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1年生日記(7日目)

4月16日

付き添い7日目、7というのは質感、音、形、全てがきれいな数字だと思う。その上、涼しい見た目に反していざ手に取るとほんのり温かい気がする。一見ひどく冷たそうに見える美人に意を決して話しかけてみると、意外に朗らかでまったく気取らない人だったと、そういう感じ。

でもうちの15歳、現在高校1年生から言わせるとそれは

「7はメルセンヌ数であり、メルセンヌ素数である、綺麗かどうかはしらん」

ということで、なんで数字の質感を気にするねんということのよう。尚この15歳の同級生には4月のクラスオリエンテーションで「一番好きな数字は57」と答えた子がいたのだそう。それは『グロタンディーク素数』のことで、クラスの半分以上が「57」の時点でフフッと笑ったそう。楽しそうでなによりだし、わたしもそこにちょっと混ざりたい。

ともかくも、神様がこの世界を作られたのが7日間(正確には6日で作って1日休み)であるように、7日間を過ごせばなんとなしに、その場所が見えてくる。

今のところ、ウッチャンと小学校の相性は思ったより悪くなく、敵は疲労とおトイレと、あと偏食だ。

7日間学校生活を送ってみて、ウッチャンは疲れのポイントが決まっていることが分かった、大体は授業の終盤。

小学生は45分授業が通常だけれど、朝「起きろ急げ」と急かされてお布団から這い出て、お着換えをして、朝食を食べて、身支度を整えて家を出て、辿り着いた学校で朝の手順に従ってランドセルから荷物を出し、提出物を出し、ランドセルをロッカーに仕舞う。その段階でもう疲れているのだから、皆と同じ45分間を耐えられると考えない方がいい。

「授業が始まった30分後くらいに一旦支援教室に行って休む、くらいのリズムでいいのかもしれません」

ということで、ウッチャンにとっての支援教室というのは、完全にセーブポイントと化した。一日の大半を、給食も普通級の教室で1年の同級生みんなと過ごすことがきまったウッチャンは幼稚園時代同様、大人用の巨大な酸素ボンベのバッグをカートに乗せて自力で運ぶことがデフォルトの姿となった。

『朝、ウッチャンと登校して、2時間目の途中までウッチャンの様子を見て、その間介助が必要な場合はわたしが介助をして(おトイレや酸素ボンベを持っての階段移動など)、他の担当児童の様子を見てからウッチャンのクラスにやって来る支援学級の先生にウッチャンを引き継いで一旦家に戻り、家に残してきた家事などを少し片づけてから、また4時間目の途中に学校に戻りと服薬の確認などをして、その頃切れるであろう酸素ボンベを新しいものに付け替え、その後ウッチャンと共に下校する』

というのが、これからしばらくの流れということに決まった。保護者と学校と児童、互いの安心と安全を考慮して、ウッチャンに一番熟達している保護者のわたしは少しずつ少しずつその手を離していく。

医療的ケア児の就学を巡る制度とシステムはほんとうにクソ…ではなくてまだまだ改善の余地のある未開の更地ではあるけれど、その更地の現場でウッチャンの未来を一緒に作ってくれるひと達のことをわたしは自分の味方だと思いたいし、そうなってほしいと思う。だから無茶なことはしたくない。

ウッチャンが産まれて長く病院いた頃もそう思っていたし、地域医療にウッチャンを託した退院後もそう思っていたし、幼稚園に入った時もそう思っていた。勿論、今小学校に入学した今も。


ところで付き添い登校は、付き添い入院のあの日々によく似ている。

親がぺったりと子に付き添い、必要なケアと介助をタイミングよく差し出す。6年もそういうことを続けていればそれはもう阿吽の呼吸というか、モチ付きの杵担当と臼担当というか。最初は慣れなかったアレもコレもまあまあうまくできるようになった。

しかし付き添い入院は、我が子の食事とか排泄とか何なら歩行すらオール介助の、全力甘やかし方向いいのだけれど、学校はできることを増やして子どもの生きる力を培う所であり、全力で全介助をする場所じゃない。それはよく分かっている、しかし例えば国語の時間。

「机の上に貼ってある、自分の名札を見て、このプリントにお名前を書きましょう!」

という課題が出た今日、ウッチャンは最初、そのプリントにでかでかと自分のお名前だけを書いた『ウッチャン』と。それで廊下にお庭番の如く控えていたわたしはつい、廊下からにゅっと首を出してウッチャンにささやいた。

(みょうじは?みょーうーじ!)

