうに事務所に置いてあった桜の塩漬けの乗ったあんぱんを勝手に食べていた。

「カイセイもいるか?あんぱん」

「ありがとう、いらない」

それはいつものやり取りだ。僕達は、スイセイとお母さんが結婚して、そして僕とスイセイとお母さんで養子縁組の手続きに家庭裁判所に行き、手続き終了と同時に法律上の親子になったけれど、それで特に何かが変わった事があるのかと言えば特に何も変わらなかった。相変わらずスイセイはスイセイで、僕は僕だった、あの日約束した通りに。

でもひとつだけ、僕は大体事務所に寄った日は夕方の空が藍色になる頃に家に帰るのだけれど、スイセイも夜に何も仕事が無ければカメラの入った重たいケースを抱えてその頃に家に帰る。そのいつも通りの僕達の帰路が同じになった。

僕達は便宜上の家族になったから。

スイセイと僕とお母さんとその中の胎児は全員一緒に暮らすという形を取る事になって、もともと2つあった家をひとつにする事にあの日応接室で取り決めた。それは物理的に僕とお母さんの暮らしているマンションと、スイセイの住んでいるあの築45年の木造住宅を合体させる訳にはいかないから、どちらかを処分して一方に固めるという話なのだけれど、僕とお母さんの暮らしているマンションは賃貸だし、スイセイの家はほとんどただ同然で貰った古い木造家屋だけれどスイセイの名義になっている持ち家だから

「私とカイセイがスイセイの家に引っ越すのがいいんじゃない、スイセイの家に引っ越したとしてもカイセイの学区は変わらないし、それにしらたま君を長年暮した家から今更引っ越しをさせるのは可哀相だと思うの、そもそもそのしらたま君があの家でずっと暮らし続ける為に、大家さんがスイセイに安く譲ってくれた家なんだから、そこはちゃんとしないとダメよね」

と言ったのは、この便宜上の家族の中で多分一番普通の人間であるお母さんで、僕はあの家はお風呂がよく壊れているし天井からムカデとかネズミが降って来て割と危険だけど大丈夫と聞くとお母さんはこともなげに

「お母さん、スイセイの家でそういうの結構退治したことあるのよ、平気よ」

そう言っていて、僕はお母さんの意外な特技を知る事になった。それでスイセイとしらたまの家の元々の持ち主だった、今は海の近くの老人専用のケアマンションという場所で暮らしている大家さんに、しらたまに新しく家族が増える事になった事と、しらたまとその新しい家族が同居することを許諾してほしいとスイセイが電話で連絡をした。そうしたら大家さん、正確には大家さんだったおじいさんはその事をとても喜んでスイセイに手紙とお祝いのお金を送って来てくれて、その手紙には

「あの、家賃を何ヶ月も払えなくて、電気もガスもしょっちゅう止められて、今時分、秋の深まる季節にはウチの庭の柿を勝手にもいで食べていた君に妻と子どもが、それも2人も一度にできるなんてとても喜ばしい事です。おめでとう、奥さんとお子さん方を大切に、家族のある人生はとても尊いものです」

そんな文章が達筆な毛筆で書かれていて、スイセイは首をかしげながらその縦書きの文章を読み

「なあ、これは素直に喜んでおいていいヤツか?」

と言うので僕は

「よくわからないけど、スイセイは昔も今も勝手になんでも食べるんだね」

そう答えたらスイセイは大家さんが手紙に書いていた、むかし今頃の季節にスイセイの食生活を支えていたと言う柿を取りに庭に出て行った「目の前に生えてんのに誰も取らへんモンはそら取って食うわな」と言って。そう言うの泥棒っていうんじゃないだろうか。スイセイは以前も言っていたけれど、今お母さんのお腹にいる胎児以外、血の繋がりのある家族が死に絶えているので、お祝いに手紙を添えて送って来てくれるような人はこのお爺さん位だったし、仕事先でスイセイがお母さんとの結婚を報告してもその周囲の人達からは「本当に大丈夫なのかオマエ」とか「…それはおめでとうでいいんでしょうか」とか「奥様になる方は大変ですね…」とかいう反応ばかりが返って来るらしい、それでスイセイはここの所少しいじけている。僕はスイセイのその話を聞いて、因果応報という言葉を思い出した。