ウッチャンは、わたしのささやきに「アッ、ソーカ!」と呟いて、筆箱から消しゴムを取り出し、紙に大きく書いた自分の名前を消して、今度はやけに小さく自分の苗字と名前を書いた。

給食の時なんかもそう。給食開始2日目から「別室にするとやっぱり淋しいし、手間も時間も(本人が移動するための)体力も使ってしまう」ということで、結局普通級でクラスのお友達と一緒に給食を食べることになったのだけれど、他のお友達と一緒に食事をすると、ウッチャンの偏食の際立つことと言ったら

「食べられないと思うおかずやゴハンは減らします」

という先生の呼びかけに、極限までお皿の上の食べ物の量を減らして貰っても「はあ」とため息をついてはご飯を口に入れ「ふう」と深呼吸してから牛乳を飲む。その間に残ったおかずやゴハン、それからお休みの子の牛乳を巡ってじゃんけん合戦が始まる。

給食大好き!

という風情の、大変に快活な子ども達が旺盛な食欲が、わたしには結構衝撃だった。

なにせわたしの産んだ3人の子どもらときたら、真ん中の12歳は今そうでもないけれど、とにかく小さな頃は皆えらい偏食で、見慣れない食べ物を見るとものすごく不審そうな顔をしてまずそれを口にしてくれなかった。ウッチャンの兄15歳なんてかつて給食で出てきた『キャラブキの佃煮』をどうにか口には入れてみたものの、咀嚼することも嚥下することも断固拒否して結局口腔内に持ったまま帰宅したことすらある、あれもたしか小学1年生の時だった。

そんな訳で、お友達が順調に白飯を食べ、おかずを咀嚼し、牛乳を嚥下している隣で、一向に給食に終りが見えないどころか、もうあきらめて中庭の花壇をぼーっと眺め始めたウッチャンに

(ぎゅうにゅうは?飲んだのッ?)
(よそみしてないで、あとひと口!)

と、膝をかがめてそっと横に寄り添いささやき続けるわたしの姿はかつて一世を風靡した船場吉兆のささやき女将。

子どものケア全般、全部が親の持ち場だった病院や自宅と違って、学校は先生方の指揮する教育という場であって、わたしが全てをやって支持を出す場所ではないのだけれど、ここにきてわたしは

「介助と手出しの境目ってどこ?」

という疑問の中に放り込まれてしまった。

ウッチャンには将来的に自身のケアや体調管理も含めて自立をしてほしい、そして周囲のお友達は親つきで登校なんかしていない、お母さんが手助けをしてくれることはないのだ。しかしウッチャンは医療的ケア児であり、心肺機能はひとよりかなり脆弱にできていて、そして何より発達も全体を通せばやや遅れ気味、どこまでをどうすれば。

「が、ガイドラインをください」

付き添い親は一体どこまでのことを学校に求められるのか、どこまでやると「お母さん、それ、やりすぎ」ということになるのか、なにか確定事項の決まりというものはないのか、わたしはささやき女将のポジション(ウッチャンの耳元)で自問したけれど、そんなものはない。

だって、病児に付き添って入院している親も、そして医療的ケア児に付き添って登校する親も『本来はないもの、いない人』なのだから。

それってちょっと寂しいな。

昼間、駆け足で日用品の買い物をして一瞬帰宅した自宅で、洗濯物を干し、床を磨いてその隙に台所で納豆ご飯をかき込みながら、ウッチャンと同じ年の、胃ろうだとか、気管切開とか、そういう医療的ケアを抱えてこの春、小学校、もしくは支援学校という戦場に乗り込んだ仲間達はどうしているかな、わたしのようには思っていないかなと、すこし考えたりした。

乳幼児期のあの手術と入院だらけの山をともに越えて来たみんなたちお元気ですか、わたしは「思ってたんと違う」ことばかりの公立小学校で何とかやっています。ウッチャンは小学校を意外と気に入った様子です。わたしはそんなウッチャンのために廊下にほぼ立ちっぱなしで、今日は膝が痛いです。


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