でもスイセイには、あと1人だけこの結婚についてまともなお祝いの言葉をかけてくれる珍しい人間がいた。それは僕がいつも月に1回、僕が病院で診察と言う名の雑談をしている小児精神科医のタチバナ先生で、スイセイは以前、僕が同級生に肩を押された拍子に学校の階段から落ちた時に、偶然タチバナ先生と会って少しだけ会話をして、それでどうしてだかタチバナ先生にとても気に入られて「また病院にも来てよ」と言われていたけれど、そもそもタチバナ先生は小児科医なんだからもう成人しているスイセイを診察する機会なんか一切無いし、当の本人も

「精神科っちゅうのも、俺には一生縁がない気がするねんな」

と言っていて、繊細とか真面目とか長考とか逡巡とかそういう言葉からは遠くかけ離れた直感と本能の世界で生きているスイセイについて僕もそういう印象を持っていたので、タチバナ先生とスイセイの2人はこの先、偶然以外の方法で出会う事は無いと思っていたのだけれど、僕とスイセイが法律上の親子で便宜上の家族になった事で2人の再会の機会が巡って来た。僕の定期検診とお母さんの妊婦検診の日が被ってしまって、じゃあどちらかの予約日をずらそうかという話になった時に、その日、体の空いていたスイセイが

「そんなん俺が一緒に行ったるやん。そんでそれが終わったら、マリさんとこ行って、赤んぼのエコー写真見せてもらおうや」

これはアレやろ、法律上の父親としてはやってもかめへん事なんやろ、と言ってスイセイはその日、僕の付き添いとして嬉しそうに僕についてきた、僕は1人でも全然構わなかったのだけれど、スイセイはタチバナ先生にもう一度会いたいと言う。スイセイが言うには「あの人はかなりまともなおもろい人」らしいのだけれど、僕はスイセイと意気投合している時点でだいぶ変わった人なんだとあの日以来思っている。

それで、スイセイを連れて小児科の外来まで行き、僕が診察券を受付に出して、少しだけ待合室の小さな椅子に座って待ってから、呼び出された僕の呼び出し番号の点灯するいつもの診察室に入った瞬間にスイセイと僕は同時にこうタチバナ先生に告げた。

「あの、この子のお母さんと結婚したんで、俺がこの子の父親になりました」
「スイセイが僕の法律上の父親になって、結果、便宜上の家族になりました」

タチバナ先生は僕の背後に付き添いとしていつものお母さんではなくて、スイセイが立っていた事にまず驚いて、それから僕達2人の言葉を、これは僕とスイセイが同時に言葉を発してしまったからなのだけど、聞き取ってから内容の理解までにタイムラグが発生したらしくタチバナ先生は僕達の顔を交互に見てから、そして少し考えて

「ええとそれは、2人して僕を担ごうとかそう言う話ではない…よね?」

という確認をした。だから僕はタチバナ先生にきちんと事情を説明した、スイセイとお母さんの間に赤ちゃんが出来た事、それはこの年明けに産まれる事、お母さんはスイセイとの結婚を一度断っている事、でもスイセイが絶対引き下がらなくて道路で土下座したこと、あと、僕がスイセイがスイセイのままでいてくれるのならこの結婚は特に反対する気持ちがないと話し合った事。

「結果、今お母さんとスイセイは結婚して、僕はスイセイの養子になりました。それでふたつ家があるのは無駄だから全員一緒に暮らしています、つい最近引っ越しました。それで法律上の父で、便宜上の家族です。でもスイセイはスイセイです」

僕がかいつまんでそう話すと、スイセイはオマエが話をまとめると、何や無味乾燥な話になるなもっと感動的な話なんやぞこれはと言ったけれど、タチバナ先生は笑顔で

「そうかあ、おめでとう。あのお母さんなら君にお似合いだ、素敵な人だよ、何というか屈強な人だよね」

「…屈強ですか?」

僕はタチバナ先生の言ったお母さんの屈強さについては思い当たる節があった、ムカデや害獣を自分の手で仕留められるところとか。でもスイセイは小柄なお母さんのことを「風が吹いたら飛んでいきそうに見える」といつも言っていて、タチバナ先生のこの言葉に首を傾げた、あのマリさんのどこの辺りが屈強やと思うんですか先生と言って。

「あのお母さんは強い人だよ、一見控えめでたおやかな人に見えるけど、精神構造がとても頑健だ。料理研究家だけど、文筆業もされているよね。ウン、何でもいいんだけど、自分の方法で自分の事を表現をできる人はとても強いんだよ、アーティスティックな仕事の人って、一見センシティブで脆そうに見えるし、勿論そういう側面もあるんだけど、何か作るとか書くとかそういう作業で自分の事を俯瞰で見る事のできる人は本来とても強いものなんだ。君も、そうなんじゃないかな」

そしてそう説明した後、タチバナ先生は今度は逆にスイセイに質問をした。

「それで、君の写真は、妻と子ども2人を得て、ああカイセイ君は『法律上の』子どもだよね、君たち2人の関係性は変わらないんだ、それも大切な事だよ、でもそうやって自分の生活に大きな変化があって何か変わるのかな」

これは僕の診察の筈なんだけれど、僕はそう思ったけれどそれについては何も言わなかった。隣の診察室の小さな丸椅子に座ったスイセイが、天井を見ながら答えるべき言葉を真面目な顔で考えていたからだ、とても珍しい事に。タチバナ先生はスイセイの写真がどうして家族が出来た事で変わる可能性があると思ったのだろう、僕もその答えが聞きたかった。でも、スイセイは天井から視線をタチバナ先生に移して腕組みしながらこう言った。

「変わりませんね」

「変わりません、強いて言えば、俺の中にある空洞みたいなモンを凝視する力が強くなったんと違うかと思います。でもそれだけです。自分に子どもがでけたからって、妻がおるからって俺の写真は変わりませんね、あれは俺そのものなんで。俺は何が、例えば明日地震が起きて潰れて死んでも俺です、変わりません」

僕はこの『空洞』が何を指すのか、それは実際にスイセイの体に穴が空いているのか、それともまた何か別の意味をもつ事なのか、それがよくわからなくて少し考えた。でもこの前、家のお風呂が古くて保温が利かないからお母さんが男は2人にまとめてお風呂に入りなさいと言われてスイセイとお風呂に入ったけれど、そしてもう少し前にはスイセイと銭湯にも言ったけど、その時見たスイセイの体の表面には穴なんか開いていなかった、じゃあそういう話をしている訳ではないのかもしれない。タチバナ先生はこのスイセイの回答を聞いて、嬉しそうに

「ウン、それを聞いて安心したよ、君の人生がどう変化しても君の本質は変わらない、浮足立って何かを変えようともしていない、それはとてもいい事だよ。僕はね、少し前にカイセイ君のお母さんにも伝えていたんだけど、今この時期、9歳とか10歳位の年齢がカイセイ君のような『ちょっと難しい子』にとってはとても意味のある大切な時期だと思っているんだ、勿論思春期なんかも難しいんだけどね。でも例えば学校ではもう低学年じゃないからという事で少し扱いが変わる、そうなると家庭でもその空気を感じ取った保護者が徐々に手を離し始める。でも、この…こういう子はとても環境の変化や他者からの扱いの変化にとても敏感なんだ、もともと知的に高度で、更に年齢が上がって出来る事がどんどん増えるからって、そこで周囲の大人がその子の行動や内面に気を配らなくなると、これまで積み上げてきたものが一気に総崩れしてしまう。その点、君が以前と変わらないままカイセイ君と付き合っていくつもりなら僕は安心だ、大丈夫、そうであるなら君達はとても相性の良い2人だよ」

僕は、タチバナ先生と会話をしていると、とても不思議な気持ちになる事がある。僕は、精神構造というか、頭の感情の接続が多分ふつうとかなり違う、だからそれを何とかしてお母さんを困らせないようにするために毎月ここに来ているのだけど、タチバナ先生は、あの「不快と思ったら教室を出なさい」という指示をした時くらいしか、僕にああしなさいとかこうしなさいとか言う指示を一切出した事が無い。むしろ、いつも大体「君は今はそれでいいんだ」と言って僕が大急ぎで変わる事を指示もしないし何かを諭しもしない。それを今日、どうしてですかと聞いてみた。そうしたら

「人間の根本的な本質というのものは、今、君のお父さん…法律上の父だったね、この人が言ったみたいにそんなに変わらないものなんだ。むしろ無理に変えようとすると歪んで壊れてしまう。だからね、僕が君と一緒にしようとしている事は、その本質を変える事ではなくて、感情のいくつかがどうしてもうまく繋がらないなら繋がらないで、その繋がらない君が君自身とどう付き合っていくのか、それを一緒に考える事なんだよ」

そう言った。そして

「でも君は初めて僕と会った時より、表情が出てきた、それに戸惑ったり怒ったりできるようになってきている。大丈夫だ」

それが、その日の診察の最後にいつもタチバナ先生が僕に告げる、今月の僕の評価だった。僕はそれを完全に理解した訳ではないけれど、わかりましたと言い、スイセイは、カイセイは怒ると顔がマリさんによう似とるんですわと言って笑った。

☞14

診察室を出ると、小児科の外来の小さな椅子にお母さんが座って待っていた。直ぐ近くにある産婦人科の病院の診察は、意外と早く順番が回って来て、もう終わったのだと言う、それでお母さんがタチバナ先生のお話どうだったと聞くので。

「なんだか、今日はスイセイの診察みたいだった、スイセイが結婚して子どもが出来て、スイセイの写真は何か変わるのかっていう事を先生が聞いて、スイセイが言うには自分の中の空洞は妻と子どもが出来ても死んでも絶対に変わらないんだって」

何のことか僕にはよくわからないし説明してほしいんだけど、と僕が言うと、スイセイはええねんそれでそういう事やねんと言い、お母さんは

「そう、それならよかった。お母さんはね、スイセイの写真が凄く好きだから」

そう言って嬉しそうに笑った、それもあって結婚はしない方がいいんじゃないかと思ってたんだけど何の影響もないならよかったと、そんな風に言いながらハイこれと言って持っていたカバンの中から何枚かの表面のつるつるした小さな紙片を僕に出してきた。

「これ何?」

「赤ちゃんの写真」

その紙片の表面には、立体的な胎児の顔が映り込んでいた。初めて見る白黒の色の無い世界の中で眠る胎児のその顔は、僕にはお母さんに少し似ているように思えた。

「今日4Dのエコーを見せてもらったんだけど、最近はこんなに赤ちゃんの表情まで鮮明に見えるのねえ、ホラ、この鼻の形なんかはカイセイによく似てる、可愛いでしょう」

「へぇ、カイセイに似てるんやったら、マリさん似って事になるんか、そんなら別嬪やな。ほんでもこの写真はなあ…もう少しアングルと構図を考えて撮られへんのかいなあの先生は」

「エコー写真なのよ、一眼レフのカメラで撮るのとは全然違うんだから」

「いや、俺ならもっとうまい事撮るけどな、エコーでもコンデジでもiPhoneのカメラでも何でも」

写真を持っている僕を両側から挟む形で写真の講評をするお母さんとスイセイの間で僕は写真の胎児を凝視していた。僕はお母さんに似ていると思ったのだけれど、お母さんが言うには僕に似ているらしい。その鼻とか、唇とか、目を閉じたままだけれど、多分二重に見える目とか、小さな手とか、そいういう物を見ているとなんだか僕は背中がかゆくなるような、少し足元がふわふわするような不思議な感覚になった、あまり僕には無い事だ、それで僕は思わず

「この写真貰ってもいい?」

とお母さんに聞いた、お母さんは僕が突然そんな事を言い出したので不思議そうに、いいけど貰ってどうするの聞いてきた、僕は

「僕の部屋に飾る」

そう言って、この日はこのまま遅刻して学校に行く事にしていたから、その時背負っていたランドセルから国語の教科書を1冊出してそれを折れたりよれたりしないようにそこに丁寧に挟んだ。僕のこの行動を横で見ていたスイセイは僕に

「そんなん、あと数ヶ月待てば直ぐ本物に会えるし、それに生まれたら俺がなんぼでももっとええ写真撮ったるのに」

そう言ったけれど、僕はこれでいいんだと言った、僕はなんだかこの写真が大切なもののように思えたから。それで僕は、学校の前まで付いてきたお母さんとスイセイに校門の前で別れる時にこう言った。

「スイセイ、お母さん、僕は今日、可愛いとか大切とか愛しいとか?そういうの、ほんの少しだけ解った気がする」

それは、妹の事だ。

僕はその日、家に帰ってから妹の写真をお母さんが用意してくれていた小さな木のフレームの写真立てに入れて、自分の勉強机の上に飾った。

6に続きます(多分来週公開します)

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